母上が心配だ
アメリアは宣言通り騎士団に入った。
意外なことに、ディックも騎士団へ入ったそうだ。ミーナが教えてくれた。
確かゲーム上では、ディックは自警団に在籍していたはずだ。
様々な箇所に原作にはなかった差異が現れ、困惑してしまう。
ちなみにそんなミーナも、フランのパン屋でアルバイトしている。
本来ミーナは、下町の食堂だったかで働いていたはずだ。
そしてフランの家は経営が傾き、最終的には孤児院の手伝いをしていたように記憶している。
……何がどうなっているのかさっぱりわからないが、みんなが元気そうで私も嬉しく思う。ああ、本心だ。
アメリアも19歳になったのだが、未だに婚約関係は続いている。
あと2年で神子が現れるというのに、そろそろこの契約を解消しなければ、本格的にまずい。
結局私は剣を習うことは出来ず、乗馬技術と野草の見分け方を習得しただけだった。
いや、これでも一応、キャンプの仕方とかは学んだぞ?
だがな、身を守る術がゼロなんだ。
こうなったら、馬で逃げるしか……待て。そもそも、私用の馬がない……?
おっと、盲点だったな!
我が家の馬車用の馬を持ち逃げするわけにもいかない。強請ったら買ってもらえるのか?
あの母上が、馬の購入に頷いてくれるのか?
私の次の誕生日はいつだ!? 来年!? くそ、チャンスが2回しかないではないか!
……まずい。この段階に来て、こんな初歩的なことにつまづくなんて思いもしなかった。
武器もない、馬もない、となれば、死が間近に迫っている。
ははは。……笑えるか!!
まずい、まずいぞ……。
この5年間、それとなくアメリアに婚約解消について囁いてみたが、ふわっとかわされるだけで話に進展はない。
何故だ!? きみはもう学校を卒業しているし、噂も、名高い悪女を生んで落ち着いた!
これ以上偽装婚約を続ける理由など、どこにもないはずだが!?
このままでは家が没落する。私も、着の身着のまま国を追放される。
まずい。あと2年でどうにかしなければ……!!
*
「……母上、それは何だ?」
母上に馬の相談をしようと、気合いを込めた。
しかし、テーブルの上に何やら青色の小瓶が並んでいるのを見つけ、疑問から話題を変える。
母上は鼻歌混じりに、機嫌良さそうにしていた。こんな母上、見たことない。
怪訝に思いながら、適当にひとつを手に取ってみた。
片手におさまる小瓶は、外装のガラス細工が大変凝った仕上がりをしている。
こちらを向いた母上が、うふふと笑った。ひとつの小瓶のコルクが開けられる。
「聖水よ」
「ほう」
透明のグラスに聖水とやらの小瓶を傾け、中身を注ぐ。
しゅわしゅわと白いもやの絡んだ、不思議な水だった。さすが聖水だな。肩こりに効きそうだ。
「司教様が特別にと、わけてくださったの」
「聖水は一般には出回らないのではなかったのか?」
「だから特別に、よ」
うっとりとグラスを掲げる母上は、熱心な信徒だ。
どこか夢現な表情で、片手を頬に当てている。
聖水の管理は大神殿が行っている。
神官見習いのクリスいわく、『聖域の森』から水を汲み、なんやかんや企業機密をして、聖水を作っているそうだ。
この精製には、上位の神官しか関わることができない。
クリスは見習いなので、どういう作業工程を踏んでいるのか、まだ知らないそうだ。
以前、「祈ってんだろ?」との雑な予想をもらった。
なので、聖水が一般市場に出回ることは、まずない。
大神殿も厳重に管理していると聞いている。
おまけに瘴気の立ち込める現在、『聖域の森』は封鎖されている。
聖水の原材料は、『聖域の森』の清水だ。
ところがその貴重な『聖水』が、我が家にある。
私の右手が持つものと合わせて、12本。1ダースか。
……本当にこれ、聖水なんだよな? 『聖域の森』の水を使っているんだよな?
青の小瓶には、小さく不規則な文字列が彫られていた。管理番号か?
「この聖水はね、わたくしたちの信仰心の現われなのよ」
「ほう。母上たちは熱心だからな」
「あなたも信仰なさいな。ふふっ。昨日、献金へ向かったら、司教様とお話する機会をいただけたの。夢のようだったわ!」
ほふ、とため息をついて、母上がうっとりしている。
私がクリスとエレナと散歩している間に、なにやらあったらしい。
「別室へお呼ばれして、お茶とお菓子をいただいて、お忙しいお方なのに、司教様はわたくしたちの話を聞いてくださったの!
そしてわたくしたちの信仰心を評価してくださって、こちらの聖水を譲ってくださったのよ!」
密室で行われる詐欺的な手法を感じるのは、私の心が穢れているせいか?
会員制の、関わると危険そうなものに思えるんだが……。
「譲るなんて、司教殿も気前がいいな。いくらしたんだ?」
「ユカ! 言葉を改めなさい! わたくしたちは、お心を添えただけです!!」
「……すまない。口が過ぎた」
母上の気迫に押されただけでなく、その『お気持ち価格』にぞっとする。
これは、私がどうこうしなくても、勝手に没落するんじゃないか? この家。
母上が表情を改めた。いつもの聡明な母上の顔で、まっすぐに見詰められる。
「いいですか、ユカ。今この国は、瘴気に満ちています。この聖水を飲めば、体内から瘴気を浄化することができます。
……あなたはあまり身体が強くないの。お母様を安心させるためにも、これを飲んでちょうだい」
「……母上は過保護だな。昔の話ではないか」
「ユカ」
私は別に病気を抱えているわけでも、運動に制限を設けられているわけでもない。
単純に、幼少期に高熱に伏しただけだ。他に目立った病歴もない。
母上も、家のものも、心配性だ。
……ため息を飲み込む。母上に気をもませるのは、本意ではない。
「わかった。飲み方に作法はあるか?」
「一日一回、ティースプーンに一杯分を、水に薄めて飲むのよ」
「水を水に薄めて飲むのか……」
素麺つゆみたいだな……。
微妙な心境に陥ってしまったが、母上がにっこりしたから、よしとしよう。