お兄さんの鉢合わせ
アメリアとユカが話したあの日以来、ユカは乗馬訓練を断るようになった。
封書で短く、「機会を設けてくれているのに、すまない」との言葉だけが送られてくる。
気まずいのだろう、遥かに年下の女の子に気を遣わせている状況に、アメリアは苦い心地に覚えていた。
アメリアには、疑問に感じていることがある。
――ユカは何故、いつも自分のことを卑下するのだろう?
ユカは10歳という年頃の割りに、博識で落ち着いている。ちょっと変わっている彼女だけど、そこまで蔑むほど悪い子ではない。
むしろ聞き分けもよく、周りをよく見ていて賢いほどだ。決して『粗悪品』などではない。
ユカが見せた不自然に歪んだ顔が、彼の脳裏に過ぎる。
アメリアが騎士団へ入ると告げたときの、悟ったような、諦め切ったような表情。気掛かりなそれを確認したくても、ユカと会う機会がない。
……会えないのなら、こちらから会いに行こう。
いつになく能動的な気持ちで、アメリアが決意を固める。
嫌われたのかも知れない。それならそれで、これまで利用したことを含めてちゃんと謝ろう。……会ってくれるといいな。
淡い期待を抱いて、彼は外出の予定を組んだ。
アメリアにとって久しぶりであるルクレシア邸に、見慣れない馬車が停まっていた。
誰か客人だろうか? 初めて見かける外部の人の存在に、アメリアが首を傾げる。引きこもりを自負するユカは、社交界とつながりが薄い。
出迎えてくれたルクレシア夫人が、静々と頭を下げる。聞けば、ユカは現在来客中らしい。
あのユカに客人……? 意外な返答は、アメリアにざわりとした感覚を与えた。彼が無意識に胸を擦る。
ユカの侍女であるエレナが、応接間まで案内する。
侍女らしい整った仕草で扉を数度叩き、開いた隙間に滑り込む。
程なくして、薄藤色の髪を束ねた、見た目少年が飛び出してきた。
廊下で待っていたアメリアを見上げ、しっかりと扉を閉める。瞬時に彼の腕を両手で掴んだユカが、早口で捲くし立てた。
「アメリア! いいか、今の私は、ユカ・ルクレシアの架空の弟、ジェイだ!」
「う、うん?」
「そしてきみは、傍若無人な姉のユカに捕まった、憐れな婚約者だからな! わかったな!?」
必死に小声で訴える彼女の指定に、アメリアの胸がずきりと痛む。
きみはまたそんなことを――、口を突きそうになった小言が、開かれた扉によって霧散した。
「おい、ジェイ。何が――!?」
「あ、ああ、イクス。いや、姉がアメリアを呼び出していたようでな、足労かけたことを詫びていた」
「えええっ、イクシ――ッ」
瞬間、アメリアの首にイクシスの腕が回された。ぎゅっと絞まったそれに、彼がぐえっと鳴く。
驚いたように肩を跳ねさせたユカへ、職業王子であるイクシスが、貼り付けた笑みを向けた。
アメリアは混乱の最中にいる。何でここにイクシス王子がいるの!? 首が絞まっていなければ、間違いなく彼は叫んでいただろう。
「あ、アメリア、久しぶりだな! ははっ。ジェイ、悪いが先に部屋に戻ってくれないか?」
「わ、わかった。先に戻る」
「ははっ、ははは――」
乾いた笑い声が、扉を閉じる音に合わせて尾を引き途切れる。
絞めていた腕から解放され、アメリアが盛大に噎せながら、肺いっぱいに空気を取り込んだ。生理的な涙で滲んだ視界に、乱雑に頭を掻くイクシスが映る。
「げほっ、な、なんでイクシス様が、ここに……!?」
「くそ、お前の存在を失念していた」
悪態をつくイクシスの姿に、アメリアの頭上に疑問符が大量に並ぶ。
ずいとアメリアへ顔を近付けたイクシスが、眉間に皺を寄せて小声を立てた。
「いいか。今の俺は、ただのイクスだ。あいつの前では敬語も様付けもやめろ。わかったな?」
「は、はい!?」
「いいな! ボロを出すなよ!」
「は、はい……」
不敬極まる無茶苦茶な要求に困惑する間も与えず、よし、戻るぞ。そう掛け声を上げたイクシス……イクスが、応接間の扉を開ける。
イクスがソファで待つユカへ声をかけた。その後ろを、浮かない表情のアメリアが続く。
エレナがアメリアの前に紅茶を置くが、彼はふたりの会話に入れなかった。
イクスとユカのかわす会話はアメリアにとって馴染みないもので、愛想笑いを貼り付けた彼が、機械的に紅茶を口に運ぶ。
彼の胸は、再び先ほどのじくじくとした痛みに支配されていた。
不意にアメリアへ顔を向けたイクスが、その赤い目を不審そうに細める。
「おい、アメリア。この際だから聞くが、お前は本当にユカ・ルクレシアに付き纏われているのか?」
「……はい?」
「何を言っているんだ、イクス。現にこうして彼は無駄足を踏まされているだろう。訂正するなら、『付き纏われている』と言うより『奔走させられている』だ」
「そ、そうか……? いや、ならばあの女からどんな所業を受けたのか、聞かせてもらおうか」
「デリカシーに欠けるぞ。何も暴行は抓る、蹴るだけではないんだ」
「そ、そうだな。悪かったな、アメリア」
罰が悪そうに顔をしかめたイクスに、アメリアが小さく首を横に振る。
アメリアは苦痛に感じていた。
ユカはイクシス王子の誕生会の延長線上で話をしているようだが、アメリアには先日の自虐の続きに聞こえた。
ユカはそんな子じゃないと、うっかり零してしまいそうな口を、懸命に彼が引き結ぶ。
「くそ、あの女……、一体いつも何処をほっつき歩いているんだ!」
「さあな。他の令嬢は、どういったところへ出掛けるんだ?」
「……茶会とか、観劇とかか?」
「随分雅やかだな。私にはよくわからん」
「まあ、お前はな。……なあ、ジェイ。お前の趣味は何だ?」
「……読書だろうか?」
「聞いているのは、俺だぞ」
「ははは、すまんな。きみの趣味は何だ? 参考にさせてもらおう」
「……趣味、……趣味か。……趣味なあ」
肘置きで頬杖をつき、考え込むイクスへ、ユカが快活な笑みを向ける。
その笑顔を見た瞬間、アメリアの胸がまたしても不可解に軋んだ。
「あ、おいアメリア。お前の趣味は何だ?」
「はい?」
「そうだな。参考にさせてくれ」
上の空だった彼へ振られた話題に、はっとアメリアが慌てる。
再度かけられた「趣味は何だ?」との問いに、閉じることに専念していた唇を、彼が無理矢理開いた。
「乗馬、かな……」
ぽつりと零した一言に、さっと発言主が顔を青褪めさせる。
意識が散漫になっていたことも事実だが、現在ユカはアメリアとの乗馬を断っている。
わざわざ自ら地雷原へ突っ込んでしまったことに、アメリアは慌てた。ユカを確認すれば、彼女は俯いている。
アメリアは盛大に慌てていた。自己嫌悪もしていた。今すぐこの場から逃げ出したかった。
何ひとつ事情を知らないイクスが、興味深そうに口角を持ち上げる。
「乗馬か。意外だな、アメリア」
「……アメリアのところには、フローレンスと言う名の馬がいてな、温和で聡明な美人なんだ」
「何だ、ジェイ。お前外に出られるのか?」
「す、少しだけな!」
目を泳がせたユカが注釈を述べる。……彼女は、どんな設定を盛り込んでいるんだろう? アメリアが微妙な胸中で思案した。
けれども彼女から好意的な言葉をもらえたことは、彼にとっての救いだった。
イクスがにんまりと笑って身を乗り出す。緩んだ赤の目は楽しそうだ。
「なら、俺とも出掛けるか?」
「……きみの馬車は派手過ぎる」
「あ、あれでも控えている方だ!」
はたと、アメリアが違和感を覚える。
ユカはあまり自分の話をしない。10歳の少女らしくない話選びと、謙遜を跳び越えた自虐で、すぐさま他の話題へとすり替える。
何が彼女をここまでさせているのだろう?
ルクレシア夫妻は、愛娘のことを溺愛している。使用人との仲も良好だ。しかしユカの自己肯定力は低い。何故だろう?
だとするなら、彼女が得意気に語った、将来の夢である『風来坊』は、珍しい彼女の内側ではないだろうか?
少なからず気心が知れていたからこそ、アメリアに秘密を打ち明けたのではないだろうか?
そう思ってしまえば、諭そうとしたアメリアを、ユカが避けることは道理に見えた。
アメリアの胸が軋む。彼の前で楽しげに語らい合う『イクス』と『ジェイ』が眩しく見えた。
一体この感覚は何なんだろう? 彼が無意識に何度も胸の辺りを擦る。
「……? アメリア、どうした? 具合が悪いのか?」
「えっ、あ、ああ。ううん、なんでもないよ」
「そうか……?」
ふとユカに声をかけられ、アメリアが慌てて手を下ろす。彼女は首を傾げていたが、彼は微笑を浮かべて誤魔化した。
控えていたイクスの護衛が耳打ちする。イクスが綺麗な顔をしかめ、ため息をついた。
「ジェイ、そろそろ失礼する」
「そうか。見送りに行こう」
「いや、いい。身体を冷やすなよ」
「ははは。大袈裟だな」
ソファから立ち上がったイクスが踵を返す。ユカとアメリアが立ち上がり、扉まで見送った。
ユカがひらひらと手を振る。面映そうな顔をしたイクスが、ひらりと手を振り返した。
廊下の角に後姿が消え、残された彼等の間に沈黙が下りる。気まずそうにアメリアが口を開いた。
「その、……連絡もなしに突然来て、ごめんね」
「ああ、いや。私の方こそすまなかった。折角きみが予定を空けてくれているのに、きみに気を遣わせたことに自己嫌悪してな。会わせる顔がなかった。すまない」
「そんな、ユカは悪くないんだよ?」
「ははは、きみは本当に優しいな」
アメリアを見上げたユカが、いつもの笑みを見せる。
たったそれだけのことで彼の肩からは力が抜け、これまで緊張していたのだと自覚させた。
けれどもやはりユカの口から出る言葉は10歳のそれではなく、彼の眉尻は下がる。
「でも、驚いたな。どうしてイクシス王子がここに?」
「何でも彼は、『ユカ・ルクレシア』に文句を言いに来たらしい。私が応対したんだがな、私だと思われなかった」
にやにやと意地の悪い笑みを見せるユカに、身に覚えのあるアメリアが呆れ顔をする。
ユカの造形は整っている。彼女は断固として拒否するが、彼女のドレス姿は、それはそれは愛らしいものだった。
アメリアも、彼女の性格を知ってなお見とれた。
現在のユカは、飾り気のないシンプルな白いシャツと、七分丈のパンツにブーツを合わせていた。
ベストの内側には紺色のネクタイと、おおよそ女性らしさとはかけ離れている。
「彼は存外に切れ者だな。普段の言動はうっかりが目立つが、直感が冴えている。誕生会で起こした私たちの狂言に気付いているんだ。ははっ、参ったものだ」
「笑いごとかな、それ!?」
「いやあ、騙しているのが申し訳ない。イクスの話は興味深くてな、私もついつい甘えてしまっている。それに、彼は意外と純情で素直でな、そういう部分も好ましく思っている」
ぽんぽんと飛び出るイクスへの高評価に、アメリアの表情が曇る。
曖昧な相槌に、彼女の青色の目が気遣わしげに瞬いた。
「アメリア、無理はしていないか?」
「ううん、そんなことないよ」
「なら、今日は表情が暗い日だな。きみが息災であればいいが、心配だ」
踵を上げたユカが、何てことない仕草でアメリアの額に手を当てる。アメリアの目が瞠られた。
「……熱はなさそうだが、無理はするなよ。イクスではないが、きみは繊細そうだ」
「っ、それ、どんな設定でイクシス王子に話したの?」
「周知することも出来ないほどに、病弱な弟」
「ふふっ、なに、それ」
「弟だと名乗ったら、事前にうちの家族構成を調べられていたんだ。全く、何処が『我がまま王子』だ。まだ詰めは甘いが、彼は将来立派な狸になるぞ」
国の宝の王子を『狸』呼ばわりし、ユカがため息をつく。
アメリアが小さく笑った。
「そういえば、ユカの趣味って読書なんだね」
「……あながち外れでもないが、……本は副産物だ」
「うん?」
決まり悪そうに視線を逸らせたユカが、そろりとアメリアを見上げる。
そのままそろそろと離される彼女の手を、アメリアが掴んだ。彼の頬へ押し当てる仕草に、びくりと肩を跳ねさせた彼女が、青色の目を丸くさせる。
「……もしかして、食べられる野草を探してる、とか?」
「あ、案外難しいんだぞ! 葉の裏側に毛があるとかないとか!」
「ふふっ、そっか。どれが食べられるものか、ぼくにも教えてね」
「お、怒らない、のか……?」
おずおずとした窺うような表情に、彼がやんわりと微笑み返す。繋いだ指先に、緩く力を込めた。
……彼はそもそも、怒っていたわけではない。心配していただけだ。
「ぼくもついていくって決めたから、怒らないよ」
「何を言っているんだ、きみは! 駄目だからな!?」
「じゃあ、お義母さんにユカの悪巧み、教えてこようかな」
「ず、ずるいぞアメリアっ、母上は駄目だ! 言うなよ!? 絶対に言うなよ!?」
「ふふっ、どうしようかなー」
泣きそうなほど狼狽えるユカが、諦めたように肩を落とす。
じっとりと恨みがましい目でアメリアを見上げ、不貞腐れた声が不本意そうに呟いた。
「……わかった。きみの同行を認めよう」
「ははっ、ありがとう、ユカ!」
「ただし、きみにも食べられる草と食べられない草を見分けてもらうからな!!」
「うん、わかったよ」
明るく微笑み返す彼に、毒気を抜かれたようにユカが嘆息した。
引き抜こうと微かな抵抗をする華奢な手を、閉じ込めるようにアメリアが繋ぎ直す。ユカがため息をついた。
「……次回の乗馬から復帰しよう。期間が空いてしまったからな、フローレンスに忘れられていなければいいが……」
「大丈夫だよ。フローレンスも退屈してただろうし、喜んでくれるよ」
「ははは、きみは本当に優しいな」
さぼって悪かったな。眉尻を下げたユカが微笑んだ。