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あと2ヶ月か。
下を向きながら、ため息をついた。
田中は、下駄箱で靴に履きかえ、駐輪場に向かっていた。
その足取りは、重い。
何で、引き受けてしまったのか。
今から断れないだろうか。
大将になったのは、高橋に強く推薦されたから、
担ぎ上げられたから、だった。
高橋は、田中と同じ白組で、体育祭の実行委員だった。
リレーの選手を決めたりするなど、様々な調整をしている。
そして、田中と同じく、騎馬戦の部活に所属していた。
最初に頼まれたときは、もちろん断った。
だが、何度も何度も、頼まれた。
終いには、手を合わせながら、どうしても頼む、とお願いされた。
それで、仕方なく引き受けたのだ。
わかったやるよ、と言ってしまったのだ。
今考えれば、あんなに必要とされたことが、生まれて初めてだったので、
少し、舞い上がってしまったのだろう。
やるよと言った瞬間、後悔が襲ってきたが、後の祭りだった。
今日、実行委員が集まる会議で、正式に決まった。
田中は会議に出ていないが、
さっき廊下で、決まったよ、と高橋から笑顔で言われた。
もう後戻りは出来なかった。
高橋は、田中にとって、声がかけやすく、話しやすいやつだった。
それは、田中から見て、騎馬戦が上手くないという事を意味している。
はっきり言えば、下手だった。
高橋は、中学校から始めたので、仕方がないことでもあった。
しかし、高橋は、田中と違い、誰からも話しかけられるし、
誰にでも、話すことができるタイプだった。
それも、田中みたいに、阿るような、媚を売るような感じではなく、
相手の意見をちゃんと聞き、自分の意見もしっかりと伝える、という感じだ。
田中にとって、それは理解できないことだった。
なぜ、下手なのに、対等に話すことができるのか。
なぜ、平気な顔で、『聖人』と話せるのか。
頭ではわかる。
人は平等だ。騎馬戦の上手い下手など、人間の一面でしかない。
それと、人の価値は別だ。
そうわかっていても、何度それを自分に言い聞かせても、
田中は、面と向かえば、必ず気後れしてしまう。
好かれようとする自分、嫌われまいとする自分が出てきてしまうのだ。
その様は、迎合といっても過言ではなかった。
もし俺が、騎馬戦をやっていなかったら、
もっと普通に話せているんじゃないのか。
そんな思いを抱いたことも、一再ではなかった。
あと2ヶ月か。
帰り道、自転車を漕ぎながら、もう一度田中はため息をついた。
時間はそんなになかった。
残り1ヶ月になると、体育の時間は、
騎馬戦の参加者だけ、別に分かれて練習をする。
だから参加者は、それまでに決めないといけない。
つまり、1ヶ月で、人数を集めないといけなかった。
これが難しいことだった。
参加者には、誓約書の提出が求められているからだ。
騎馬戦は、意外と危ない競技だ。
下の騎馬の人も、騎馬同士勢いよくぶつかりあうので、もちろん危ない。
だが、騎手は、もっと危険だ。
不安定な足場で揉み合うので、落ちることもある。
頭から落ちれば、大惨事になる可能性だってあるのだ。
だから、誓約書には、生徒本人のもの以外に、親のサインも必要だった。
危険が伴う競技だからこそ、
体育祭の準備期間、つまり1ヶ月前から、
参加する生徒は、体育の時間に、騎馬戦の練習をする。
いきなり本番をするより、はるかに安全になるからだ。
そうは言っても親は不安だろう。
わが子がこんなことで怪我をしたら、たまったものでは無い。
誓約書とは、怪我しても文句は言わない、と言っているようなものだ。
馬鹿げている、たかが体育祭だろう。
なんでそんな事やらないといけないの?
父親や母親にそう言われたら、普通の子どもは二の足を踏む。
だから、ちょっとやりたいぐらいでは駄目なのだ。
そんな中で、参加者を、最低でも25人、集めないといけない。
騎馬戦は、馬の役割をする人が3人いて、前に1人、後ろに2人。
その馬の上に、騎手として1人が乗る。
つまり、騎馬1組に対して4人いる。
その騎馬を、最低でも6組、用意しなければ、失格になる決まりだった。
6組×4人で24人。
そして、フォーメーション、騎馬戦では陣形という言葉を使うが、
その陣形を変える合図を出す係として、太鼓を打つ人も必要だ。
合わせて、25人。
だから、最低でも25人、必要だった。
人数を集める事も、社会勉強の一環である。
そういう理由で、田中が高校に入る前から、
体育祭の騎馬戦について、最低人数が決まっていた。
上限人数に関しての決まりは無い。
だが、あまり多くてもしょうがなかった。
連携が取りづらくなるからだ。
全校生徒が約1000人で、体育祭では5色に分かれるから、
1色あたり、200人。
男子がその半分とすると、100人。
100人の中から25人の参加が必要だ。
すなわち、4人に1人である。
まずは、同じ部活の人たちに、声をかけるつもりだった。
白組には、田中と高橋を入れて5人いる。
彼らなら、声をかけられる。
自分と同じくらいの上手さだからだ。
田中は、それも考えた上で、大将になることを引き受けていた。
声をかけられるかどうかという、
そんなどうしようもない事を、気にしている自分に気づいたとき、
自分の器のあまりの小ささに、
情けなく、暗澹とした気持ちになったのを覚えている。
田中は、休み時間に、部活の人たちに声をかけた。
断られたらどうしよう。
そう思い、とても緊張したが、二つ返事で了承してくれた。
あと20人。
問題はここからだ。
田中は、大将に決まって何日か経った日の放課後、
高橋と顔を突き合わせながら、白組のクラスの、名簿を見ていた。
体育会系の部活に所属している人を中心に、線を引いていく。
名前を見ても、田中には顔もわからない人ばかりだ。
だが、高橋は、交友関係も広く、かなり把握している。
「じゃあ、俺、声かけてくるよ」
線を引き終わり、高橋は、そのまますぐに行こうとした。
田中は袖を引っ張って、引き止めた。
さすがに、高橋だけにやらせるわけにはいかない。
「…俺もやるよ」
一呼吸おいて、田中はそう言った。
高橋は、少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になって、言った。
「ありがとう。じゃあ、頼むよ」
「うん…人見知りだから、あんまり声かけれないかもしれないけど」
「全然いいよ!そしたら、誰からいくか決めようか」
それからは、気が滅入る毎日だった。
恥ずかしさを押し殺し、決まった役割だからと自分に言い聞かせ、
田中は、声をかけていった。
知らないクラス、知らない人たち。
普段通る必要がない廊下を歩いていると、
周りの人に好奇な目で見られている気がして、顔が真っ赤になる。
恥ずかしさに押しつぶされ、声をかけれなかった日は、
罪悪感に苛まれた。
高橋が、自分の何倍も声をかけている事を、知っていたから。
参加者を、提出しなければいけない期日が迫ったある日、
迷っている人がいて、その家に電話した。
親と生徒の両方と、代わる代わる話をしながら、説得を試みた。
その甲斐あってか、人数はなんとか集まった。
結局、29人集まり、7組作ることができる。
残り1ヶ月を切った。
ここから先の、練習も大変だ。
先生は、練習のやり方について、特に指示を出さない。
練習方法を考える事も、社会勉強の一環である、
というのが、やはり理由だった。
だから先生は、危なくないか、見守りはするが、
練習メニューをどうするかは、自分達で決めないといけない。
騎馬戦にはルールや、定石、戦略がある。
騎馬戦における勝利条件は二つあり、そのどちらかを達成すれば良い。
一つは、大将の首、すなわち、大将の帽子を獲ること。
もう一つは、大将を騎馬から落とすこと。
極端な話、こっちの残っている騎馬が大将の1組だけで、
相手は無傷だったとしても、
相手の大将の首を獲ってしまえば、こっちの勝ちなのだ。
しかし、現実では、そんなことはまず起きない。
だから、基本戦略は、自陣の大将を守りつつ、
1組ずつ相手の騎馬を倒していく、ということになる。
それにはまず、数的優位を作ることだった。
2対1や3対1を、いかにつくるか。
後ろをとってしまえば、相手がいくら強くても何もできない。
1組が押さえている間に、背後から首を獲ってしまえばいいのだ。
数的優位をとるために重要なのは、陣形を変化させる事だった。
一度引いて全体の体勢を立て直したり、縦列にしたり、
逆に横に広がったりと、状況に合わせて陣形を変える事が重要だ。
太鼓はそのためにあった。
大将が状況を判断し、あらかじめ決めてある手の動きで、
どう陣形を変えるかを伝え、
太鼓係が、それに合わせて太鼓を叩き、騎馬が陣形を変える。
1組でも間違った動きをすれば、そこから瓦解してしまう。
だから、連携がとても重要だった。
もし、数的優位をとれなくて、1対1になった場合は、
相手のバランスをいかに崩すかが肝だった。
特に、騎手のバランスをどう崩すか。
素人で一番多いのは、無理に獲ろうとして、前のめりになってしまうことだ。
だがそれは、意識して練習すれば、すぐに改善できる。
だから、馬が要だった。
前に出ると見せかけて、引く。引くと見せかけて、前に出る。
馬と騎手の息が合っていれば、前後左右に揺さぶって、
相手のバランスを崩すことができる。
こういう定石や戦略を、口で言うのは簡単だ。
しかし、実際に思った通りに体を動かし、
互いに意志の疎通をとるのは、すごく難しい。
何度も反復し、体に覚えさせる必要がある。
高橋と何度も話し合い、練習方法を考えた。
田中は、感じたことや反省点を、その都度ノートに書き込み見直した。
体育の時間が違う下級生には、あらかじめ練習メニューを伝えた。
練習は地味で面倒なものだ。
それを、強制力のない一般生徒がやらせるのは大変な事だった。
その上、こちらからお願いして、来てもらっている。
向こうからしたら、来てやっているのだ。
逆の立場だったら、かったるいな、と思うだろう。
案の定、練習はだらけたものになった。
特に、最初のうちは。
その度に、高橋は大声を出した。
「ちゃんとやろうぜ!!」
そしてみんな、渋々動き出す。
お前がやったほうがいいよ、大将。
俺より全然向いてるよ。
田中は、その様子を見ながら、心の中でそう思った。
『聖人』が大将をやっている赤組では、
人も苦労せず集まり、練習も楽しくやっているようだ。
俺には、人を惹きつける魅力などない。
俺が話すと、時が止まったように、場が暗くなる。
どうせお前も、『聖人』のところの方がよかったと、
外れを引いたと、そう思ってんだろ。
田中は、懸命に声を出している高橋を見ながら、
そんな冷めた気持ちを抱いていた。
厳しくされれば、当然気持ちは萎える。
田中は、やる気がなくなったやつ、ふてくされているやつに、声をかけた。
「なんでこんなことやんの。めんどくさいわあ」
「なにアイツ。何様?」
そう言った声に、
「まあ、そう言わずに頼むよ」
「うん…でも、高橋もあれで色々頑張ってるからさ」
そんな風に、なだめすかしながら、なんとか練習を続けてもらった。
なんでこんなご機嫌取りなんか、しなきゃなんねえんだよ。
俺だって、やりたくてやってるわけじゃねえのに。
でもしょうがない。
どうせ俺には、こんなことしかできないんだから。
田中は、愚痴を聞きながら、
曖昧な笑みを浮かべながら、練習を続けていった。
決められている全体練習の時間はあったが、
それだけではどうしても足りないと思い、
みんなにお願いし、何回か放課後に残って、全体練習をしたこともある。
やっていくうちに面白くなってきたのだろう。
何人かは、もっと練習がしたい、と言うようになってきた。
少しずつ、本当に少しずつ、
練習を積み重ねることで、形になってきた。
田中は、かすかな手応えみたいなものを、感じるようになった。
そして今、自分の部屋の、机の前に座っている。
陣形や練習メニュー、反省点、感じたこと。
その全てが書き込まれているノートを、
何度も見返したそのノートを、
震える指先でめくりながら、穴があくほど見つめていた。
心臓が締めつけられているように感じる。
本番は、明日に迫っていた。