墜落
坂本と斉藤は、山道で遭難します。
その日は、野宿した。直線距離では近いのだが、何分、山の中だ。アップダウンが激しい上に、道らしいものがないのだ。岩だらけの道を歩き、杉林を突っ切って、広葉樹の森へ出たところで、日が暮れてしまったのだ。クヌギの木の下で、シュラフを出して並んで眠った。
三日月が赤く見えた。
隠れ里というものがあるなら、そこの人達は、今、この月を見ているはずだ。どういう思いで、見ているのだろう。
疲れていたせいだろう。五分も経たずに眠りに落ちた。
私は、不思議な夢を見た。
誰かが、頭の上で、話をしていた。耳を澄まして聞き取ろうとするが、声が小さいのと睡魔のせいで、意味が分からない。
「……く、よ…ここまで……」
「…健康…なん…」
「腹、減っ……」
小さな笑い声があって、それきり消えた。山に住む魔物か妖精、あるいは、小人のたぐいだろうか。
翌朝も、昼の暑さが思いやられる快晴だった。シュラフを片づける時、地面を誰かが歩いたような跡があるのに気がついた。夢じゃなかったのだろうか。でも、こんな山の中で、一体何者だろう。坂本に訊いたら、覚えがないと言う。夢だろう、と言うのだ。何となく腑に落ちなくて、首を傾げた。
地図とコンパスを取り出して、方向を決める。真っ直ぐ行くと険しい崖に出るので、迂回することにする。そうして、元の道の延長線上まで戻って、廃村に向かって直進した。
暑さで、目が回りそうだ。
「少し休もう。昼寝でもしようぜ。さっきから、同じところを歩いてるみてえだ」
と、坂本が言った。
疲れているせいか、何となく同じところをグルグル歩いているような気がしていた。坂本も気づいたのだ。
こんなときは、坂本が言うように、休息するに限る。
日陰にドサリと座り込んで、水を飲んだ。
どこからか、甘い香りがした。
「クチ…ナシ、か?」
私がつぶやくと、坂本が目を見張った。
「どっかで嗅いだことがあると思ってた。そうだ。絶対、クチナシだ。野生化したんだろうか?人家が、近いんだ」
「でも、さっきから、前へ進んでいない」
「とにかく、真っ直ぐ進もう。斉藤、方向だけ見ててくれ。そうすりゃ、どっかへ出るはずだ」
「山、抜けるってか?」
喉で笑いながら訊いた。
「その前に、隠れ里を突っ切るはずだ」
五分ほど休憩して、起きあがる。
しばらく歩くと、コンパスの動きがおかしいことに気がついた。
「坂本、コンパスの動きがおかしい」
「どう、おかしいんだ?」
「真っ直ぐ歩いてるはずだろ?それなのに、太陽の位置があっちからこっちに移った。あり得ないんだ」
「……確かに。どっかで、コンパスの動きをじゃまする磁力でも出てるんだろうか?」
コンパスの動きに気を取られていたせいだろう。突然視界が開け、道がないことに気づいた時、私達は、真っ逆様に落ちていた。
道は、崖っぷちで終わっていて、そのまま、スキーのジャンプ台のように、ちょん切れていたのだ。
問題は、崖っぷちの下がどうなっていたか、だ。
二十メートルほど下に大きな池があった。
とっさに、崖にしがみつこうと手を伸ばすと、突き出た岩に足をぶつけた。激痛が走る。私達の叫び声は、大きな水音にかき消されてしまった。
食料不足で死ぬ人はいるが、山道を歩いていて崖から池に転落して死ぬ人間は、珍しいんじゃないだろうか。
親父やお袋は、私の死に様を情けなく思うだろうか。
そもそも、私が、こんなバカげた死に方をしたなんて、知るよしもないのだ。どうせ、「失踪した」と、一言で片づけられるに決まっている。
そうか、近頃の失踪事件の真相は、こういうことだったのだ。
体が水にたたきつけられて、さっき岩にぶつけた足に燃えるような痛みを感じた。水の中で良かった。空気中なら、足が燃え上がったことだろう。
ごぼごぼと水の音がする。息が苦しい。酸素だ。酸素が要る。上は、どっちだ。水の上には、空気が、酸素があるのだ。
そうだ。ジタバタしないで、力を抜けばいいのだ。そうすると、体が水に浮く。何てたって、ここは地球で、人の体は水に浮くはずなのだから。
理屈はそうでも、体が言うことを聞かない。ジタバタして、しまいに意識が遠くなった。
このまま死ぬのだろうか。
両親の顔が目の前に現れて、親孝行らしいことをして来なかったことが悔やまれた。お袋に向かって手を伸ばし、思い切りもがいた。