第一話 つるぎ
桜が咲いていたことなんてすっかり忘れさせてしまうくらいの濃い緑が青々と生い茂っている。気のせいかいつも見る空よりも高くなっている気がして、少しくらむ。気を抜けば八月と同じくらいの日焼けをしてしまうほど強い太陽光は、つるぎを待っている僕の目に強烈に飛び込んでくる。ここの大きな屋敷の目の前の大きな木の扉は、ロールプレイングゲームで云えばいわば第一の門のようなもので、その奥には迷ってしまいそうなほどの広大な敷地とこれまた大きな家が広がっている。僕はそのことを知っているので、たとえつるぎが学校の始業時間である八時二十五分に到底間に合わないような時間である八時十五分に目の前にある大きな木の扉をくぐって来ても、文句は言わない。たぶん。
「おはよう、海斗」
大きな扉を自分で開きながらつるぎは言う。
「おはよう、つるぎ。ずいぶん遅かったね」
「そうか?まだ学校が始まるまで十分あるぞ。間に合うだろ」
「それはつるぎが走ったらだろ……?」
「君も走ればよいではないか」
「……僕が走っても間に合わないこと知ってるだろ?嫌がらせか?」
「もちろん。ついでに言うと私より足の遅い人間は全て記憶してるぞ」
「嫌がらせなのかよ……っていうか全校生徒を記憶してんのかよ……」
「当然だな。私は生徒会会長だぞ?」
「そんな生徒会長は学校史上お前だけだろうよ……」
「なら、名誉なことだ」
ハハハッ、と笑いながら僕の前を少し先に歩くつるぎの後姿。後ろでひとつにまとまっている長い黒髪が、太陽光にさらされてキラキラと光っている。まるで太陽までもが彼女の姿を賛美しているようで、僕は呆けてしまった。
「で」
つるぎが髪をなびかせながら振り向く。
「このまま歩いていれば学校には間に合わないわけだが」
「うん」
「走るか?」
「いや、僕は走らない。多少遅れても、一時間目は古典の中谷だから大丈夫だし……それよりもつるぎはどうするんだ?このままじゃ『生徒会長、まさかの遅刻!政権交代も時間の問題か!?』みたい見出しで新聞部に書かれるぞ?」
「海斗が走らないなら私も歩いて学校に行くよ。新聞部の問題にもちゃんと対処するつもりだ」
「対処?」
つるぎはニヤッと笑うと、突然、通学路である道から路地に入っていく。そしてそのまま突き進んでいく。僕もあわててつるぎの後を追う。少しすると、軒先のベンチにちょこんと座っている可愛らしいおばあちゃんがいた。
「お久しぶりですね、おばあさん」
「おお、つるぎちゃんじゃないか……どうしたんだい?こんなところで。学校は?」
つるぎがおばあちゃんに話しかける。おばあちゃんの反応から見ると、どうやら知り合いらしい。
「今日は一つお願いがあって来たんです」
「なんだい?言ってごらん?」
「今日の午後五時くらいになると、きっと私たちと同じ制服を着たもっさりメガネ三人組がおばあさんのところに尋ねてくると思うんです。なので、その時に確かに私に助けてもらったというようなことをその三人組に言っていただくとありがたいなと」
「なるほどねぇ……つまり遅刻したつるぎちゃんのアリバイ工作を手伝うってことだね?」
「その通りです」
「いいよいいよ。手伝ってあげる」
「本当ですか!ありがとうございます!」
「いいのいいの、つるぎちゃんに助けてもらっていることは本当のことなんだから」
「……恩に着ます」
「いいんだって。ほら、早く行きなさいな」
「はい」
何が何だかわからないまま話が進んでいく。僕は置いてけぼりだ。軒先にある植木鉢の底から出てきたナメクジが、そんな僕を見て笑っているような気がした。
「どういうことだ?」
僕は路地から抜ける道でつるぎに尋ねる。
「私は今日、学校に遅刻した理由として『おばあさんを助けていたから』だと言うことにしたんだ」
「はあ……?でも助けてないじゃないか?」
「だから、さっきのおばあさんに私に助けてもらったということを言ってくれと頼んだわけだ」
「ははあ、なるほどね。つまりさっきのおばあちゃんと口裏を合わせて助けたという事実を偽装するわけ
か」
「なに他人事のように言ってるんだ?もちろん君も言うんだぞ?」
「なんで?」
本当になんでだ?そもそもいつもの集合時間に遅れたのはつるぎの方だし、何だったら走っていけば間に合ったはず。それなのにも関わらず歩いているのはつるぎだ。僕が協力する必要あるか?
「なんでもクソも、私の名誉を守るために決まっているじゃないか」
「いや、あっけらかんとゲスいことを言うなよ」
「ゲスではない。これも戦略のうちの一つと言ってもらいたいものだな」
「まあ、戦略だとして、なんで俺が手伝わないといけない?」
「君も遅刻扱いになるのは嫌だろう?」
「いや、別に。それにさっきも言ったけど、一時間目古典だし……」
「それに私の評判が下がったら困るだろう?」
「いや、ちっとも。みんなお前の外面に騙されて評価を誤ってるからちょうどいいんじゃないか?」
「失敬な。私は外も内もパーフェクトな完璧生徒会長様だぞ?」
「外見はともかく中身はダメ人間だろ」
「ほう、君が私のことを褒めてくれるなんて珍しいな。うれしいぞ」
「いや、褒めてないが?」
「褒めただろう?『外見はともかく』ということは、君の判断によると私の容姿はダメではないということだ。ん?違うか?」
まっすぐに僕の目を見つめてくるつるぎ。その顔は、確かに文句をつけようがないほど美しいものであった。だから僕は
「だから褒めてないって……」
とつるぎの顔から目をそらすことしかできなかった。
「もう少しで制服も夏服になる。そしたらいの一番に君に私の夏服姿を見せてあげよう」
ニヤニヤしながらつるぎが言う。
「わかったわかったって……それより、僕は何を言えばいいんだ?」
目をそらしたまま僕はつるぎに尋ねる。
「うん?そうだな……まあ、私と一緒におばあさんを助けたと言っておけば問題ない。あとは何を聞かれても答えないように。特に新聞部のやつらにはな」
「はいはい、わかったよ」
そんな話をしているうちに、僕たちの学校が姿を現してきた。白い壁が光を反射してまぶしく光っている。
「着いたな」
僕を見ながらつるぎが言う。その瞳は、学校の白い壁よりも輝いていた。