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「おう、もうすぐだな」
下を向きながら廊下を歩いていると、前から声をかけられた。
田中は、目線だけ少し上げた。
同じ部活の男だった。
「ああ」
田中は、うつむきながら、短く応えた。
そして、少し顔を上げ、相手を見たあと、
それ以上何も言わず、その場を後にした。
田中は、廊下を歩きながら、いつものように後悔していた。
やっぱり、ああ、という一言だけっていうのは、変だったかな。
なんか変な間ができてたもんな。
もう少し、話を広げるべきだったか。
でも、何て言えば。
そうか。
順調か?とか、聞けばよかったのか。
田中は、会話が苦手だった。
他人には、無口だと、思われているのだろう。
本当は、ただ、普通に会話がしたかった。
でも、何かが喉に張り付いている。
言いたいことが浮かんだ時には、いつも会話が終わっている。
言いたいことを見つけた時には、その話題では無くなっている。
体育祭まで一週間を切っていた。
さっきの会話の、もうすぐとは、その中の騎馬戦のことだ。
田中の高校では、赤、白、青、黒、黄の5色に分かれて体育祭を行う。
体育祭の、トリを飾る種目が、騎馬戦だった。
田中は白組で、その騎馬戦の大将に選ばれていた。
いや、大将に選ばされたというのが、正しい表現だ。
向いてないのに。なんで俺が。
田中は、大将になった時からそう思い続けているが、
もうどうしようもなかった。
騎馬戦は、最近特にブームだった。
もともと騎馬戦は、世界的に人気のスポーツだ。
オリンピックの種目でもあるし、ワールドカップも開かれている。
騎馬戦発祥の地ということもあり、野球の人気には劣るが、
日本でも、以前から、比較的ポピュラーなスポーツだった。
それが、今年、プロリーグが誕生したのを切っ掛けに、
爆発的な人気となった。
外国からきたスター選手の出場。
レベルの高い海外で活躍していた、日本選手の参加。
開幕戦の視聴率は、30%を超えていた。
小さい頃から、親の影響で、騎馬戦をやらされていた田中は、
騎馬戦に対してわりと冷めたところがあったが、
それでも、このブームの状況には少し熱くなるものがあった。
田中は、購買でパンを買い、自分のクラスに戻ってきた。
今は、昼休み中だ。
パンを食べながら、いつものように、ノートを開いた。
そこには、味方の戦力や、対戦相手の情報が書き込まれていた。
何度も見ているが、見ていないと不安になる。
田中は、ノートを開きながら、騎馬戦のフォーメーションや、
想定される状況を考えていた。
体育祭の騎馬戦はトーナメント形式で行われ、その一回戦目に戦うのが、
さっき声をかけられた男が大将を務める、赤組だった。
あの男は、別の中学校だったが、
田中と同じクラブチームに所属していた。
そのクラブチームは、田中のいる地域ではそこそこ強かった。
中学3年の時に、全国大会に行ったこともある。
田中はもちろん補欠だったが、
あの男は、レギュラーで、しかも、替えのきかない存在だった。
下手な田中の目から見ても、
正直、この高校でやってるのがもったいないくらいのレベルだ。
ガタイもよく、当たり負けはしない。常に冷静で、指示も的確。
その上、リーダーシップもあり、後輩の面倒見もいい。
『万能の聖人』
高校に入って間もなく、誰からともなくそう呼ばれるようになっていた。
今では、部活の連中だけでなく、他の生徒からも親しげにそう呼ばれている。
田中は、『聖人』が苦手だった。
というより、騎馬戦が上手いやつは、みんな苦手だった。
話していると、気後れを感じる。
どうせ俺の事なんて蔑んでいるんだろう。
心のどこかで、そう思ってしまう。
うちの高校は、別に騎馬戦が強い高校ではないから、居心地はよかった。
それでも、上手いやつはいる。
『聖人』は、上手いやつの中では、まだ話しやすい方だったが、
自分から声をかけたことはない。
田中は、上手いやつに、自分から声をかけることができなかった。
それがたとえ、同級生だったとしても。
同じ部活の仲間だったとしても。
授業が終わり、田中は荷物をまとめた。
今は、体育祭の準備期間ということで、騎馬戦の部活は休みだった。
田中は、高校まで自転車で通っている。
家まではそこそこ遠く、自転車で50分ぐらいの距離である。
帰りは急ぐ必要がないので、いつもゆっくり漕いでいた。
取り留めのない考えが、浮かんでは消えていく。
負けてもしょうがない。
俺が『聖人』に勝てるわけがない。
持っている才能が違う。
ポテンシャルが違う。
ただ、無様な負けをしないように、
負けた時に自分で言い訳できるように、ノートを作ったのだ。
見栄で作っただけだ。
前の信号が赤になり、田中は、自転車を止めた。
自分には才能がない。
才能がある人間は、俺とは別の景色が見えている。
才能がない俺だって、それぐらいはわかる。
自分とは違う人間なんだ。
そう達観しないとやっていけない。
ただ、続けているだけ。
別にそれでいい。
俺は、楽しくやれれば、それでいい。
信号が青になった。また自転車を漕ぎはじめる。
歪んでいることは、自分が一番よくわかっている。
卑屈なのだ。どうしようもなく。
それでも、頑張らないほうがいい。
一生懸命にならないほうがいい。
才能があれば、上手ければ、それも絵になるだろう。
だが、才能もないのに、下手なのに、
頑張ったところで、一生懸命やったところで、
それは、滑稽なだけだ。嗤われるだけだ。
なに頑張ってんの?
そう思われるだけだ。
だから俺は、ムキにならない。
自分に、期待なんかしない。
そうすれば、傷つかないで済む。
そうすれば、惨めにならないで済む。
家につき、お風呂に入った。
夕飯を食べ、自室に戻る。
カバンからノートを取り出し、机の上で、また見返した。
何が変わるわけではないが、もう癖になっている。
睡魔が襲ってきたので、田中はベッドに入った。
田中は、あおむけになって、天井を見ながら、昔のことを思い出していた。