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第四十話 ファースト・キス

目が覚めると、目の前にはようやく慣れてきた木目調の屋根が広がっていた。


「うん……?」


僕はゆっくりと体を起こす。すると、頭がずきずきと痛んでくる。


「痛っ!?」


僕はとっさに頭を抱えた。そんなことをしても頭の中身が安らぐわけではないのに、いったいどうしてこういう反応をとってしまうんだろう。人類の謎だ。そんなことをずきずきと痛む頭で考える。くだらないことを考えていた方が痛みを忘れられるような気がして。


「よっこいしょっと……」


とりあえず僕は身体をベッドの上から動かし、自らの足で立とうとする。足裏は久しぶりに地面に着いたかのような反応をする。地面に触れた部分から迅割と血液が巡っていくような感覚。気が付けば、僕の身体には機械全体に油が回るように血液が巡っていった。末端までそれらがたどり着くと、人間としてのぬくもりを取り戻すかのように体が熱くなる。指先や足先がピリピリと痺れてくる。耳の奥でかすかになるコーという何か流れるような音は、血流だろうか。息を吸って吐く。その動作を意識的にしたのが久しぶりな気がして、肺が驚く。少しだけむせる。一歩ずつドアに近づく。ここは確かに見覚えがある。僕の部屋だ。足を前に進めるたびに、頭のずきずきとした痛みが治まっていく。ドアノブに手をかけて押す。僕の今の身体の節々と同じような音を立てながらドアが開くと、


「海斗!?」


という、すごく聞きなじみのある声がした。


「あれ、おはよう、つるぎ。早起きだね」


一階には椅子から立ち上がったつるぎの姿があった。


「アホ!今は昼過ぎだ!」


「え?じゃあ、訓練は……」


「行ってないに決まってるだろう!?君がいつ起きるかわからないんだ、心配して……」


彼女の眼には涙。久しぶりに幼馴染の涙を見た気がして、動揺する。


「……ごめん」


「良い。君が謝るべきことじゃあない」


つるぎは目の下に少したまった涙をぬぐいながら、階段を下りている僕に近寄る。


「大丈夫か?階段、下りられるか?」


「うん。まあ、それくらいはね」


記憶があいまいだ。どうしてつるぎが泣いているのか。わかっているようで完全にはわかっていない。ぼやけた記憶をたどりながら、僕は席に着く。


「何か飲むか?」


つるぎは優しい口調で聞いてくる。


「じゃあ、水を」


「わかった」


僕が水を頼むと、つるぎは台所へ向かった。ほどなくしてコップになみなみと注がれた水が運ばれてくる。僕はお礼を言って、一口飲む。水が口に含まれると、口の中の渇きがじわじわと消えていく。のどを通り食道を通過して胃に勢いよく流れていくのがわかる。普段は水を飲んでも、こんな感覚を得ることはないのに、今日はやけに水がそこに存在しているのがわかる。水のチャポチャポとした感覚から、胃に何も物が入っていないことに気が付く。それに気が付いた瞬間、僕のお腹は怪獣みたいなうねり声をあげた。


「ふふっ。いい音だ」


僕は意図せず鳴ったお腹の音に恥ずかしくなって顔が熱くなる。たぶん僕の顔は今、真っ赤になっているだろう。つるぎはなんだかうれしそうな声でそう言うと、また席を立ち台所に向かう。


「何か胃に優しいものを作るから、ちょっと待っていてくれ」


つるぎはそう言って作業をし始めた。僕はそんな姿を椅子に座ったままぼけーっと眺める。まだ靄のかかった記憶から、霧払いをしようとしているが、摩周湖かと見まごう程の濃度に太刀打ちできないでいた。浦島太郎が竜宮城から元の世界に帰ってきたとき、こんな感覚を抱いていたのだろうか?そういえば、浦島太郎も、今の僕たちと同じ状況だ。いや、逆だ。僕たちが浦島太郎と同じ状況なのだ。異世界に行った先輩の物語の結末では、大いに時が過ぎ、元の世界は知っていたころとは全然別の世界に代わっていた、というふうになっていた。僕たちが仮に元の世界に帰れたとして、その元の世界が僕たちの過ごしていた時間からものすごく進んでいたら。僕たちは果たして元の世界に帰れたと言えるんだろうか?


「出来たぞ。米がないから、パンがゆだけど我慢してくれ」


そう言ってつるぎが僕の目の前に差しだしたのは、湯気の出た半液体半固体状の黒色の物体だった。匂いは嗅いだことのあるものだ。


「いただきます」


僕はスプーンでそれを少し掬って口に運ぶ。黒色という見た目に反して、優しい味わいのあるそれは口の中にじんわり広がり、胃に熱を与える。初めてテクルを食べた時の記憶がふと蘇った。


「やっぱ、テクルってパンじゃないけどパンだね」


「そうだな……味はどうだ?」


僕の言葉にニヤケながら、そう尋ねてくる。


「うん。おいしいよ」


「なら、よかった」


つるぎは胸をなでおろしながら、一息つく。そして、すぐに口を開いた。


「海斗。君は三日間寝続けていたんだ」


「え?三日間も?」


「ああ、なんでだか覚えているか?」


「うーん。さっきから記憶をたどろうとしてるんだけど、なかなか思い出せなくて」


「私と君で、黒竜を倒したんだ。君が最後の一撃を黒竜に食らわせたと同時に、君は目から血を流しながら倒れたんだ」


黒竜という言葉を聞いて、徐々に頭の中の霧が晴れていく。そういえば、僕たちは竜狩りの見学に行っていて、土鋼竜と戦士たちの闘いの途中にそれに巻き込まれて、いきなり現れた黒い翼竜に襲われたんだ。それを僕とつるぎとで倒そうとして、最後は……


「あ、勝ったんだ」


「うむ。そうだ。というか、そこから覚えていないのか?」


「うん。とりあえず黒竜と戦ったことは思い出したけど、結果は知らなかったなあ」


「……そうか。まあ、とにかく私たちは黒竜を見事倒したわけだ。半分以上は海斗のおかげなのだが……」


「そんなことないよ」


「いや、そんなことはある。まあ、その話は後でするとしてだ。君が目から血を流しながら魔法を放ち、竜を完全に倒した後、救援が来て私たちは助かった。倒れている君を竜狩三番隊の拠点にとりあえず連れて帰り、昨日の夜ようやくこの家に戻ってきたんだ」


「ああ……そうだったんだ」


「その間私は死ぬほど怒られたが、状況を説明して竜に対抗するしかなかったということを証明した。そして、私たちの軒先にはあの黒竜の鱗が何枚か下がっている」


「……つまり?」


「つまり、私たちは二人で一人前の竜狩り戦士だということが認められたというわけだ」


「なるほど?」


何となく話のつながりが見えないが、とりあえずあの黒竜相手に勝ったのは良かったと思った。それと同時に今生きていることが、実はとてもすごいんじゃないかという気持ちも起こった。


「で、君が倒れていた原因だが」


「うん」


僕は食べ終わった食器を台所に持っていこうとしたが、つるぎが素早く食器を僕の手から奪い取り、台所えて持っていった。


「どうやら第四位魔法の使いすぎではないかというのがリータの見立てだ。極度に使用された脳ミソがオーバーヒートを起こし、その副作用として三日三晩眠ったままだったり、目から血を流したりしたのではないかという話だ」


「ふーん。第四位魔法の使い過ぎ、か」


僕はそれを聞いて少しショックを受ける。第四位魔法でこんな体たらくなら、第五位魔法、ましてや最終位魔法なんて夢のまた夢だ。


「まあ、詳しい話はリータに聞いてくれ。それより」


つるぎは台所から帰ってくると、自分の席に戻らず僕のそばに寄ってきた。そしてそのまま僕に抱き着いてくる。


「おかえり、海斗」


いきなり抱き着かれて戸惑い、僕が手をさまよわせていると、問答無用でつるぎの手が僕の手をつるぎの背中に回す。つるぎの身体は柔らかく暖かで、なんだかとても安心できる心地がした。


「ただいま、つるぎ」


すべての面をくっつけていた状態からお互いの身体を少し離し、お互いの顔を見つめる。そして、僕たちはどちらからともなく口づけをした。つるぎの唾液が僕の中に入り込む。その甘やかな感触が、僕の舌を軽やかに痺れさせる。その熱は、僕たちが今まで一緒だったということを、今後も一緒であるということを訴えかけてくる。一生懸命に。しばらくして、名残惜しそうにつるぎが僕の唇から唇を離す。妙になまめかしい唾が糸になって僕とつるぎをつなぐ。


「喜べ。ファーストキスだぞ」


頬を赤く染めながら照れくさそうにつるぎは言う。つるぎの吐息が僕の唇をくすぐる。


「僕もだよ」


僕はそう言って、今度は僕の方からつるぎの唇を奪う。今度はさっきより少しだけ力強く。僕たちはしばらくの間、そうやって互いの唇をついばみ続けた。

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