拳、飛ぶ
『いつ、かこ、子は、る。封、の時、要に、時目、るように』
その少女は震えていた。マモノから助け出されて男に抱き上げられてからも、脱力させられてもなお。だからであろうか、その男がなんて言ったのか覚えていなかった。
時が経てば薄くなる。実際、夜間でも外に出なければ彼女は強くあれた。妹たちに、彼らにも弱い所を見せなくて済んだ。だけどそれは見せかけの、希望的、家という環境に守られているだけであった。その守護者が、朝間すら呑み込む暗闇に恐怖の状況を再現されていた。
「なあどうしたんだよ?サクラが食事だって呼んでる。手伝おうとしないしヒメコらしくないぞ?夜も食べなかったよな?寝る時もいなくなってたよな?ここにいたのか?寝てないんじゃないか?ヒメコがそんなんじゃ」
朝からひめこは怯えていた。夕べからずっと夜が続いているのもあるだろうが、彼女には優れた感覚があったためにだ。
「ここに持ってこようか?シスさんを呼んだ方がいいかな?フトン持って来る?その前に体ふいた方が、ああぼくがするんじゃないよ」
日課の、外に出てみようと提案するれぶんと今日はやめようと止めるあき、ひめこは探しに来てくれた二人の前で足を抱いて縮こまっている。
「ふー。それじゃヒメコのはおれがもらうな。捨てたらお姉ちゃんに怒られるからな。えっと何だっけ?もっと?」
ひめこはぴくりとだけ震えが収まったのとは異なる静止をした。
「もってないじゃなかったかな?サツキに聞いたらいいよ。おねえちゃんにおし、って違うよ。ヒメコのは、もう。ちょっと行ってくるね。待ってよレブン」
一人になる前から小刻みな震えが再発した。二人が戻ってきておいしそうに食事をしている間も絶えず。
「家にいるとタイクツだな?アキなんかないか?お姉ちゃんがしてくれるようなオモシロイ話とか」
「掃除も終わったからね。サクラの手伝いもできないし。ここにお花があったらよかったんだけど。お話もおねえちゃんみたいにはオモシロク話せないなあ」
「ヒメコはないかあ?あるわけないよなあ。カワイイだけだもんな」
「それがいいんじゃないか。お話を聞いてカワイイって思える、ヒメコだからだよ。あのお話」
「あれはカッコイイだろ。あれがカワイイってのは分からない。アキは分かるか?お姉ちゃんならどっち言うと思う?」
「おねえちゃんは。それもどうかな。レブンはヒメコと張り合うから」
二人が傍にいて紛らわせようとしてくれている。さくら達をこの部屋に入れないのもひめこに会わせないためだ。
けどどうしようもないのだ。内在する恐怖が、消し去れなかった過去が体をも内側に引っ込めさせる。この暗さは思い出させる暗さなのだ。姉が来てくれたとてこうなっていただろう。
二人には分からない。分かるための魔力が足りてない。近付いてくる人でないものも。教えてあげないと。でも。
「なんだあの音?おれ見てくる。アキはヒメコといろよ。シノブたちにはおれから言っとくから。任せたぞ」
「シスさんかな?それならぼくも行った方が。ヒメコ?」
行ってはダメ。声が出てくれなかった。強くなっていくから、体を震わせるのでいっぱいだった。せめてあきだけでも、ちょこんと近くあった布は掴むことができた。けどそれは引っ張れば簡単に抜けてしまうほどだった。それなのにあきはそのままでいてくれた。
「戻ってこないなレブン。静かになったのに。どうしよう。見に行った方がいいのかな?けどレブンが任せたって」
「また」
「ん、どうしたのヒメコ?またって何?」
「なにか来る。やだ。来ないで」
「え?何か?」
背後で無遠慮に扉が開いた音がした。最初に入ってきたのは大きな影、最も大きいシスよりも大きな人の、知らない顔。
「一人、もう一人は?」
声を発した。落ち着いている声、だけど誰かを探している内容に、あきの体に一瞬のうちに身震いが走る。あきは真っ先に男の正面に両手を広げ立っていた。体と魔力が乖離しての行動であった。
「ヒメコはぼくが、レブンがいなくても。ぼくが、ぼくが!」
家から出てはいけないはずだ。そう言っている人がいるかられぶんを止めようとしたのだ。それがどうして見知らぬ人間が自分たちの家に居るのか。あきはひめこの怯えの理由と直結させた。
「ああ、オマエの後ろにいんのか。これで二人いるな。あっちは」
「ぼくが守る!」
「あ?おっと」
捕まらないようにと癖にでもなっていたか、あきの突進を男は簡単に躱す。そればかりが勢いあまって倒れそうなあきの腕を掴んでやった。
「守る、か」
「離せ!ヒメコ!逃げて!」
男が顔を向けると隅っこで黄色い髪の女の子が頭を抱え込んでいるではないか。怖がらせている原因になっている、即ちオレの魔力も捨てたものではないと、ちょっとした優越感だ。浸らないのも生まれ持った優しさだと気付いていない。
「もう一人も確認と。落ち着け。オレは敵じゃない。少なくともオマエのな」
「え?わあ?!」
口では穏やかに言いながら男はあきを放り投げる。単純な腕力によるもので、あきが着地に失敗したのは彼の身体能力によるものだ。
「いたた」
「ここにいろ。出るなよ」
何が何だか分からないが、お尻を撫でていたらあの男は敵ではないと思えるようになった。男がいなくなってまたひめこと二人だけになると、何を口走ったんだと彼女の方をまともには向けなかった。沈黙が委縮を和らげる。
ひめこなら、誰が誰を守るって言うのよと笑ってくれるはずだ。れぶんも戻ってこない。あきはこっそりと現状を確かめるため動き出した。
「すぐ戻るから」
住み慣れた家を足音を出さずに歩く。心音も大きくなる。悪いことというのはこういうことなんだろう。けど今はと思えば心音は元に戻りつつあった。そして彼は大人達の会話を聞いた。
「レブンがいなくなったみたいなんだ」
「え」
ひめこの震えが止まった。顔も見せてくれる。ホントに夜通しだったのだろう、かわいい顔が台無しになっている。今日はじめて見せてくれたのはそのせいじゃないよね。あきは思ってはいけないことを押し殺した。
「シスさんが話してるの聞いたんだ。城に連れて行かれたみたい。それしか聞けなかったけど」
れぶん。城。おねーちゃんがいるところ。あたしがこんなだからおねーちゃんを呼びに。
「おねーちゃん怒るね。あたしは、れぶんもそれで」
「違うよ」
「違わない。いつも、れぶんを。ケンカもした。おねーちゃんに言われてるのに」
「違う!レブンは違うんだよ。ぼくとは」
あきがぎゅっとしてる。なんて強い手。握り返す力もないのに守ろうとした背中もさぞかし強かったのだろう。いたいいたい、洗ってあげたこともあるそんなに変わらない背中。けれど震わせているのは同じ理由じゃなかった。
「レブンは連れていかれたんだよ。ぼくとは違うから。ヒメコについていけるから。だから」
「あきはかしこいね。あきがおにーちゃんだったら良かったわよね。あ、しのぶのおにーちゃんか。とっちゃいけないよね。人のはって、おねーちゃんに」
あきは知っている。あたしの力。マケンの魔力。「だから」あたしにれぶんを連れ戻すよう言おうとしている。ここじゃあたしが一番強い。分かってる。街で見かけた兵士もあたしより。でも一番弱いのも。
「ありがとう」
「なによ?使い方間違ってない?ありがとうって言われること何もしてないわよ?」
「ヒメコは言いたいことを言ってくれるよね。だから兄としてありがとう。シノブは言えなかったから。ぼくも言ってあげられなかったから」
「さくらとさつきがいるでしょ。あたしは」
「ヒメコはおねえちゃんがいない時おねえちゃんしてくれたよ。だから今ぼくはお兄ちゃんなんだ」
魔力でならあたしが一番だから。だから誰が上とか考えもしなかった。おねーちゃんは別よ?特別。
あたしも特別になりたかった。なれなかったあの日がどうしても出てくるの。おとーさんとおかーさんに。けどそれが今は出てこないの。
「あきはさ、同じでいてよ。弟がさ、タイヘンな子だから。一緒に怒ろう?」
「ヒメコ。ヒメコがそうしたいなら。でもその時だけだよ?あとでぼくだけ仕返しされちゃう」
「その時はあたしが守ってあげるわよ。お返し」
あきが手を出してくれたけど、その手まで握ってしまったら言ったことできなくなってしまいそうだから自分でね。おねーちゃんにもきっと、いっぱい立たせてもらったんだよね。
「どこから出るのよ?シスさん追いかけてきちゃうかもしれないじゃない?外、変なのいるし」
おかしな魔力。普通ではない普通の人。けどシスには戦えない人には脅威。できれば黙って行かせてほしい。あきの指はひめこの頭の上を差していた。
「ヒメコなら外せるでしょ?はいこれ」
「これって。あきが欲しいって言うからあげたんじゃない。かわいいから、れぶんじゃなくてあきだったらって」
「ぼくがかわいいヒメコを見たいからだよ。ダメ?」
「そこまで言うんじゃしょうがないわね。一回着たら返さないわよ?これ着たあたし、ゼッタイかわいいもん」
「欲しくなったらおねえちゃんにお願いするよ」
知ってるって言ったよ。あげることはしても自分からほしいなんて、できないくせに。今日の自分は二人にどれほど小さな背中を見せていただろう。えらそうなことは言えないね。
「着替えるとこも見たいの?」
「あ。ご、ごご、ごめん!?」
まだまだだね、あき。れぶんなら見せるもんあるのかとか、見せたくないならおまえがどこか行けよおれはここで着替えるけどなとか言うわよ。むかつくわよね。
「うん。ヒメコに似合ってる。そのしつじ服。髪してあげられたらよかったんだけど、おねえちゃんみたいには早くできないから」
首の後ろに手をやって服の中に入った髪を外に出してあげる。出した方がかわいいじゃない?初めて着たから時間はかかったけどちゃんと着られた、と思う。ぼたん?もとめて、とまってるかな?めいど服よりも動きやすいから、あきが髪もとお揃いにしようとしてくれたみたいだけどミツアミは難易度が高い。さくらがしてくれたら早いけど、自分一人別を着ているのもあれだからヒミツにしておきたい。ひめこはそう考えていたのに。
「あとこれも。サクラが残しておいてくれたんだ。ここに一緒に持って来てたらレブンに食べられちゃってたね」
「いたま」
おいしい。今まで食べた中で一番おいしいキモチ。もっと食べたいなんて自分が悪いよね。
「いただきますでしょ、もう。シスさんにはうまく言うから。ぼくに任せて。レブンみたいなこと言ってるね」
「あきだからね。れぶんじゃ任せられない。ごちそま。ね、行ってらっしゃいって言って送り出してよ。あたしも行ってきますって言うから」
話すに困った姉が教えてくれた使い方。きっと正しい使い方。
「ただいまって言ってくれるんだよね?」
送り出すのはあきが始めたことなのにどうして目を髪で隠すのか。女らしくて男っぽい。どちらか片方にして。今回は。
「もちろんよ。れぶんと一緒にね」
次は連れて行くから。それがふつーのことだから。だからね、あたしたちのふつーで行かせてよ。
ひめこは笑えていた。あきもいつも通りに。
「いってらっしゃいませ、ご主人様!」
あき、ありがとう。最初はどうしようって思ったけど、あきが知ってくれて、あたしを知ってくれてそれでも変わらなかったあきがいてくれて。あいつは、れぶんはどうかな?
「おとなが!ぼうっと立ってるんじゃないわよ!」
猛烈な勢いは兵士をもなぎ倒す。だけどひめこはまだ弱さを感じていた。そして強さも。
(人がいない。夜はこんななのかな?おねーちゃん、知ってるかな?聞いてみよう)
人を避けなくていいからどんどん速度が上がっていく。街中をふらついている、マグに意識だけを奪われた人々がひめこを発見した時には彼女は遥か彼方、監視の目の役にも立たない。
ひめこも小さな魔力には眼中にもなく、目指すは目立つ城方面であったが、視界の脇というより感覚が何かに引っ張られる感じがする。
(誰?誰よ?あたしは)
この感じ、れぶんとあき、二人と出歩いていた時もそうだった。止める人はいないから。
彼女は大通りの交差を城までの本道から外して行った。その道は姉が意識して避けていた道、訪れた場所もひめこには初めての店。店部分の扉は閉まっていたから壊すまではせず、横道を見つけそこから奥へと向かった。
(ちょっとだけ開いてる。誰?誰がいるの?あたしはひめこよ。おねーちゃんがくれたひめこ)
ひめこだから扉は躊躇なく開いた。その工房で彼女は出会った。力と運命と。
「いったいなーもう。なんなんだよアイツらは。あれはまだって?えええ、アンタ誰?いや待ってどこかで」
れぶんに渡されたマレンは工房から強奪されたものであった。突如侵入してきた兵士によって、職人としての意地で阻止しようとしたシジカであったがあっさりあしらわれた。試作品や余った素材に埋もれ漸く目を覚ましたのは来客の魔力のためであったろうか。覚えもあった。
「そうだ確かヨル様の店で。聞いてる?まさかアンタも。何見て」
ひめこがじっと見つめているのは壁に掛けられた自信作。六つのうちの一つに没入する眼差しを向けていた。シジカは彼女とを交互に見遣ると武器職人の魔力が疼いた。
「ははーん?アンタにも良さが分かるんだ?それはねぇ、もうずっとそこに飾っとくしかないよねってくらい。ちょ、ちょっと!?」
ひめこが触れようと手を伸ばしている。納品の予定のなかったマレンを無理やり持っていかれたのだ。シジカだって誰であっても焦りはする。その時であろうな。ひめこをちゃんと視たのは。
「呼んでたんだ。これがずっとあたしを。待ってたんだ」
「呼んでた?アンタは」
王家の信頼の厚いシジカであるからこそマグに頼らずとも、ひめこの潜在魔力に瞠目の意味を変えた。シジカは自ら片腕を壁から外しひめこに手渡す。もう一人との思惑の一致でだ。大人用で片方だけでも相当の重量に負けない腕を見て、シジカの内部では二人が手を交わし、外をにやりと職人面とした。
「あげるよこれ。アンタだから特別にね。普通言わないよ?」
次はひめこの番、シジカとマケンを見ている。姉にさえ隠していたマケンの力。けどこの人は姉の知り合い、親し気に話していたのを思い出せた。
「いらない?」
問うてから隙間風が割って入る。シジカも即答を望んだのでもないので笑顔を崩さない。ひめこは無言で首を振った。
ここまで来て隠すのも、次に姉に会った時に自分から言おう。「ごめんなさい」から始めて。なぜだろう。ゼッタイこれがいるから。あれと戦うのではないのに。
「つけてみせてよ」
ひめこの腕よりも何周りも大きい穴、おずおず手を侵入させた。肘まで入れ込むと左手を離す。瞬間体全体に魔力が行き届くような、はっきりとした力が漲ってきた。隙間があってもマケンは落ちない。触れて冷たかったマケンに血が通っているような温かさ、懐かしさまで感じた。手をにぎにぎ、指が思ったように稼働する。シジカはもう片方も渡した。
「どうも外は変なことになってるみたいだね。それでも行くんだ?」
奇妙な状況、されどそこまで。シジカに詳しいことまでは分からない。こういう時、何とかしてしまう人間は別にいる。例えばアイツ達のように。そういう時自分が何かできたら最高に嬉しいじゃないか。この仕事が誇りになる。ますますやめられなくなる。
「ありがとう。これ、大事にはできないかもしれないけど。使わせてもらうね?」
「こういう言い方するから変な呼ばれ方すんだろうけどさ。武器は使ってこそなんだよぉ。壊れたら直せばいい、それも武器。やっちゃってよぉ。アンタの魔力のままにね」
この子はカンコから聞いた新王よりもキレイな魔力をしていると思えるから。正しい使い方をする。近くにいるアイツがそうやって教えるはずだから。
「それじゃ、ええと。こういう時は」
「まだ何かあるのかい?」
「いってらっしゃいませ、ご主人様!」
「はい?」
ひめこがぎこちなかったのは急成長した腕のせいだろう。そしてシジカの困惑は。
「なに教えてんのさアイツは」
ひめこの背にナタカの面影を小さくしてまで被せて吐露してやった。
「けどまさかあの子がとはね。子供。まさかまさか鎌もアイツの連れだったりしないよね?」
巡り合わせに思い馳せながら迷惑客に散らかされた工房の片付けを始めたのだった。
(これなら。これでも)
全てを殴り飛ばせる、子供でもうぬぼれはなかった。飛ばせるものはあった。飛ばせないものもあった。
『ボクが洗ってあげようか?お姉ちゃんがやるの見てたからな。任せとけ!』
その日の夜は頭が痛くて怖いどころじゃなかった。次の日からあいつが隣にいるとすぐに眠れた。みんながいるのにあいつの隣が定位置になっていた。まだ名前がない頃のことだ。
『シスさんの手伝い?家のことだけじゃなくて?そうだなアキ、ボクたちも何かしないとな。家のことをサクラたちがしてくれるならボクたちは外に行くか。お姉ちゃんもほめてくれるぞ。な、ヒメコ?』
外は怖い。街の中でもおねーちゃんがいないと。けど。
『もし、もしもだよ?ヒメコが怖くなって。もしもだからね?そうなったら星を探して。おねえちゃんが教えてくれたよね?そこにレブンが、ぼくもシノブも、サクラにサツキもいるよ』
ごめんねあき。なかなか戻ってこないからあたしはまた一人にされたんだって勝手に思っちゃった。あきもつらかったんだよね?
「あたしの側にはあきがいる。れぶんがいる。二人がいつもいる!」
ひめこはいくつもの大きな星々を目指して走る。その中でも一際強く輝く星。この国で最も大きな建造物。
「星。大きな星。この先にある。あきの言ったとおりだったわね。れぶん探した。帰るわよ」
ナタカでも高く思えた城壁がひめこの前に立ちはだかる。けれど彼女は迂回することは考えなかった。髪が、燕尾がひらひら湧き踊るのは風が吹くからか。
『どこに行こうとしてたんだ!ほら、お姉ちゃんに怒られちゃうからな。アキも手。で、何がいるんだっけ?う、うるせー!ヒメコも覚えてなかっただろ!』
「みんないる。あたしに力があるなら。みんながいるあたしたちの家に帰る。れぶんと一緒に」
彼女は解き放った。自らの意志で、マケンの力だけには頼らない。これまでの走路を助走とする。
「こんのぉおおおおお!」
飛行機のない今の時代、誰が空を飛ぶことを思いつくだろう。鳥を見ても誰も飛びたいとは考えない。それは普通のこととなっていたから人によっては跳躍すら。その理由は明解、必要がないからだ。
必要に迫られたから彼女は思いついたのだろうか?拳を使うことを?フウマは足に魔力を込めた。地面に触れている箇所だから。思いつくとしたらそれが普通なのだ。
彼女は本能のままに拳をぶつけた。そして初めて飛んだ。爽快感よりも大切な想いを抱えて。
「もう一回!」
本能とは些か乱暴、この際はかわいくないがより重要。気持ちと言い直そう。誰が付けたか、食べ物と同じきもち。本能に抗える力だ。
『お前は負ける』
近付く地面、着地は瞬間のみと右拳で、寸前過去が襲ってくる。巨大な星の正体、ひめこはレイセの魔力に恐れを感じていた。今も体全体を刺してくるように。地面を殴りつけて飛んだあと、窓を壊してしまえばもう戻れなくなる。
『また負けたー!ヒメコ、次は帰る時だ!遅いぞアキ!お姉ちゃんが来るまでに帰れないぞ』
それでも拳は折れない。殴って進む、それは形を変えてずっとしてきたこと。
『サクラ!早く!おれが押さえてる間に!アキはそっちを手伝え!く、ヒメコぉ!』
硝子の破片が近くを通ろうと目は閉じない。そこに彼がいる。れぶんがいるから先に目を閉じるなんてしてあげない。でもそこがよもや。
(ああそっか。あんただったのね、れぶん)
大きな大きな星。あたしが、マケンが殴り倒したい星は。
『お前はいずれ現れる敵に』
必ずしも思い出させる過去が悪いものばかりとは限らない。
「お待たせ。さ、帰るわよ。れぶん」
ひめこは破片の応援を浴びて満面を輝かせた。隣に立つ男の子も最後にはそうしていたから。
どのような結末が待ち受けていても砕けない、はずのものであった。
決着の後クマが治療をしていた。その傍らに男がいる。彼はクマに問うていた。何故ナタカ一人で行かせたのかと。
「ナタカにマグは使えない。そうじゃない。ナタカは魔力に触れない。魔力も干渉できない。ナタカは魔力に干渉されない」
思い出すは皇帝との対峙。何もできず地面に寝かされていた過去。悔しさから生まれるものもある。
「マホウが必要だった。そしてこれも」
治療に使用しているマグは手持ちにはないものだった。それの他に治療には関係ないマグも持っていた。彼女が一番大事にしているマグだ。
「あれは」
「魔力がないから?関係ないよ」
猶更のことだった。勝ちに対してキナムトは何でもする。男は近くで学んでいたからナタカの勝利には疑問しかなかった。即打ち消そうとするのは姉であるクマだからなのだ。
「ナタカならできる。ワタシは見てきた。コウテイ、キョジン、アニサマオウサマ、マジュウとも、ワタシは全部見てた。たくさん見てきた。ナタカは勝つ。ワタシも必ず絶対。あの子もそう考えてがんばってる」
終わったのなら、ナタカならナディとレイセ、いたらオウサマも連れて戻ってくるだろう。それは下で耐えているアティスも。




