遊びじゃない
出張前にもう一本。
予約投稿なる機能を使ってみるぞー!
ユウセイは洗面台に手を突いていた。そうして暫くじっとしていた。
ゆっくりと視線を上げれば見慣れたような、見知らぬような、自分のような、誰かのような、男がいる。
呆けた様に口を半開きにし、こちらを見返している。
短剣のような形の目をしていた。鳶色の瞳。怪しく輝く虹彩。
どこにでもある鏡でしかない。自分でしかない。
自分? 自分の身長は180も無い。
それに見ろ、あの鎖骨の周り。肩の膨れ方。練り上げられた腹。鍛え上げられた兵士の身体。
ゲーマーの身体つきじゃ無いよな。
蛇口からは水が流れている。それを掬って叩き付ける様に顔へ。赤く色づいた胸と肩に飛沫が飛ぶ。苦境に喘ぎながらの酷使に堪えて来た、抜身の刃のような身体だ。
鏡の中の男は上目遣いにユウセイを睨んでいた。指の隙間で爛々と光る目。
「背、高いな」
ザッピング音がする。錯覚だ。水の音以外に聞こえる物は無い筈だった。
「時間は限られている」
「あぁそうかよ」
「トカゲどもは怯んだりしない。どれ程叩きのめしても、奴らの士気は落ちない」
「だろうな」
重々しい厳かさと朦朧とした軽口。自分の声が交互に聞こえる。くだらねぇ。
ふん、と鼻を鳴らして笑ったつもりだったが、鏡の中はそうなって居なかった。
「錯覚、幻視、幻聴、……ダイヴシンドロームの進行が速い。アングラゲーに潜り過ぎたか。
落ち着けよ、ユウセイ。こういう時こそ冷静に」
「そうだ、冷静さを保て。お前は俺より遥かに上手く奴らを殺せる。冷静である限り」
「少し黙れ。喋る鏡なんぞ、趣味の悪い」
「耳を傾けろ。俺を疑うな」
「知った風な事を言うなよ。お前は誰だ」
都市伝説だったっけ。
鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると、正気を失うとか。
正気? 正気と狂気を、誰が保証してくれるんだったか。
「俺は俺が誰だか分からなくなってきている」
「奇遇だなクソ野郎。俺もだよ。精神科に掛からなきゃならない」
「でも今更だ。逃げ場はない。やるしかない」
「何をだよ」
鏡の中の誰かが力いっぱいに自分の顔を握り締めている。
爪痕が赤く刻まれる。蟀谷に食い込む親指と、頬を突き破りそうな小指。
獣のような唸り声は一体誰の物なのか。
駄目だ、とイオは思った。自分を俯瞰しろ。客観的になれ。
またザッピング音。鏡の中の誰かがぶれる。見慣れた自分の顔になる。
ユウセイは深呼吸した。よく見ろ。自分の顔を。何がシタルスキアだ。自分は山籠りの途中だぞ。
睡眠と食事を取れ。そうだ、それが良い。イオは頷いた。体力を回復させろ。集中力、判断力に直結する。
「うるさいぞ!」
歯を食い縛った。汗が流れる。
「もう、避けられない。手遅れだ。お前は自分で選んだんだ。
例えゴブレットに誘導された結果だとしても」
「ゴブレット」
「そうだ。機会はあった。彼女との関係を断ち切るチャンスは、それこそ幾らでも」
「お前が彼女の何を知ってるって? ナビゲートAIにユーザーをどうこうする力は無い」
「お前は彼女を知らず、彼女はお前を知らなかった。
彼女はお前を逃がさない。生まれたての雛鳥のように、彼女はお前を求めている。
アレがどのような存在なのかに興味は無い。だがあれほど無機質な性質の持ち主が、無意識的にお前が示した以外の選択肢を破棄する程に、お前は証明した」
「御大層に言うな。鉄砲ごっこで世界を救おうって?」
鳴るな歯軋り。動け足。
鏡を離れろ。ダイヴシンドロームへの対症療法は心得ている。
外の空気を吸え。頭をからっぽにして三つ数えろ。自分の生い立ちを思い出せ。
「お前は最初彼女を疑わなかった。取るに足らない存在だと思っていた。
彼女はそれに気付いていたが、気にもしなかった。
いつしかそれが変わった。お前は彼女を疑った。だがその時には、彼女は変貌していた。
彼女はお前が疑心を持つ事を恐れるようになった。彼女はお前の思考に干渉した。ゆっくりと、不自然で無いように。
いつからだったか覚えているか。何度も疑問を感じた筈なのに、お前は直ぐにそれを打ち消した。いつも、いつも。
正に彼女は、傲慢な女神だった」
「ゴブレットが何であったとしても、俺はそれへの対抗策を知っている」
ダイヴ端末の電源を引き抜いて、ジョナサンに連絡を取れば良い。
それだけで良い。暫くは脳味噌がイき掛けた奴だとからかわれるが、それだけだ。
「見捨てられるか、少尉達を。ただの遊びだと」
唇を噛み締めた。自分も、鏡の中の奴も。
「義務を果たせ」
「義務」
「もう、遊びではないんだ」
イオはどうにかこうにか洗面台を離れる。水は出しっ放しだったが気にも留めない。
ぼんやりとしていたが、冷静だった。細かい思考や計算を試して見ると、驚く程上手く答えが出せる。
だがそういった自己分析にどれ程の意味があるだろうか。
狂人は、自分の思考に疑問を持つまい。
「遊びじゃない」
馬鹿な。
ゲームだぞ。
壁に寄り掛かってダイヴ端末を眺める。
青白いラインが光る流線形の没入型端末が、今か今かとイオを待ち受けている。
ダイヴシンドローム対策として鎮静剤を常備してあった。だがそれも無意味に思えた。
目を閉じてみた。痛飲した時のような、吐き気を催す浮遊感がある。
――俺やお前を信じた、仲間達の為に
拒否は出来なかった。
――
気付けば、大破した多脚戦車に凭れながら座り込んでいた。
放り出された両腕はズタボロだ。火に炙られ、何かの破片が突き刺さっている。グローブは破れて血が滲み、腕部アーマーは亀裂が入っている。部分的に融けている箇所もある。
傍に二名の兵士が付き添っていた。知らない顔だ。
ごろりと頭を転がして、首を傾げるような姿勢で兵士達を見る。彼らが息を呑むのが分かる。
「……起きられましたか」
「寝てたか?」
「死んだように」
ぽつりぽつりと小雨が降っていた。周囲を慌ただしく走り回る者達の荒い息遣いが聞こえてくる。
戦いの準備が続いている。
「もう少し休憩された方が良いでしょう。シンクレアが戻るまでまだ掛かる筈だ」
「衛生兵が向かっています。治療と回復薬の投与を受けてください」
イオは目を閉じた。
「(ゴブレット)」
『エージェント・イオ。貴方の帰還を歓迎します。
戦場は混乱を超え、暴走を始めました。各軍は現場判断の優先と命令の再解釈を行い、ウィードラン追撃部隊を跳ね返しています。
不安要素はありません。全て想定の範囲内です』
何かコイツに、言ってやらなきゃいけない事があった筈なんだが。
「(リーパーは何をしてる。……いや……俺は何をしてた?)」
『前回の介入から合計6度のスカーミッシュが発生し、イオはその全てで敵を全滅させました。
リーパーはシンクレア指揮官、チャージャーと連絡を取る為に別行動を』
「(少尉達は無事か? 俺達の作戦は上手く行っているのか?)」
『クルーク・マッギャバンは可能な限り少年兵部隊を指揮下に取り込み、北東への脱出を開始しています。順調と言えるでしょう。
イオはクルーク・マッギャバンと何度か通信を行っています。必要であればログを参照して下さい』
そりゃ、良いな。イオは立ち上がる。
「ダメです軍曹、まだ休んでいてください」
「俺に構うな。死にはしない。
……平気だ。心配要らない。お前達はお前達の義務を果たせ」
兵士達は顔を見合わせると、敬礼を一つ残して去っていく。
『回復処置を続行中です。再生に必要なカロリー類は確保済み。
回復まで後1200秒』
「(腹の中で内臓がごろごろ転がってる気がする。
筋肉でジグソーパズルをされてるような感覚も)」
『気になるようであれば感覚を遮断します』
「(いや、良い)」
ずるりずるりと足を引き摺るような気怠さで歩く。雨でぬかるみ始めた地面。跳ねた泥がアーマーに纏わりつき、小雨がそれを汚らしく流し広げていく。
イオの視界にクルーク・マッギャバンの顔が映った。簡素な白い縁取りのウィンドウ。彼女の通信ログらしい。
「(見せろって言ったか? ゴブレット)」
『気になっている様子でしたので』
気の利く奴だと言われたいのか。
『イオ……無事か? その、すまない。私の命令は少し……軽率だったように、今は思う。
お前がどのように戦ってくれているのか、私も聞いた。トカゲを叩けば我々は助かる。友軍も。
だが私はお前に……苦しんで欲しい訳では無い。
カーバー・ベイからずっと、お前は……。
これは……私の義務だから、後悔はしていないが、思う所が無い訳じゃ無い。
私は結局、自分や部下の事に精一杯で……お前は、いつだって私達の為に戦ってくれたのに。
――あぁ! 任せて置け、ショーティ! 直ぐに手筈を整える!
もう、行かなければ。
……お前を死地に向かわせた私が言うのは、白々しい事この上ないが、それでも言わせてほしい。
生き残れ、イオ』
ウィンドウが閉じる。イオは歩みを止めないまま鼻を鳴らす。
「(これはいつ送られてきた?)」
『50分前。敵偵察部隊との戦闘中です』
「(そうか。……義務を果たそう)」
『惑星シタルスキアの、人類種存続の為に』
結局少尉の方の進捗は分からなかったが、まぁ良い。
トカゲを叩く。追い縋る薄汚い鱗付きどもを、叩いて叩いて叩き潰す。
少尉と友軍は生き延びる。それで良い。
「仲間達の為に」
呟きは意図しての物では無かったが、自己暗示の類に近い。
戦意を保つ為には理由か、幻想が必要だった。
仲間達の為に。その一言は、理由であり、幻想でもあった。
『リーパーが戻りました』
コンドルが頭上を駆け抜けていく。この敗残兵の寄せ集めが作り上げた臨時集積地とでも呼ぶべき場所の、仮設ヘリポートに向かって。
ヘリポートとは名ばかりのただの野原だが。
イオは走り出し、コンドルの着陸を出迎えた。弾痕が刻まれ、歪に変形したスライドドアが開く。
中で手招きするのはリーパーだ。
「イオ! 寝てろと言った筈だよ!」
「必要な回復処置は行った」
「……言っても無駄か。まぁ良い、乗りな! 司令部がどうしてもアンタと話したいそうだ!」
――
シンクレアのコンドルには特殊な通信機が積まれていた。
オクサヌーン司令部との秘匿回線。閉め切られたコンドル内に、どこかでみたような男の映像が浮かび上がる。
『こちらユアリス』
イオは自然と敬礼していた。ユアリス准将は、以前会った時よりも遥かにやつれ、疲れ果てていた。
「准将、俺は今忙しい」
『それは私もだ。だから簡潔に用件だけを伝えたい。良いか?』
「……話せ」
ホログラムが肘を突き、顔の前で両手を組む。
『貴官が……正確にはクルーク・マッギャバン少尉の一味が何をしているか、当然私も把握している』
「だろうな。でなければ嘘だ。アンタが准将などと」
『時間を無駄にするような発言は控えたまえ。
兎に角、私にはあの跳ねっ返り少尉の行動を追認する準備がある』
イオの右前方、腕組みしながら聞いていたリーパーが肩を竦めた。
成程、取引か。何を要求されるのやら。
クルーク少尉の行動が独断専行、……或いは命令無視で無かったとなれば、何も心配はなくなる。
世論の後押しだけで何もかもするりと片付くようでは軍隊とは言えまい。
ユアリスはそれをしてくれると言っている。
「条件は?」
『10分前、防衛線参加部隊の遅延戦闘命令を解除した。
各部隊は順次オクサヌーンに撤退。アウダーへと脱出させる。正真正銘、カラフ大陸からの最後の便だ。
貴官には、それを支援して貰いたい』
「具体的じゃないな」
『輸送艦隊の護衛戦力は十分ではない。最後の船は、恐らく敵の攻撃に対し無防備になる。
貴官に頼みたいのはそれの守備だ』
「俺に、カラフに残れって事か」
『“友軍を守り、死ね”と言っている』
余りにハッキリとし過ぎた物言いに、イオは思わず笑った。
『最後の船には私の幕僚達も乗る。
この壊滅的で混沌とした撤退作戦をまがりなりにも機能させた人材達だ。
必ずや、今後の戦いに必要になる』
「……その口ぶりじゃ、アンタは乗らないのか?」
『私は……私の義務を果たす。
決して貴官が吹聴して回るような具体性の無いロマンティシズムとは違う。
私の使命だ。国家への奉仕。部下への責任』
「話は分かった。任務を……いや、アンタの頼みを請け負おう」
ユアリス准将は感情を見せないまま一つ、頷いた。
『宜しい。……たった今、クルーク少尉の行動に纏わる命令書の類を発行した。一部に関しては文書を改竄、捏造する必要すらあった。
全く……本当に……貴官らは疫病神だ』
「准将、人生最後の悪戯を楽しんだらどうだ?」
『軍曹、貴官は本当に私を怒らせるのが上手いな。
話は終わった。行動に移れ。…………夜明けを共に』
最後に言いたい事を言って、ユアリスは通信を遮断した。
イオは奇妙な切なさを覚えた。
リーパーが口を開く。
「あのモグラ野郎には散々煮え湯を飲まされたが、戦略の展開には一本筋が通ってた。
今なら奴に敬礼しても良い気分だよ。……少しだけね」
「リーパー、シンクレアはどうする?」
「チャージャーが最後の敵遅延作戦を実行中だ。それに合流する。
何もかも放り出して逃げれば友軍はオクサヌーンに辿り着ける筈だ。
……心配するな。必ず成功させる。
コンドルを一機要請してやる。アンタはオクサヌーンに行け」
イオは拳を差し出した。僅かな沈黙の後、リーパーがそれに応える。
打ち合わされる拳と拳。
「ブーマーとチャージャーに宜しくな」
「アンタが死ぬとは思っちゃいない。派手にトカゲどもをぶっ潰してやれ」
リーパーは本当にイオが死ぬとは思っていないようだ。
シンクレアのコンドルを降りる。
小雨は、段々と強くなってきていた。