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声をかける勇気を奪うのに、無視は一度で充分だった。
それは、小学校の高学年の時だった。
向こうからしたら、別に深い理由なんてなかっただろう。
この前の試合で、田中は何度もミスをした。
それは目立つほどだった。だからムカついた。
多分、それが理由なんだと思う。
練習が始まる前はいつも、少し早くきている友達と、一緒に遊んでいた。
その日も、何人かが先にいて、遊んでいた。
田中は、いつものように、その輪に声をかけた。
しかし、無視された。
田中は、何が起きたかわからず、悲しくなって、ただ泣いた。
後からきた、別の子に慰められたのを覚えている。
次の練習から、練習前の、その遊んでいる輪の中に、入れなくなった。
正確には、輪の中に入れて、という声をかけれなくなった。
また無視されるのではないか、と思ったからだ。
ほかに、何かあったわけではない。
絶交したわけでもない。用事があれば、話すこともできる。
だが、田中の中では、しこりが残った。
この頃からだろう。
上手いやつのことを、友達だと、はっきり言えなくなったのは。
顔を、まともに見ることができなくなったのは。
一緒に騎馬戦をやっているから、仲間だとは、思っていた。
だが、友達という言葉を使うのは、躊躇するようになっていた。
本当に、あなたたち、友達なの?
そう誰かに聞かれることを、恐れていた。
実際に聞かれたわけではない。想像して恐ろしくなるだけだ。
怖いのは、自分が向こうを友達と思うか、ということではない。
向こうは自分を友達だと思ってるのだろうか、ということだ。
俺は、友達だと認められているのか?
俺みたいな使えないやつが、友達だと思われているのか?
田中は、物心をついたときには、騎馬戦をやらされていた。
おそらく、幼稚園の年中組の時からだろう。
もちろん、その時は筋力などないから、
今から思えば、遊びみたいなものだったと思う。
しかし、やらされていた事だけは、間違いなかった。
幼稚園の時の記憶など、ほとんど無いが、
強く心に残っている場面がある。
年長組の時、みんなで順番に、将来の夢を発表していた。
田中は、自分の番で、騎馬戦の選手になりたい、と言った。
まだ、プロ化されていなかったとはいえ、
みんなそのスポーツがあることは知っている。
だから、特段おかしい事を言ったわけではなかった。
俺は、嘘をついている。
それを、はっきりと認識しながら、言っていた。
だから、今でも覚えている。
どうせ自分には無理だと、その頃には、もう知っていた。
田中の父親は、騎馬戦のコーチをやっていて、
小学生の少年団と、中学生のクラブチームで教えていた。
自宅の駐車場には、遠征で使うための、マイクロバスが置いてあった。
もちろん、お金をもらっているわけではない。
ボランティアだ。
その地域の騎馬戦をやっている人なら、
ある程度知っているぐらい有名な人だった。
父親は、運動会に来なかった。むろん、授業参観に来たこともない。
だが、週3回の騎馬戦の練習と、土日の試合には、いる。
会う頻度や時間は、むしろ普通の子供より多いし、長いだろう。
だが、そこにいるのは、父親ではなく、コーチだった。
それが自分の日常で、疑問を抱くことはなかった。
本格的に辛くなったのは、中学生の時だ。
嫌なこと、辛いこと、その一つ一つのレベルが、一段も二段も上がった。
練習中に父親がいる事は、別に気にならない。
ただ、送り迎えがコーチと一緒というのは、
小学生の時でも嫌だったのに、
中学生の時には、それは拷問と思えるほど、恥ずかしくなった。
そして、何よりも辛いのは、
周りには、上手いやつしかいない、ということだった。
田中が所属していたクラブチームは、
小学生の時から、当たり前のように、騎馬戦をやっていて、
その中でも上手いやつが、真剣なやつが、入ってくるところだった。
そんな人たちは、心構えからして、田中とは全く違う。
好きでやっている。
上手くなりたいからやっている。
学校の放課後のクラブのような、
強制参加だから仕方なくやっている人たちとは、根本的に違うのだ。
なかには、惰性で入った人もいたかもしれない。
だが、最初だけだ。
そんな人は、時間が経つと辞めていった。
だから、残っている人たちは、自分とは違う人種だった。
田中は、ただ怒られないようにだけ、やっていた。
田中は、今日が無事に過ぎる事だけを願いながら、やっていた。
だが、辞めるという選択肢は頭になかった。
辞めたら、田中家で生きていくことができないから。
生きていくことができないと、思い込んでいたから。
田中にとって、騎馬戦とは、金がもらえない仕事、そのものだった。
夏休みや冬休みには、大会や遠征があった。
前日や前々日ぐらいから、そのことしか、考えられなくなる。
そしてふと、それが終わった後のことを全く考えていない自分に気づくのだ。
大会や遠征のあとも、自分の人生が続くとは思えなかった。
終わった後は、安堵感というより、不思議な気持ちになった。
なぜか、まだ人生が続いている。
そんな気持ちだった。
だからなのか、過去の試合は、ほとんど覚えていない。
仲間が、昔の試合の思い出を話していても、ついていけない。
そんな時は、苦笑いを浮かべることしか、できなかった。
中学生の時の、試合前や練習前の、あの緊張感は、今でもたまに夢に見る。
田中は、無視という、いじめみたいなことをされても、
上手いやつのことを、嫌いになりきることは、できなかった。
いや、本当は、嫌いなのかもしれない。
だが、嫌いという感情だけでもないことは、確かだった。
どうしようもなく憧れていた。認められたかった。
ああなりたいという嫉妬もあった。
そして、もう少し弱いやつにも配慮してくれよ、
という懇願にも似た気持ちを抱いていた。
そういう気持ちの全てが、入り混じっていた。
上手いやつに対しては、誰であっても、
多かれ少なかれ、そういう感情を抱いていた。
だから、面と向かって話せないし、
話していると、常に、気後れを感じる。
上手いやつらと比べたら、自分など、脇役だ。
いや、脇役でさえ、ない。
通行人だ。
エピソードなどない。名前さえ、与えられていない。
田中の父親が、家で騎馬戦の話をする事はなかった。
家で、プレーについての駄目出しを、された事はない。
やらせているという負い目が、あったからだろう。
一見、家の中まで持ち込まないという、
そのやり方は、正しく思えるし、
田中も、ある時まではそう思っていた。
だが、高校3年になった今となっては、
そのやり方は、非常に狡く、姑息なものだということに、気づいていた。
子どもに、辛いだろうと思いながら、やらせるというのは、
「ごめんね」と言いながら、首を絞めるようなものだ。
いっそのこと、ひと思いに首を絞めるべきだ。
そうすれば、こっちも必死で抵抗できる。
嫌だ、やりたくないと、はっきり反抗できる。
「ごめんね」と言われながら、首を絞められている子どもは、
どこに、怒りをぶつければいい?
誰に、辛さを訴えればいい?
反抗されることが、怖かっただけじゃねえか。
反抗される覚悟がねえのに、やらせんじゃねえよ。
この構造に気づいた時、そう言ってやろうかと思った。
だが、今更それを言い募っても、しょうがなかった。
すでに時が経ち過ぎている。
言っても、不毛な争いが、生まれるだけだ。
だから、田中は何も言わない。
代わりに、自分の中に、
冷たく、空虚な風が吹いているのを、感じるようになった。
時という、大事なものを奪われた。
そしてそれは、二度と手に入らない。
田中は、騎馬戦を憎んでいた。
だが、これしかやってこなかった。
田中は、騎馬戦が得意ではない。
でも、自分はこれしか知らない。
人と繋がるすべを、これしか知らない。
だから、高校でも騎馬戦の部活に入った。
もう、親に強制されたわけではない。
だが、やってきた事が無駄になるのが、怖かった。
田中の、その選択は、惰性以外の何ものでもなかった。