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遠い記憶  作者: 椿 雅香
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怪我が治る

斉藤達の滞在期間は、怪我が治るまでです。足の怪我が治ると、桃源郷を出なければなりません。

 ギプスを外す日が来た。足は治っていて、後はリハビリだと言われた。


 診察の後で、舜先生から精子の提供を求められた。当然のような顔で、事務的に求められると、尿検査のような気分になった。


 私のために、ユイが頼んでくれたのだ。好きなようにさせてもらおう。そう思った。


 坂本は、私の決断に目を剥いた。せっかく、可愛い女の子達が頼んでいるのに、誰かの役に立ってやれば良いじゃないか、とも言った。


 でも、あの一直線に媚びを売るような態度に、どうしてもなじめないのだ。仕方がないじゃないか。


 責任を果たした私を、周りの女達は、少し離れて見るようになった。その程度だったのだ。

 一抹の寂しさを感じた。


 農作業の時、片山依子をからかってやった。

 たまには、一矢報いたって罰はあたらないだろう。いや、そうじゃなきゃ面白くない。


「君達は、俺をその程度の種馬だって見てたのか?」

「どういう意味?」

 依子が首を傾げた。

「こうなっても俺を好きになってくれる人は、いなかったってことだ」

「だって、斉藤さんは、ユイが頼んだから……」

 何か言い掛けて、慌ててはぐらかした。

「斉藤さんが、ユイに頼んだんでしょ?責任から逃れたいって。ユイ、斉藤さんには、きっと、向こうに好きな人がいて、私達とは付き合う気分じゃないんだろうって言ってたわ」

 

 向こうに好きな人がいるって?

 九条定子をのことを思いだした。

 高嶺の花だった。いつも平然と微笑んでいた。この食料難でも、三食きちんと食べていて、時々、私達にそれを分けてくれた上品なお嬢さまだ。

 彼女のために、私は、ここの女達から逃げたのだろうか。

 違う。何となく、言い寄られるのが、嫌だっただけだ。

 自分の好きな人に、自分から近づきたかっただけだ。

 でも、そんな人は、ここにはいなかった。それだけのことだ。


 

 ユイは、毎晩八時半頃、病室を覗いた。

 いつとはなしに、私は、ユイの訪れを心待ちにするようになっていた。


 だが、ギプスを外した日、ユイは、九時になっても現れなかった。私は、何となく、不安になった。


 思い切って、田圃へ出掛けた。戦闘の晩、田圃でネコの実験をしていたのを思い出したのだ。

 今、田圃へ行ったら、ユイが病室に来ても会えない。そう思って、さんざん悩んだ。でも、ユイは、来そうにない。だったら、こっちから会いに行くしかないじゃないか。


 月夜の田圃には、誰もいなかった。黄色が強い下弦の月だ。冷たい光の中で、稲の切り株が並んでいた。ギプスも取れたのだ。戦闘の晩より、スムーズに歩けた。もうじき、足が完治する。そしたら、ここを出ていかなければならない。

 

 食料と別れて、ユイと別れるのだ。


 考えてみれば、私は待つだけだった。

 こっちから、会いに行くということをしたことがない。

 女達に言い寄られるのが嫌だ、と、文句を言った。自分から、好きな人にアプローチしたい、とも言った。でも、結局のところ、ユイが遊びに来るのを待っていただけだった。

 

 あの少年は、来なかった。


 ユイが来なかったことで、初めて、私にとって、ユイが大きな存在になっていたことに気が付いた。そうして、そのユイに対して、自分からは何の行動も起こしていなかったことも。


 田圃から、研究室になっている離れを望むと、明かりが消えていた。ユイも凛博士も片山 翔も帰ったのだ。きっと、家で休息しているのだろう。

 

 小林家のスペースで、ユイの部屋は、どこにあるのだろう。

 ユイの部屋さえ知らないことに気が付いた。


 自分は、あの子のことを何も知らないのだ。

 あの子の好意で、楽しく過ごしただけだ。

 向こうへ帰ったら、ユイがいない。こんな毎日が続くのだ。


 でも、ここに置いてはもらえない。


 しっかりしろ!

 相手は、少年なのだ。


 自分を叱りつけて、ゆっくり歩いた。

 まるで恋でもしているみたいだ。良い女がいないからと言って、少年に惹かれている。

 バッカじゃないか。

 

 桃源郷本部の前庭で、坂本と香織に会った。珍しい。二人が八畳間を出てデートするなんて。


「珍しい。斉藤さん、どうしたの?」

 香織(向こう)もそう思ったようだ。

「散歩。ユイが来なかったから」

 わざと何気なさそうに言う。


「ああ、ユイなら、リビングで、稽古してるわ。きっと」

「何の稽古?」

 何かの稽古をするというのは、初耳だった。

「格闘技の稽古なの。桃源郷ここじゃ、稲刈りが終わったら、格闘技の稽古をすることになってるの。何てたって、桃源郷ここここは襲われやすいし、情報収集に町へ出掛けるときだって、護身術が要るでしょ?それに、ユイは、そのうち、どこかの研究所か北極へ行くことになるから、護身術を身につけなきゃいけないの」

「先生がいるのか?」

 坂本が何気なく訊いた。

「陽一おじさんと健二おじさんのお母様、有名な格闘家なの。だから、みんなしてお弟子になって稽古してるの。今は、マキおばさんが、一番の使い手よ」

 平然とした答えに、私と坂本は目を剥いた。

「だから、前にユイを襲って、『こいつの命が惜しかったら、俺の言うことを聞け!』ってバカが出た時だって、ユイが自分で蹴り倒しちゃったの」

「あのガキ、そんなに使うのか?」

 坂本は、陸に上がった魚だ。

 つくづく、余計なちょっかい出さなくて良かった、と思ったようだ。

「うん。でも、ウチの父さんに勝てるようにならないと危ないからって、今年の目標は、ウチの父さんに勝つことなんだって」

「香織の親父さんって、百九十はあるんじゃないか?」

 坂本の目がますます丸くなる。

「百九十八センチあるの。でもって、体重もしっかりあるから、父さんに勝てるようになったら、大丈夫だろうって、マキおばさんも言ってた」


 唖然として息もできない私に、香織が訊いた。

「斉藤さん、足、もう、いいの?」

「ああ、もう、ほとんどいいんだ。あとは、リハビリだけだって、舜先生が」

 上の空だ。

「竜太。もう時間がない」

 香織の悲しそうな声。

「お前を……連れて帰りたい」

 坂本が、香織を引き寄せる。

「でも、ここの方が、生きて行けるわ。外の世界は、まだ、不穏だって」

 切なそうに続けた。

「大丈夫。何があっても、あなたの子供は、ここに残るんだから」


 目の前で、二人のラヴシーンが始まった。

 いい気なもんだ。こっちだって、ユイと別れるのが辛いのに。

 でも、ユイは男だ。香織のように、すがりついたりしない。


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