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遠い記憶  作者: 椿 雅香
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記憶をなくす薬

斉藤が桃源郷を去る火が近づくとユイが斉藤を避け始めます。


 香織に教えられたとおり、リビングを覗くと、開け放したスペースで、格闘技の稽古をする人々がいた。十人ほどの中で、一番小柄なのがユイだ。


「じゃあ、基本はそれまでにして、後、個別に稽古しましょうか。最初はユイね。サカ、手伝って」

 

『サカ』というのは、香織の父、小坂一平のことだろう。背筋のしゃんとした老婦人――格闘家の山道夫人だろう――がそう言うと、ユイと一平が進み出た。驚いたことに、一平がプロテクターをつけて完全防備しているのに、ユイはプロテクターどころか、ヘルメットも被っていない。

 

 二人は激しく戦った。横から、山道夫人の声が飛ぶ。

「ユイ、急所を狙うの。急所を!」

 ユイは、必死で突き、蹴り上げる。一平のプロテクターに鈍い音がする。

「サカ、反撃して!」

 再び山道夫人の声。

 急所は外すよう言われているのだろう。一平は、唯の腕や足を狙う。太股を蹴られて、よろめいたユイが、どさくさに紛れて急所を蹴った。

「そう!その調子!ユイ、頑張って!もっと、左を使う!」

 八十近いだろうに、山道夫人のパワーには、あきれるばかりだ。五分も稽古しただろうか。

「そこまで!」

 鋭い声が響いた。

 やっと息をしているユイに、山道夫人が優しく言った。

「ユイ、本当に襲われたら、五分じゃ終わらないのよ。早く終わりたかったら、急所を狙って早く倒すことを覚えなさい」

 黙って頷いたユイは、戦闘の日と同じ目をしていた。冷酷なスナイパーの目だ。

「じゃあ、ユイは、ここまで。次は、若菜と麻美ね。マキちゃん、手伝って頂戴」

 山道夫人が片山真紀子を振り返った。

 ジャージ姿の山道若菜と山道麻美が進み出た。

 

 ここで、気が付いた。若菜は山道健二の娘だし、麻美は山道陽一の娘だ。健二も陽一も山道夫人の息子なのだ。ということは、二人とも、山道夫人の孫ってことになる。ここでは、どいつもこいつも、みんな親戚なのだ。桃源郷が、余所の血を入れたがる事情が分かるような気がした。


 ユイが山道夫人と一平に頭を下げて、リビングを後にした。疲れたのだろう、ゆっくり歩いている。リビングの隅で、一平が、苦労してプロテクターを外していた。

 

 歩いて来るユイの前に立ちふさがった。

 私を認めると、ユイの顔が曇った。


「稽古するって、どうして、教えてくれなかったの?」

「斉藤さん、ギプス取れたから……」

「ギプスと稽古はどういう関係があるんだ?」

「もう、斉藤さんに会わないようにしようって、決めたの。だから……」

「どうして、勝手に決めるんだ?」

「斉藤さん、もうすぐここ出てくから……あんまり深入りしないようにしようって」

「誰かが、そうするよう、言ったのか?」

「誰も言わない。自分で決めた。ユイは、何でも自分で決める。稽古するのも。北極へ行くのも」

「北極へ行くのか?」

「うん。決めた」

「いつ?」

「まだ、先の話。たぶん、二年ほど後になる。あの機械が順調に稼働するのを確認して、向こうで住むところを作ってから」

「あんなとこ、何しに行くんだ?」

「あの機械、地球上の一カ所だけで動かしても効果が薄いんだ。世界中のいろんなところで少しずつ酸素を増やす必要がある。だから、ここ以外のどこかであれを稼働させたいんだ。北極であれを稼働させて、そのエネルギーを使って、あそこの気温を下げると、温暖化に伴う異常気象の改善が進むんだ」


 絶句した。とんでもない計画だった。凛博士を中心とする桃源郷の面々は、こんな壮大な計画を実行しようとしていたのだ。


「どうして、お前が北極へ行かなきゃならなんだ?誰か別の人間が行けばいいだろ?」

「あの機械を気温を下げる機械に改良したのが、ボクなんだ。だから、ボクが行って、使いながら、不具合を改良して、誰にでも制御できる機械にしなくちゃいけないんだ」

「どのぐらい……行くんだ?」

「分からない。上手く行けば、一年か二年で帰って来れる。でも、十年以上になるかもしれない」

「それなのに、俺に会わないことにしようって決めたってか?」

「会うと、辛くなるから」

「もう、会えないかも知れないんだぞ」

「ううん。会えないかも知れないんじゃなくて、もう、会えないんだ」

「どうして?来るなって言われても、俺は、また来てやる」

「そのうち、分かる。来れないんだ。桃源郷は、そういうところなんだ」


 俯いた目から、ぽとぽとと涙が流れ落ちた。思わず肩を抱き寄せた。

 

 肩の線が細い。こんな小柄な少年が……。人類が無茶区茶したせいだ。そのせいで、こんな少年が、犠牲になるのだ。

「放せ」

 ユイが、あらがった。

「行くな。行くんじゃない。俺と、ここを出るんだ。お前の食い物ぐらい、何とかしてやる」

「ボクがここを出たら、みんな死ぬんだ。異常気象で人類が滅亡するのと、温暖化が緩和するのと、どっちが先になるか競争なんだ。ボクが頑張らないと、桃源郷以外の人は絶滅するんだ」


 やっとのことで、涙を拭いて続けた。


「前に、ボクは、桃源郷の外の人なんかどうでもいいって思ってた。

 おじいちゃんも、おばあちゃんも、母さんも、人類を滅亡から救うためにって、頑張ってたけど、そもそも、ひいおじいちゃんがあんなに警告したのに、無視した人達が悪いんだって。

 でも、斉藤さんに出会って思ったんだ。斉藤さんが人類の一人なのなら、斉藤さんを助けるために、ボクが北極へ行った方がいいんじゃないかって」


「俺は、お前に北極なんか行って欲しくない」

 思い切り肩を掴んで揺すった。

「母さんは、マキおばさんや翔おじさん達を桃源郷に迎え入れるために、あの農作物を二倍から四倍にする薬を発明したんだ。でも、ボクには、そんなことできないから、斉藤さんや坂本さんを桃源郷ここへ受け入れることができない。だから、二人とも、桃源郷ここを出て行ってもらわなくちゃならない。でも、香織さん、泣いてた。坂本さんと別れたくないって。ボクが北極に行って、異常気象が緩和されたら、斉藤さんも坂本さんも向こうで生きて行ける。だから、ボクが北極へ行くのは、斉藤さん達に生きてて欲しいからなんだ」

「お前に、そんな苦労かけてまで、生きていたいと思わない」

「大丈夫。ボクのことは、すぐに忘れる」

 

 そう言うと、私の手を振りほどいて、ゆっくり、風呂場へ歩いて行った。泣きながら、歩いて行った。


 病室の前に立っていると、ユイが通りかかった。バスタオルで髪を拭きながら、黙って通り過ぎようとする。ネコでも掴むように首の後ろを掴んで、病室に連れ込んだ。


「どうして、俺がお前のことを忘れるんだ?」

「……」

「俺は、お前のことを忘れるほど薄情じゃない!」

「……そういうことになってるんだ」

「分かるように言え!」

「坂本さんに黙ってといてくれる?」

「ああ」

 ここで、どうして坂本が出てくるんだ?

「ボクの話を聞いても、黙って、みんなの言う通りにするって、約束できる?」

「ああ」

 ユイは、唾を飲み込んでやっとのことで言った。

「薬があるんだ」

「どんな?」

「記憶をなくす薬」

「あり得ない!」

「小林のおばあちゃんが発明したんだ。桃源郷ここに来た人は、帰りにみんな、それを飲んでもらう。そうして、桃源郷ここのことを全部忘れてもらうんだ。じゃないと、いくら良い人でも、間違って口を滑らすことがあるだろう?桃源郷ここを護るためには、必要なことなんだ」

 

 あまりのことに、絶句する私の側で涙を流す小さな人がいた。黙って、情けなそうに、私の顔を見上げる。


「話聞いても、ちゃんと薬飲んでくれるよね?」

「……約束…だ」

 そうしないと、この小さな人は、もっと傷つくのだ。

「……良かった」

 良くない!お前が良くても、俺が良くないんだ!

 そう言いたいのを必死で我慢した。代わりに、頭をクシャッとかき回して、話題を変えた。

「お前、小さいなあ」

「父さんに似たかったんだけど、母さんに似ちゃったみたい」

 恥ずかしそうに笑う。

 手のひらに、濡れた髪を感じた。

 夏は終わったのだ。遠くで、かすかにキンモクセイの香りがした。


「忘れてしまうのなら、最後まで、付き合ってくれ」

 そう言うと、ユイは、首を横に振りながら顔を覆った。首筋が細い。思わず、抱きしめたくなった。ユイが女だったら、桃源郷への約束をこの子に果たすのに。


約束のものを舜先生に渡す時、舜先生に言われたことを思い出した。 

「誰に使うか、もう、決まってるんですか?」

と、訊いたのだ。

「君は、知らなくていい」

 有無を言わせない返事だった。

「でも、自分の知らないところで子供が生まれるんです」

 こっちの立場もわかって欲しい。

「知りたかったら、今からでも、誰かと交渉を持つんだ。その娘に使おう。そうじゃないなら、君の知らないところで子供が生まれても、君のあずかり知らないところだ」

 

 頭を殴られたような気がした。

 坂本に、好きな娘と子供をここに残すのは、フェアじゃないと、言い募った。でも、私がしていることは、もっと、ひどいことなのかも知れない。

 

 愛のない子供を残された女は、どんな思いで子供を育てるのだろう?


 ユイの意見を聞きたいと思った。でも、あの子は、会ってくれない。あの晩、ベッドの脇で泣いていた。明け方、真っ赤な目をして出て行った。それっきりだ。

 

 あれから、私を避けている。声を掛けても、逃げるように通り過ぎる。

 

 あの晩、子供と添い寝するように、一緒に寝れば良かった。

 記憶がなくなっても、あの子の体温を覚えているかもしれないじゃないか。あの子の感触を覚えているかもしれないじゃないか。


 舜先生は、時々、ユイをくるむように抱きしめる。大切そうに、愛しそうに。いつも、あんなふうに抱かれているのだ。私が同じように抱いたとしても、さほど奇異に思わないだろう。


桃源郷を忘れないという斉藤に、記憶をなくす薬があると知らされます。

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