第四話 死
放課後。つるぎに言われた通り、僕は学校の武道会館の玄関口までやってきた。体育館のすぐ裏手にあるこの武道会館は、弓道部や柔道部、剣道部などの部室と、道場が設備されている。中からは、柔道部のものと思わしきドタドタという振動や準備体操の掛け声が聞こえてくる。弓道場からも何かの音が聞こえてくる。まさか弓矢の音ではないよな?こんなに大きい音させるくらいの威力って考えられないくらい恐ろしいぞ……そんなことを思いながらつるぎを待っていると、玄関口の奥の方から何やらガヤガヤと人の声が聞こえてきた。そして、つるぎが剣道着を着た女の子たちに囲まれながら現れた。
「つるぎさん、本当に大丈夫ですか!?」「私たちが家まで送りますよ!」「無理しないでください」「つるぎさんをこんなになるまで苦しめた生徒会……許さない……!」
取り巻きの女子たちはしきりに何かつるぎに話しかけている。つるぎは軽くうなづきながら、靴を履くと、僕の方を見る。
「ああ、海斗……」
つるぎはそう言うと、僕の方へ何となく弱々しい感じを出しながらゆっくりと歩いてくる。すると、さっきまで取り巻いていた女子たちが、僕のことを見ながら、口々に
「あれがお迎え?」「あんなヒョロヒョロの男に、もしもの時につるぎさんを守れるのかしら?」「やっぱり私たちが送ってった方が良いんじゃないかな……?」「あの人、つるぎさんの幼馴染らしいわよ」「たまたま幼馴染だってだけで、あんな男がつるぎさんと……」
などと口罵ってくる。本人たちは僕に聞こえていないと思っているのかもしれないが、がっつり僕の方まで聞こえている。僕は、彼女たちは普段の練習で声を出しすぎて、音量を調整できなくなってしまったのだろうと思うことにした。だって傷つきたくないから。
「何の真似だ?」
僕は近くにやってきたつるぎに、本当の小声で尋ねる。つるぎも小さい声で返してくる。
「今日は悪い子になるって言ったろう?だから仮病を使ったんだ。そしたらこんなことに……」
「なるほどな」
「君も口裏を合わせてくれよ」
「へーへー」
つるぎは僕の横に立つと、玄関で見送る準備をしていた女子剣道部員に向かって口を開いた。
「じゃあ、私はこの人に送ってもらうから、みんなは私の心配なんかしないで、練習頑張って」
そういって、ゆっくりとした足取りで校門の方へと向かう。集まっていた女子たちは一斉に
「「「「「お大事にしてください!お疲れ様です!」」」」」
と叫んだ。
武道会館からは見えない曲がり角まで来ると、つるぎは普段の歩くスピードに歩調を変えた。
「あいかわらずすごい人気だな。関係ないこっちにまで飛び火してきたぞ」
僕はつるぎの歩調に合わせながら言う。
「まあな。男子だけでなく女子にも受けるような端正な顔立ち、学年トップの頭脳、それに剣道も実力があって、生徒会長。誰がどう見ても完璧だ。人気がない方がおかしい」
「自分でそういうことを言うような傲慢さをみんなに見せれば、瞬く間に人気は急降下していくだろうよ」
「わからんぞ?もしかしたらギャップ萌えでさらに人気になるかもしれん。どれだけすごい人間にも欠点があるとわかった方が、その人のことをより人間として感じられて、かえって親しみやすさを覚えるだろ」
「じゃあ見せれば?」
「そんなことするわけないではないか」
「なんで」
「こんな一面の私は、よっぽど親しい人にしか見せん。私がこの自分を見せるのは家の者と、学校の人間なら君だけだ」
「…………」
「よかったな。学校で大人気の私の知らない一面を自分だけが知っているというのは、快感だろ?」
「……別に」
「ふっふっふ……口ではそう言ってるが、身体は正直だぞ?ちぎれそうなくらい勢いよくしっぽを振ってるではないか」
「しっぽなんてあるかよ……」
「そんなこと言っても、君の心のしっぽはブンブンブンブン振られているじゃあないか」
「だからしっぽなんてねーっつうの」
君は素直じゃないなぁ、と笑いながら、つるぎは僕の少し先を歩いた。
つるぎが連れて行ってくれたのは、通学路から少し外れたところにある、渋い純喫茶だった。カランコロンと喫茶店で必ず鳴るドアベルの音を聞きながら、僕たちは入店する。コーヒーの豊かな香りと、パンの焼けた良い匂いが、まず鼻腔をくすぐる。黒いロングドレスに白いエプロンをした、いわゆるヴィクトリア朝のメイド服を着た女性が、僕たちを席に案内してくれた。黒っぽい木でできたテーブルや椅子が空間的余裕を多く持った感覚で店内に並べられている。カウンターの奥には、しっかりと制服を着たマスターらしき男性が、サイフォンでコーヒーを作っている。店内には小さめの音量でジャジーな音楽がかかっており、時折、カウンターに座っている人の新聞をめくる音なんかも聞こえてくる。
「なかなか良いところだな」
僕は案内された席に座りながらつるぎに言う。
「そうだろう?私がまだ書記だった頃、生徒会の仕事の帰りにいつもとは違う帰り道を探していたら、たまたま発見したんだ。それ以来、ちょくちょく来ていてな」
「ふ~ん」
「ここは、コーヒーはもちろん、ホットサンドとナポリタンがすごく美味しいんだ」
「へ~、でもさ」
「うん?」
「よく考えたら、もう少しで夕飯だし、デザート系で良いかも」
「何をバカなことを言っているんだ君は。世の女子高校生の胃袋が既にブラックホール並みなんだぞ?男子高校生の胃袋なんてものはもうブラックホールそのものだろ?」
「いや偏見がすごい……だいたいそんなにバカバカ食べるような女子は剣道部位だし、俺の胃袋はブラックホールではないことは自明だ」
「すいませ~ん」
「おい、無視するなよ」
「ご注文お決まりでしょうか」
「コーヒー二つにナポリタン二つ。あと、ホットサンド二つください」
「かしこまりました。少々お待ちください」
つるぎは僕の言葉を無視すると、勝手に注文を済ませてしまった。
「何故ナポリタンとホットサンドを両方頼んだ?しかも二つずつ」
「両方頼んだのは本当にお勧めで食べてほしいからだし、二つずつ頼んだのは私も食べるからだぞ」
「お前の胃袋がブラックホールじゃねーか……」
しばらくすると、コーヒーとナポリタン、ホットサンドが運ばれてきた。
「しかし、改めてみるとすごい量だな」
「そうか?このくらいペロッといけるだろ?」
「確かにこの量を食べきれないなんてことはないけど、あとのことを考えるとね……」
僕はそういいながら、まずコーヒーに口を付けた。コーヒーは普段あまり飲まない僕だが、そんな僕でもわかるくらい美味しい。香りからして、もっと濃い味かとも思ったが、そんなことは全然なく、クリアな味わいだ。つるぎを見ると、ホットサンドにかぶりついていた。それならと、僕は先にナポリタンの方を食べることにした。見た目は何の変哲もない普通のナポリタンだ。一口食べる。……おいしい。何というか、昔を知らない僕が言うのもおかしな話であるが、「昔ながら」という表現が一番しっくりくるような、そんな味わいが、このナポリタンにはある。二口目、三口目と止まらない。
「ホットサンドが冷めてしまうぞ」
ナポリタンに夢中になっていた僕に、つるぎが言う。僕は、つるぎに言われた通り、いったんナポリタンの手を止めて、ホットサンドを食べることにした。さっき店に入った時に感じた、あの小麦粉の焼けるいい匂いの正体はこいつだ。口に運ぶ前からおいしいことが確定している。一口かぶりつくと、サクッという小気味い音が聞こえてくる。驚くことに、口の中に、パンの中に潜んでいたチーズがとろけ出てきた。ハムの塩気がいい塩梅にパンとチーズとミックスしており、この世で一番おいしいのではないかと思うくらいだ。僕はふとつるぎを見ると、おいしそうにナポリタンをほうばっていた。それを見て、僕も目の前の料理たちに集中することにした。僕たちはお互い無言で、料理を食べた。
結局あの後、なんだかんだ言ってチーズケーキを食べてしまった僕たちが店を出たころには、すでに辺りはすっかり暗くなっていた。
「美味しかっただろう?」
僕たちは喫茶店を出ると、先ほどの会話分を取り戻すかのように話し始めた。
「ああ、死ぬほどうまかった。ごちそうさま」
「夕飯の心配をしていた割には、チーズケーキまで頼んでしまったな」
「またあのチーズケーキもうまいな」
「そうだろう?」
「……また来よう」
「良いぞ。今度は君がご馳走してくれ」
「なんでだよ。今回のは、つるぎのせいで昼をくいっぱぐれた僕のためのだっただろ?」
「そうだが……いいではないか、私にもおごってくれ!」
そんな話をしながら、僕たちは少し大きな通りへと出る。そこには横断歩道があり、歩行者信号は赤を示していた。しばらくすると青に変わったので、僕は何の気なしに渡ろうとした。するとその瞬間、
「危ない!」
という声がした。そんな声が聞こえたかと思うと、いつの間にかつるぎが僕の腕をとっていた。つるぎは僕を引きずるようにして走り出す。右を見ると、普段見るタイプのトラックが目の前まで迫っていた。僕は、あっと思ったが、それ以外何も感じなかった。僕の体が引きずられていく感覚がするが、どう考えても間に合わない。それどころか、つるぎまでもがこのままだとトラックにひかれてしまう。ああ、もうダメだ。二人とも間に合わない。僕は目の前に迫るトラックの顔を見ながら冷静にその場を分析していた。そしてぶつかる前のほんの一瞬。僕の口には、さっき食べたあのナポリタンの味が蘇っていた。