お姉さんの襲来
その日我が家を訪れた黒髪の少女は、どんぐりのような瞳をじっとりと細め、レースで織られた扇子越しにこちらを睨んでいた。
剣呑な空気に背筋を正す。
……言葉遣いには注意しておこう。
「わたくし、フィオナ・エルステラと申しますの。あなたがユカ・ルクレシアさん?」
刺々しい声音に、うっかり口許が引き攣る。
エルステラ、エルステラ……貴族の上位にその名前があったな。
何故そのような高貴な人物が、わざわざ私に喧嘩を売りに来ているのだろう?
「はい。そうですが」
「まあっ、何て格好をされているのかしら。ルクレシア家には、ドレスを買うお金もありませんこと?」
「ははは。このような装いで応対してしまい、大変申し訳ございません」
先制攻撃を受け流し、にこやかに微笑みかける。
対面のソファに座るフィオナ嬢は、益々眉間の皺を深めていた。
イオリのいる方角から底冷えする空気が漂っているが、彼をこの場から撤退させた方がいいな。暴力沙汰はごめんだ。
大層冷たい眼差しで、ご令嬢が扇子越しに話す。
「勿論ご存知だとは思いますけど、わたくし、イクシス様の婚約者ですの」
フィオナ嬢が挙げた名前に得心する。
イクシス王子の婚約者。そういえばそのような名前だったように記憶している。
美人な子ではないか、イクス。何故誕生会で私に声をかけた。
扇子を下げることなく、フィオナ嬢が半眼でこちらを睨み据えている。
鈴を転がすような声音で、彼女が苦言を呈した。
「全く、いやですわ。このような方を見初めようとは、あの方に丁度いい眼鏡を贈って差し上げませんと。
あの方が足繁くこちらへ通っていると耳にしましたの。他人の婚約者を寝取ろうとは、お噂に違わず悪食ですのね」
「そのようですね。私も噂の全貌は把握し切れていないのですが、相当な悪女と化していることかと」
「まるで他人事のような言い草ですのね。わたくし、これでも結構我慢しましたのよ」
「大変失礼いたしました」
「そう、我慢しましたの。結構耐えましたの……ッ」
ふるふると華奢な肩を震わせ、ぱちん、扇子が閉じられる。
それをテーブルの上へ乗せた彼女が、鋭い眼差しでこちらを睨みつけた。
「何故、そのような愛らしいお顔で、ドレスを着てくれませんの!?」
「……は?」
「一度お立ちなさい! そうっ、そしてくるっと回りなさい。そのような野暮ったい回り方ではなく、もっと可憐にくるっと! そう! そうですの!!」
突然立たされ、くるっと回らされ、大興奮なフィオナ嬢に困惑する。
な、何が起きたんだ……?
彼女はイクシス王子を誑かした私に苦情を述べに来たのではないのか? 何故、くるっとする話になっているんだ?
胸の前で両手を組んだ彼女が、元気良く立ち上がる。
私の前まで歩み出たご令嬢が、ドレスを摘んで恭しく礼をした。
「先ほどの無礼な物言い、大変失礼いたしました。わたくし、あのようにして、あの阿呆の引っ掛けた女の子たちを阿呆の魔手から引き剥がしていたのです」
「あほう……」
「気が多いことは子孫繁栄に精力的とはいいますけど、あれではただのすけこましですわ」
「ま、待ってくれ。イクシス王子の話をしているのか?」
「他に何がありますの」
「国の宝を、すけこましとは口が過ぎないか!?」
「わたくしの宝は、可憐な女の子ですわ!!」
私の主張に、フィオナ嬢が毅然とした態度で言い放つ。
いやしかし、だからといって、不敬罪が恐ろしくないのか、きみは!?
悲嘆に暮れた顔で、彼女が胸を押さえた。華奢な指先が重なり、固く握られる。
「あなたのような可憐な少女があの阿呆にいいようにされているのかと思うと、わたくしいても立ってもいられなくて……!」
「待て。可憐な少女はやめろ。鳥肌が立つ。イク……シス王子は、別段害意なく接してくれるぞ?」
「あの男の話はおやめなさい!! あなたの品位が下がります!!」
「仮にも婚約者だろう!?」
「くっ、どうしてくれようか、あの男……ッ。いたいけな少女に手を出すなど、言語道断……!」
爪を噛む様が似合いすぎている。
ぎりっとハンカチを握り締めるフィオナ嬢の姿に、イクスの明日を心配した。
……イクス、きみも大変だとは思うが、強く生きてくれ。
彼女は表現方法が独特なだけであって、悪い人物ではないと思うんだ……。
「お、落ち着いてくれ、フィオナ嬢……! 彼は本当に、むしろ私を嫌っている方だ!」
「あれだけ浮かれた顔であなたの元へ通っておいて、何を言っておりますの! 騙されてはいけませんわ!!」
「浮かれているのか!?」
「浮かれていますわ! にやにやと気味の悪い笑顔で、ちょっと見栄を張って茶菓子なんかも用意して!」
「……フィオナ嬢、王子のこと、嫌いすぎないか……?」
「あれに誑かされた女の子の数だけ、腹に叩き込んでやらねば気が済まないんですの!!」
「腹に叩き込む!?」
およそ令嬢らしくない言葉の出現に、思わず竦んでしまう。
心を落ち着けるように、細く長く息をついたフィオナ嬢が、「失礼、かっとなってしまいましたわ」アグレッシブな心情を吐露した。
それにしても、婚約者にここまで言われるイクスに同情の念を抱いてしまう。
確かに出会いは最悪だったが、話してみれば彼自身は面白く中々に純粋で、意外と純情なところもある年頃の少年だ。……国の宝の王子なんだが。
「その、フィオナ嬢。本当に私と彼の間に、恋慕の類は一切ないんだ」
「まあっ、何故そう言い切れますの?」
「……彼は私を、男だと勘違いしている」
「……呆れた」
イクスには悪いが、彼の名誉のために打ち明けた秘密の内容に、フィオナ嬢が頭を抱えた。
再び重々しいため息をつき、彼女がゆらりと顔を上げる。
「こんなにも愛らしい少女を前にして、男と間違う? あの目は飾りですの?」
「愛らしいも少女もやめてくれ。悪寒がする」
「今すぐその膝頭を覆うふわふわのもこもこのフリルの山を設けたいと思っているのに……ッ」
「そのような目で、私を見ないでくれ」
「あああっ、その白藤の髪を結いたい……っ。編み込んでリボンで飾って、360度様々な角度からドレス姿を鑑賞したい……ッ」
「や、やめてくれ……! ドレスなど、布の塊など……! 私は絶対に着ないからな!!」
恐ろしい単語が飛び出すこのご令嬢の口を、何とかして塞ぎたい!
すっかり鳥肌の立ってしまった両腕を抱き締めるように抱え、部屋の端まで速やかに逃げた。
あれほど殺気立っていたはずのイオリはにこにこと穏やかで、むしろ同意するかのように首肯を繰り返している。う、裏切り者ぉ!!
「ふふ、ふ……、いいですわ。今はその少年らしい装いを堪能いたしましょう。
将来的に男装の麗人として名を馳せ、王子までもを欺いてきたその素顔が、ひょんなことから明かされてしまう。これまで男として接してきた彼が実は女と知り、動揺を隠せないイクシス。次第に惹かれ合うふたりはいつしか手を取り合い、王子の婚約者を蹴落とし真実の愛を掴んで行く……。
まるで恋愛小説のようではありませんか!!」
「すまない、フィオナ嬢。きみは一体何処の視点にいるんだ?」
「蹴落とされる婚約者ですわ」
「そこでいいのか!?」
「何を言っておりますの!!」
頬に手を当て、夢見る少女のような面持ちから、フィオナ嬢が真剣な顔でこちらを振り返る。
固く拳を作る彼女の姿に、強い意志を感じた。
「わたくしは舞台裏で、あなたに似合う最高の衣装を手配する役目がありますの!!」
「いらん!!!!」
「ふふっ、勿論あなたの婚約者のアメリア様にも活躍していただきますわ。
やはりひとりの女性を巡って決闘するシーンは必要ですもの。そのためにもアメリア様にも踊っていただきませんと。
ふふ、ふっ。暗躍いたしますわ。わたくし、例え世界を敵に回してでも、あなたとイクシス様の行く末を見守りますの」
「待て、待て落ち着け、フィオナ嬢……! そのような茶番など起きない! 不吉なことを言うのはやめろ……!」
「ですがそれはそれ、これはこれ! 今のユカ様はこの一瞬一瞬にしかおりませんの! 貴重なこの一瞬、一呼吸分を悔いなく使い切るためにも、フリルの海に沈んではいただけませんこと?」
「断るッ!!!! あ、おい! イオリ!! 拍手するな! 頷くな! 胸を打たれたといった顔をするなあああッ!!」
それからフィオナ嬢の迎えの馬車が来るまで、にじり寄るご令嬢から逃れ、さり気ないイオリの妨害を回避し、宿敵ドレスから逃げ回ることになった。
イクス! きみの婚約者がこういう系統だとは、聞いていないぞ!?