桃源郷
池に落ちた斉藤と坂本は桃源郷に救助されます。
Ⅲ 姉ちゃん達
カーテンを開ける音がして、日差しが目に入った。まぶしくて、身じろぎする。
「おばさん、この人、気がついたみたい」
若い女の声が聞こえた。カーテンを開けたのは、この女だ。
「そう。じゃあ、ちょっと、見せて頂戴」
年輩の女の声がした。ゆっくりと目を開けると、いかにも看護師という感じの七十がらみの女が近づいてきた。
優しげな微笑みを浮かべて、女が言った。
「あなた、崖から転落したのよ。下が大池で良かったわね。でも、途中で足をぶつけたんでしょうね。骨が折れてたわ。とりあえず、舜が手当したの。全治二、三ヶ月ってとこらしいわ」
そうして、私の脈をとって、額に手を当てる。
「熱もないし、脈も正常ね。良かったわ」
「ここは……?」
「桃源郷本部の病室よ。私は、看護師の小林と言うの。もっとも、年だから、この頃は、ほとんどこの子に任せてるんだけど……詳しいことは、後で話があるわ。でも、今は、ゆっくり体を治すことね。
ところで、あなた、お名前は?」
「斉藤大樹です。助けていただいたようで、ありがとうございます。連れがいたんです。ご存じないでしょうか?」
「ああ、坂本竜太くんのこと?彼なら、無事よ。怪我もしてないわ」
小林と名乗ったおばさんの説明を遮って、横から若い女が口を出した。
「わたし、小坂香織。看護師助手をしてるの」
「坂本も、助かったんですか?」
安堵の息を吐いた。
小林夫人が、笑いながら言った。
「あの道は、トラップになっててね、たいていは、あそこから落ちて、助けに行くことになっているの」
「落ちて死んだ人はいないんですか?」
「さあ……?死んだ人は治療しないから、私には、分からないわ」
小林夫人が肩をすくめた。
ホラーだった。人の良いおばあちゃん然とした小林夫人が、あまりにも平然と言うので、背筋が寒くなった。
慌てて話題を変えた。
「ここには、医者がいるんですか?」
「ええ、息子が医者なの」
「すごいのよ。小林先生んとこは、親子でドクターなの。もっとも、お父さんの方は、亡くなったから、今は、息子さんだけだけど。しかも、おばさんは、薬剤師でもあるの。だから、病気や怪我しても、小林一家の側にいれば安心なの」
小坂香織が、嬉しそうに片目をつぶった。
「香織ちゃん、舜を呼んで来てちょうだい」
「ハーイ」
香織が、明るく返事をして走り去った。
辺りを見回すと、明るい清潔な感じの病室だった。どこかでクチナシの花が咲いているのだろう。消毒薬の臭いに混じって、かすかにクチナシの香りがした。
こんな建物、崖から見えただろうか?
しばらくして、五十ぐらいの白衣の紳士がやって来た。端正な顔立ちの優しげな男だ。若い頃は、さぞかし、モテただろう。
「医者の小林だ。もっとも、父も医者だったから、みんな、舜と呼んでる。君も、そう呼んでくれたらいい」
「斉藤大樹です。この度は、ありがとうございました」
「池から救出したのは、中村や小坂達だ。後で礼を言うといい」
「坂本も助けてくれたそうですね」
「ああ。彼は怪我しなかったから、向こうで休んでる。後で、呼ぼう」
「俺は、どうなるんでしょう?」
「怪我が治るまで、ここにいるしかないだろう。何しろ、ここは、存在を知られてはいけない場所なんだ。だから、ヘリコプターを呼ぶわけにもいかないし、来た道を、自分で歩いて帰るしかないんだ」
「それって、隠れ里ってことですか?」
「そうとも言う。僕等は、『桃源郷』って呼んでいるんだけど」
悪戯っぽく笑った後で、これに書き込むようにと、紙とボールペンを渡される。見ると、問診票のようで、住所や生年月日を書くようになっている。
何々、住所、氏名、性別、生年月日、年齢……何だ、こりゃ?
「どうして、好きな食べ物、嫌いな食べ物なんかあるんですか?」
思わず、訊いた。
側の机――いかにもドクターの机という感じの机だ――でパソコンのキーボードをたたいていた舜先生が平然と答えた。
「怪我が治るまで、嫌いな食べ物が出ないようにしないと、栄養がとれないだろ?」
なるほど……と、納得して、書き込む。好きなものは、卵。嫌いなものは、豚の脂身。
続いて、身長、体重、スリーサイズ。女じゃないから、スリーサイズは書かなくても良い、と。
ん?これって、何の関係があるんだ?家族構成、家族の住所、本人及び家族の職業、そして極めつけは、趣味(!)。見合いの釣書じゃあるまいし、どうして、問診票に家族構成や趣味まで書くんだ?
「どうかしたか?」
と、舜先生が訊いた。
唖然として、声も出ない。やっとのことで、声を取り戻して訊いた。
「これって、どういう意味があるんですか?」
「ここでは、それが必要なんだ。書いておいた方が、君のためだ。後で分かる」
当然のように言われると、抵抗できなくて、やむなく記入した。何てたって、ここは、敵地なのだ。でも、体重なんかここんとこ測ったことないし、趣味なんかない。ここは空欄にしよう。
この身上書みたいな調書を問診票と言うかどうかは別として、舜先生に渡す。内容について、二、三質問があった。それから、舜先生が、そのデータをパソコンに入力し、何かあったら呼ぶよう言って出て行った。
舜先生が出て行って、しばらくして、坂本が入って来た。そうして、心配そうに私の顔を覗き込んで尋ねた。
「大丈夫か?足の骨、折れたんだって?」
「ああ、ドジな話だ。墜落する時、岩にぶつけたんだ」
私が思ったより元気そうで、安心したのだろう。坂本は、安堵の息を吐いた。
「日にち薬だ。ゆっくり治したらいい」
そう言って、私を慰めると、身を乗り出すようにして言った。
言いたくてたまらなかったのだ。
「ここのこと、聞いたか?」
「隠れ里ってことか?」
「ああ、ここの連中は、『桃源郷』って呼んでるみたいだ」
「最近の失踪は、ここに迷い込んでいたんだろうか?」
「多分な」
「お前、どうするつもりだ?」
「お前の怪我が治るまで、ここにいるしかねえだろう?まさか、お前を残して、俺だけ帰るわけにもいかねえじゃねえか」
意味深に口の端だけで笑った。
「二、三ヶ月かかるかもしれないんだぞ」
「その方が、都合が良い」
「?」
「ここには、食い物があるんだ」
絶句して、坂本のたくましさを再認識した。
「でもってな、若い女もいっぱいいるんだ」
嬉しそうに片目をつぶった。
「若い女がどうしたんだ?どこにでもいるじゃないか?」
珍しくもない。何が言いたいんだ?
「あいつ等、俺に気があるんだ。俺、今までの人生で、こんなにモテたことねえ。生まれて初めてのモテ期だ!」
再び、絶句した。
坂本は、良い男だ。でも、そんなにモテる方じゃない。坂本の口からこんなセリフを聞くのは、初めてだ。
「例えば……だな、若い女のリーダー格のお姉さん――水野佳子って言うんだけど――が、この集落をあちこち案内してくれたんだ。でも、そん時、他の女が一緒に行きたいって大騒ぎになって、結局、五、六人でゾロゾロ歩き回って、説明したり世話焼いたりしてくれたんだ。飯だって、食堂の利用方法――ここの食堂って、担当者が全員分まとめて作ってて、作業の終わったヤツから順番に食べるようになってるんだ――を説明するために、エンジニアの片山律子って娘が、連れてってくれたんだけど、俺が行くと、女の子がワッて群がって、俺の側に座りたいって、半分喧嘩になったんだ。結局、十人ほどで食べたんだけど、寄ってたかって世話焼いてくれて、中には、まともに色目を使う女もいたんだ」
「何が目的なんだろう?」
「ここには、男が少ないから、若い男が珍しいんじゃねえか?」
と、肩をすくめた。