お兄ちゃんと青空勉強会
最近の私は、対人運に恵まれている。
二週間に一回はアメリアと乗馬の訓練をし、毎週イオリと、フランの元へパンを買いに行く。
そして週末の礼拝はクリスと話をし、月に一回はアメリアとお茶をしている。
……アメリア関連はほぼ母上の策略だが、それでも引きこもりで、話し相手がイオリとエレナしかいなかった私にとっては、躍進の年だ。
そして何より、日頃の行いが母上に評価された私は、外へ出掛ける権利を獲得した!
さすがに毎日の外出は出来ないが、週に二回、短い時間程度なら許可されている。
勿論お供同伴だ。るんるんと浮かれた心地でイオリの手を引く。
仕方ないとばかりに微笑む彼は、とても穏やかな顔をしていた。
「イオリ、急ぐぞ! 時間は有限なんだ!」
「そうですね。だからこそ私は、もっとゆっくりユカ様とともに歩きたいです」
「あ! ユカ~! こっちこっちー!」
「ミーナ! 息災か?」
こら、イオリ。舌打ちするな。
路地からひょこりと顔を出した、桃色の髪をポニーテールにした少女が大きく手を振る。
ぴょんぴょん飛び跳ねる踵は活動的で、彼女の祖母が仕立てたらしい、チェック柄のジャンパースカートが空気を孕んで揺れた。
紅茶にミルクを多目に入れたような色合いの瞳は、真ん丸で大きく、生き生きと輝いている。
快活な笑顔は愛嬌に満ちていて可愛らしい。
ミーナという名の彼女へ、私も手を振り返した。
こちらへ駆け寄って来た少女が、明るい笑みを見せる。
「そんないっつも転んでないよ~」
「そうか、安心した」
「ユカってば、本当しんぱいしょーね」
令嬢とは違う、気さくな笑顔でミーナが私の手を引く。
見てくれ。何と私に、同年の女の子の友達が出来たんだ。
出会いは、転んだミーナにハンカチを差し出したところから始まった。
そこから彼女と、彼女の友人と接点を持ち、こうして親睦を深めるまでになった。
とはいっても、私が転んで怪我を作ると、母上から減点を食らいかねない。
私も鬼ごっこなど童心に帰って遊び倒したいが、世の中ままならないものだ。
そも、母上にはミーナたちのことは伏せてある。勿論イオリにも口止めをしている。
ふたりだけの秘密だと説得したら、快く頷いてくれた。いい人だ。
私にとっては誇らしい友人の彼女等だが、立場が大きく異なる。
ミーナたちに迷惑をかけないよう、彼女等との交流は口外しない。
ミーナの案内に従うまま、路地の先にある広場へ足を進める。
ミーナは楽しそうに最近あったことを話し、ころころ表情を変えていた。
見飽きないそれは大変好ましくて、こちらの気分まで明るくなる。
通り過ぎる市井の人たちは、始めこそ私とイオリに驚き警戒していたが、今では挨拶をかわす程度には慣れてくれたらしい。
擦れ違ったご婦人が、「あら、ユカちゃん。こんにちは」微笑んだ。
「ああ、こんにちは。今日は天気が良いな」
「ええ。こういう日はお洗濯日和なのよ」
「おばさん、ユカは男の子なのに、『ちゃん』なんて変なのー」
「これ、ミーナ……!」
「気にするな。私もその扱いの方が、都合がいい」
ご婦人と別れ、幾人かの人と挨拶をかわし、広場へ辿り着く。
はしゃぎ回る子どもたちがこちらに気付き、大きく手を振った。
階段に腰を下ろしていた青年が立ち上がる。
「ディック、今は休憩か?」
「ああ。聞いてくれ。お前のお陰で、活字拾いの仕事につけたんだ」
「そうか! 助けになれたのなら、幸いだ」
精悍な顔付きの青年が、照れたように口角を持ち上げる。
彼はディック。今年18になるらしく、成人らしい身体つきをしている。
特に肩幅が広くて、背もとても高い。イオリよりも高いだろう。
私に合わせて身を屈めてくれるディックは、短めの赤茶の髪に、茶色の目をしている。
ミーナ同様活動的な彼は、みんなのお兄さんといった存在だ。
そんな彼に文字を教えるようになったのは、いつの頃か。
走り回れない私は、この階段からはしゃぐミーナたちを見守っていた。
何人かは、誘いに乗らない私を詰まらなさそうに見ていたが。
時折本を読んでいたからだろう、ある日ディックに教えを請われた。
私の身長の、何倍の大きさがあるのだろう。そんな男性に何かを教える機会など、早々ない。
手の大きさなど、それこそ大人と子どもの差があった。
ディックは真剣な顔で私の説明を聞き、よっぽどの努力を積んだのだろう。
それが実用として彼の役に立った。これ以上ない僥倖だ。自然と私の口許も綻ぶ。
「では、就職祝いをせねばならんな」
「やめてくれよ! 全部ユカが教えてくれたからだ。本当に感謝してる」
「ははは。なら、気難しい子どものお守りをした駄賃だと思ってくれ」
「ユカ、」
私の頬を撫でた指の背を引っ込め、ディックが困ったように微笑む。
片膝をついた彼が、何処か掠れた声で囁いた。
「俺はお前に感謝しているんだ。その思いだけは、受け取ってくれないか?」
「わかった。きみの幸運を願う」
「ありがとう」
目許を和らげたディックが、壊れ物を扱うかのように私の頬を撫でる。
人差し指の背でそっとなぞる仕草は、くすぐったい。
えへんっ、唐突にイオリが咳払いした。慌てたように手が離される。
「戯れも程々に」
「……悪かったな」
両手を肩まで上げたディックが、ため息混じりに立ち上がる。
……イオリが冷ややかなんだが。
わざとらしく懐中時計を開いたうちの従者が、わざとらしく息をついた。
表情を一変させ、綺麗な微笑で彼が礼をする。
「ユカ様、そろそろお帰りのお時間です」
「もうか? 今来たところだぞ?」
「はい、お時間です」
「嘘だろう? 私の体感では、五分も経っていないぞ?」
「お時間です」
「う、嘘だ……!!」
完璧な笑顔のイオリに手を繋がれ、悲壮な心地でディックへ目を向ける。
苦笑いを浮かべる彼は、「悪かった」ともう一度謝罪の言葉を口にしていた。一体何に対する謝罪なんだ?
帰ることをぐずる私に、ミーナが加勢する。
「まだ遊べるもん!」と抗議してくれるが、私たちは時計を持っていない。
正確な時刻を把握しているイオリに対して、対抗する術がまるでない。
にっこり、音がしそうな笑みを崩さない従者は、同じ言葉しか繰り返さない。諦めて項垂れた。
「ミーナ、ディック、……不本意だが、帰ることにする」
「えー!?」
「ああ、気をつけてな」
「えー! ディックも止めてよお!!」
「では、失礼致します」
「ああうっ、ユカ~!!」
イオリに手を引かれ、落ち込んだ顔で手を振る。
追い縋ろうとしたミーナを、ディックが押さえた。苦笑を浮かべる彼に、ミーナが文句を並べている。
ミーナ、折角会えたのに……。
すたすた歩くイオリの歩幅が恨めしい。遠退く声が切ない。
「イオリ、もう少し速度を落としてくれ……」
「抱っこ致しますね」
「何故そうなる!?」
イオリもディックも大人であるため、各々が抱える渦巻く内情を、10歳の前では落としてくれなかった。