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「楽勝だったな、聖人」
同級生に声をかけられた。
「ああ」
伊藤は、顔を上げ、短く応えた。
伊藤はそう返したが、実はきわどいところだったと思っていた。
最初のぶつかり合いは、おや、と思うほど、強かったのだ。
気力が充実しているものの、それだった。
今は、休憩中だ。
伊藤は、赤組の応援席で、みんなと一緒に腰を下ろしている。
白組との試合の、最後の場面を思い出した。
突っ込んだ時、田中の焦った顔が見えた。
それで、首を獲れると思った。
騎馬戦では、先に冷静でなくなった方が負ける。
万能の聖人。
そう呼ばれている。
高校生にもなれば、それがどれだけイタイことかは、わかっていた。
伊藤にとって、そう呼ばれることは、ただただ、恥ずかしいことだった。
伊藤は、自分が完璧ではないことを、よく知っている。
だから、理想に近づけるためにはどうすればいいかを、常に考えていた。
昨日全くできなかったことが、
今日突然できるようになる、なんてことはない。
全くできないことを、少しできないくらいにする。
少しできたことを、もう少しできるようにする。
その日全力で頑張ったとしても、
1日で得られる成果は、薄皮一枚程度の進歩でしかない。
だが、そういう薄皮一枚を積み重ねることが、
その積み重ねこそが、努力だと、思っていた。
伊藤は、その努力を怠ったことはなかった。
おにぎりを食べながら、伊藤はさっきの試合を思い返した。
想定していたより、白組の力が強かった。
だから、試合前に思い描いていたものは、全て捨てた。
そうすると、こうした方がいいな、というのが、なんとなく浮かんでくる。
それをもとに、戦略を組み立て直した。
結果的には、それが上手くハマった。
だが、何かが少しでも違ったら、どうなっていたか、わからない。
田中の指揮は、どこか自信が無さそうだった。どこか臆病だった。
だから、判断が少し遅かった。そこに上手くつけ込めた。
あえて勝因をあげるとすれば、そんなところだろう。
でも、こういう分析は、実はあまり意味がなかった。
すでに自分でわかっていることを、言葉にしているだけだからだ。
言葉にする事で、それに引っ張られ、
動きが硬くなってしまうことは、よくある。
成功や失敗の原因を、一般化することに、あまり意味はない。
分析も、役に立たないわけではない。
シュミレーションも、無駄ではない。
だが、実戦で、その時その場で感じることの方が、はるかに重要だ。
だから、伊藤は、突き詰め過ぎないようにしていた。
試合中は、何も考えない。
いや、全く考えていないわけではない。
強いて言えば、身体で考えている。
頭で振り返るのは、終わってからだった。
伊藤は、さっきの試合中、なんとなく怖さを感じていた。
長引いたらどうなるかわからない。
そんな匂いを感じていた。
だから、あそこで決着をつけてしまいたかった。
開き直られるのが、怖かったのか。
負けを負けだと思わない。失敗したことを認めない。
才能やセンスがあっても、自分を省みることが出来ない人間は、
どこかで必ず、頭打ちになる。成長が止まる。
伊藤は、そういう人間を、何人も見てきた。
だから、本当に怖いのは、才能やセンスがある人間なんかではなく、
自分は駄目だと思っている人間だった。
そういう人間が、覚悟を決めると、怖い。
田中があの時、覚悟を決めれたか、開き直れたかは、わからない。
だが、なにか嫌な予感がしたのは確かだった。
もう勝ったのだ。
伊藤は、まだかすかに残っていたその予感を、頭から追い払った。
おにぎりを頬張りながら、空いてる方の手で、スマホを持った。
体育祭の日程やプログラムは、PDFで見ることができ、
その中には、トーナメント表がある。
伊藤は、その簡素な表を開いた。
次に戦うのは、青組だった。
シードになっているのは、強いからというわけではなく、
単にくじ引きで、そう決まっただけだった。
順当に行けば、勝てると言われている。
放課後の練習を見たことはあったが、
伊藤の琴線に触れるものは、何もなかった。
黒組は、清水が大将だった。
清水は、騎馬戦のプロチームの、下部組織に所属していて、
トップチームに昇格する事が、すでに内定している。
また、U−18の日本代表にも選ばれていた。
つまり、超高校級の化け物だ。
黒組が、放課後に練習しているのを見たことがある。
それは、見ているこっちが、手に汗を握るほど、激しいものだった。
練習に音を上げて脱落者が出た、という話も、あの様子を見たら、頷けた。
黄組の大将は、あの『狂人』、白井だった。
昔、白井が騎馬戦を習っていたという話は、聞いたことがある。
だが、大将をやると聞いた時、伊藤はとても驚いた。
白井と直接話したことはないが、噂はよく耳にする。
だから、どんな人間か、頭にはあった。
伊藤の想像の中での白井は、大将というものから、最も遠い存在だ。
仲間をまとめている姿が、想像できない。
だから、どんな練習をしているか、とても気になったが、
それを知ることは叶わなかった。
放課後は、練習していない。
黄組の友達に聞いてみたが、何も教えてくれない。
緘口令が敷かれていて、それが遵守されている。
出場するチームの中で、最も不気味な存在だった。
トーナメント表に教師が入っているが、それは数合わせのためだった。
試合数を少しでも公平にするため、というのがその理由らしい。
教師のチームの中に、今年この高校に異動してきて、
新しく騎馬戦の顧問になった先生がいる。
その先生は、恐ろしく強くて上手い。
もし、当たることになれば、警戒しなければならないだろう。
伊藤は、おにぎりの残りを、口に放り込んだ。
相手が誰でも、俺は、できることをやるだけだ。
グラウンドに目を向けた。
もうすぐ、黒組対黄組の、試合が始まる。