よみがえった記憶
ⅩⅠ よみがえった記憶
「あなた、もしかして……斉藤くん?」
中年の女性が訊いた。
「はい、斉藤大樹です。もしかして、私は、ここへ来たことがあるんでしょうか?」
「ええ、そうよ。でも、あの薬、本当に良く効くのね。入って頂戴。今、取り込み中だから、そこの右、応接間で待ってて。薬を持ってくるわ」
応接間。そう言われて、少し迷った。でも、右だと言うのだ。右に曲がるとドアがあり、そこが応接間だと気が付いた。
どうして、知っていたのだろう。あの女性も、どうして私のことを知っているのだろう。
応接間のソファに腰掛けてしばらく待つと、さっきの女性がお盆に小さな瓶を乗せて持って来た。
「全部、飲んで頂戴。例の薬の解毒剤なの」
「例の薬って?」
「あなたが、ここであったことを忘れる薬。記憶をなくす薬よ。あなた、失踪期間中、どこで、何をしたか覚えてないでしょ?」
「ええ、一緒に失踪した坂本も全く覚えていなかったんです」
「あなたが、最後に飲んだ薬のせいなの。ここのことを外の人に知られると、どうしても、襲撃しようってバカが現れるでしょ?それで、外の人が帰る時、記憶をなくす薬を飲んでもらってるの」
「解毒剤ということは……」
「そう、思い出すの。ここのことも、ユイのことも」
ユイ、どこか懐かしい響きだった。誰かの名前だろうか。
一礼して、小瓶の薬を飲み干した。
喉が焼けるようだ。喉だけじゃない。頭の中も焼けるようだ。私の大切な人、暖かい人、その人が泣いていた。小さな手で、顔を覆って泣いていた。悪かった。忘れていたとはいえ、結婚してしまった。
お前は、会いに来たのに。空を連れて会いに来たのに。
息子が生まれた年だった。畑を耕していた私の前に親子連れが通りかかった。何となく既視感があって、どこかで会ったことがあるんだろうか、と首をひねった。
親子は、軽い会釈をした。
「斉藤、大樹さん、ですね?」
「そうですが……どこかで、お会いしましたか?」
「ええ」
女の目に、古い友人に会ったような喜び――体の奥深くから湧き上がる、押えきれない懐かしさ――があった。
「子供さん、ですか?」
連れの少年が何となく気になった。
「ええ」
「立派な息子さんだ。どこかでお会いしましたか?申し訳ない。私は、以前、失踪していたことがあるんですが、その間のことは覚えていないのです。もしかして、その時、お会いしたんでしょうか?」
「あなた、お客さまなの?」
家の方から妻が呼んだ。その声で目が覚めたのだろう。息子のむずかる声と、「あらあら、ごめんなさい。ママが悪かったわ」という妻の声が聞こえた。
不自然な間があって、女の中で何かが、しぼんで行った。
女は、堅い声で訊いた。
「女嫌いだったのに……ご結婚なさったんですね?」
「私が女嫌いだって、よくご存じですね。ええ、その通り、女嫌いです。
でも、親の泣き脅しにあったんです。私は親不孝ばかりしてましてね。妹が死んで気弱になった親から泣いて頼まれたんです。それで、仕方なくという格好で結婚したんです」
人見知りする私が、初めて会った人間にこんな話をするなんて、自分でも不思議だった。
女の眼差しに、何か懐かしい暖かなものが感じられて、古い友人のように感じたせいだろう。
「そんな言い方したら……奥様に失礼ですよ。ところで……子供さんがいるようですね?」
「春に、息子が生まれました」
「それは……おめでとうございます」
「失礼ですが、お名前を教えていただけませんか?思い出すかも知れない」
「名乗るほどの者じゃございません。……小林と言います。小林 唯です。こっちは、息子の空」
「空。色即是空、空即是色の『空』ですか?そうして、あなたは、天上天下唯我独尊の『唯』。二人とも、良い名だ」
「温暖化が落ち着き始めましたね」
「ええ、でも、食料事情はなかなかです。食料を投機の対象とする輩がいるんです」
「でも、雨も昔のように降るようになりましたし、水の心配をしなくていいんです。気候が落ち着いたんです。みんなで協力すれば、何とかなるはずです」
「私は、あなたとどこでお会いしたのでしょう?入ってお話しませんか?お茶でもいかがです?」
その時、家の中から息子の泣き声が聞こえた。妻のあやす声がかぶさる。
女は、何か言いたそうにした。でも、首を少し傾げると、小さな息を吐いて、
「いえ、子供さんも泣いてるようです。ご迷惑でしょう。ここで、失礼します」
と、言って去って行った。
途中、一度振り向いて、私の方を見て手を振った。そして、私が家の方へ歩き出すのを、ジッと見つめていた。
あの後、ユイは、空に言ったのだ。
「今の人が、あなたのお父さんよ」と。
「どうして、ユイは、あの日まで、来なかったのだろう?あと二年早く来てくれれば良かったのに……」
呻くようにつぶやくと、目の前の女が薄く笑った。
この笑顔に見覚えがあった。最も苦手だったフェロモン過多の毒説家、山道若菜だ。
「若菜さん?」
「そう。ところで、坂本くん、死んじゃったんですって?」
「ええ、この冬の終わりです」
「仕方ないわね。第一、あなた達二人とも、本来なら、大池で死んでた人達だもの。長生きしたのよ」
「…そうかもしれません」
しばらく、沈黙があった。クチナシの香りがする。
あの夏も暑かった。ユイが私に会いに来た時も、畑の隅に小さなクチナシが咲いていたのを思い出した。
妻に笑われたが、どうしても、畑にクチナシとキンモクセイを植えたかったのだ。甘い、むせかえるようなクチナシの香りの中で作業するのは、何となく安心感があった。
「どうして、ユイが、あの時、斉藤くんに会いに行ったかっていうとね……」
若菜が静かに話し始めた。
「あの年の春に小林のおばあちゃんが亡くなったの。ユイにとっては、父方のおばあちゃんに当たる人よ。で、その前の年の秋に、山道のおばあちゃん――格闘家で師範をしてた人よ――が亡くなってて、桃源郷の食料に余裕ができたの。小林のおばあちゃんは、それが分かってたから、亡くなる時、ユイを呼んで、今さっき、あなたに飲んでもらった解毒剤を渡したの。斉藤くんに飲ませて、記憶が戻った斉藤くんが、ここに来たいって言ったら、自分の分の食料で、斉藤くんを受け入れることができるからって」
「!」
「坂本くんも、あなたも、桃源郷では、何の役にも立たなかったから、いくら、桃源郷にいて欲しいと思っても、貴重な食料を分けてあげることができなかったの。だから、ユイは、あなたのことを考えないようにして、生きていたの。
でも、小林のおばあちゃんの遺言で、あなたを迎えることができることになって、大喜びで迎えに行ったわ。空を連れてったのは、少しでも早く、お父さんに会わせてあげたいって思ったかららしい。でも、あなたは、妹さんが亡くなって、めっきり老け込んだご両親に拝み倒されて、結婚してたってわけ。
結局、あの子、何も言わずに帰って来ちゃって、あれから、無茶するようになったの」
「無茶って?」
「あなた達が帰ってから、ユイは、ここで空を産んだの。あなたの子よ。その間、二酸化炭素を分解するシステムを改良して、それを北極で稼働できるようにしたの。北極であの機械を動かして、気温を下げることができれば、大きな効果があるって、ユイ、前から言ってたから。それは、知ってるでしょ?」
「ええ」
「で、空が歩き始めた頃、北極へ行ったの。翔おじさんとマキおばさんが一緒に行ったわ。ユイ一人じゃ生活できないもの。そうして、十年ほどで帰って来て、あなたに会いに行ったの。でも、あなたが、ここに戻って来ないことが分かったから、あの子、また。北極へ行っちゃったの」
「どうして?」
「桃源郷にいると、クチナシが咲くし、キンモクセイが咲くでしょ。あなたを思い出すものが多すぎたの」
「今も北極にいるんですか?」
「ううん」
若菜が、辛そうに首を振った。
「じゃあ、どこにいるんです?」
「今は、飛行機の中。こっちへ向かってるわ」
「どういう意味です?」
「あの子、二度目に行ってから、無茶ばっかりしてるの。空が大きくなったから、あの子がいなくてもやっていけるって思ったみたい。だから、一刻も早くあなたや坂本くんが外の世界でも生きていけるようにしたいって、思いっきり無茶なことをやったの。何か、死に急いでいるみたいな感じがしたわ。
そんなに頑張ったら命を縮めるって、凛博士が心配しても、言うことを聞かないの。
で、この前、無茶し過ぎて肺炎になっちゃったの。だから、舜先生が迎えに行って、もうじき帰って来るの。
どうせ死ぬなら、桃源郷で死にたいって、最後になって、生まれて初めてわがまま言って……小野寺ファミリーの直系だったから……あの子、あなたに残って欲しかったのに、みんなのために我慢して……斉藤さんがいたら、空の授業参観、一緒に行くのにって、赤ちゃんだった空の手握って、いっつも言ってたのに」
涙でこれ以上言えない。
やっと落ち着いた若菜は、鼻をかんで吐き捨てた。
「あなたも坂本くんも、どうして、医学部か、薬学部か、理工学部に転学部しなかったのよ!」
「?」
「お月見の時、香織のお母さんが言ってたでしょ?理系へ転学部しないのかって」
そういえば、そんなことを言っていた。あれは、そんなに重要なことだったのか?
「桃源郷には、医者と薬剤師が必要だったの。舜先生が隠居したら、医者がいなくなるし、小林のおばあちゃんにいたっては、香織を看護師として仕込むことはできても、後任の薬剤師がいないから、第四世代に期待しようかって話まであったの。あなた達が役に立たないから、ユイも香織も不幸になったんじゃない」
絶句した。
失踪この方、何となく、医学部に転向したいという気持ちはあった。でも、私の学力では、医学部や薬学部への転学部は無理な相談だった。もう一度、受験勉強をしようか、とも思った。でも、入学後、怠け癖がついた身では、高すぎるハードルだったのだ。
ユイの思いを覚えていたら、必死に勉強しただろうか。
「この程度の男を好きになったユイって、ホント、おバカさん」
若菜は、軽く笑って流した。
「坂本くんだって、香織が最後の夜に必死に頼んだのに、転学部しないで、経済学部卒業しちゃったし。あの薬のせいだって、わかっていても恨めしいわ」
「香織ちゃんも、泣いてましたか?」
「ええ。ものすごく泣いたわ。あなた達、滞在期間が長すぎたから。でも、あの後、別の子と仲良くできたから、あの子はいいの。そうでもしないと、やってけないし……」
アマゾネス達は、私達が帰った後も、失踪してくる男達とよろしくやっていたのだ。つくづく、たくましいと思った。
「でも、問題は、ユイなのよ」
若菜が暗い声で言った。
「問題って?」
「あなたしか、相手にしなかったの」
お前は、別の女と結婚したのに。
非難のセリフが聞こえるようだった。
ここら辺の斉藤くんは、バカです。まあ、いつも、バカなんですが…。




