解毒剤
少し短いですが、キリなので。
三ヶ月の失踪の間、私は、自分が、どこで何をしていたのか全く覚えていない。一緒に失踪した坂本も同様だった。
こっちへ戻ってから、私達は、あの失踪について話し合った。だが、二人とも全く記憶にないことを確認するだけだった。そうして、何となく生活に追われ、忘れるともなく忘れていたのだ。
仕事にかまけていないで、あいつが生きている間に、二人で来たら良かった。そう思いながら、古い県道を歩いた。
夏の日差しが、痛いほどだ。
あの日も暑かった。そうして、傍らには、あいつがいたのだ。
坂本の顔を思い出した。
少し斜に構えた一癖ありそうな眼差し。肌は小麦色に焼けていた。別に健康的な生活をしていたわけじゃない。食べ物を探して、野山を歩き回ったから黒くなっただけだ。
さっき降りた駅は、あの頃より閑散としていた。駅前の商店街は、ゴーストタウンだ。
それもそうだ。人口が減って、人々は食べ物を得やすい場所に住むようになった。家の近くで家庭菜園もできない田舎の駅前は、生活することさえ難しいのだ。
坂本と歩いた時、二人とも二十歳だった。今は、三十八。まだ若いはずなのに、足がもつれて苦労した。ここ数年、運動らしいことをしていなかったせいだろう。
舗装された道が終わって、荒れた山道に出た。ここから先は、覚えていない。坂本と一緒に、地図とコンパスを見ながら歩いたのだ。
坂本の癖のある笑い顔を思い出した。口の端だけ上げる少しすねたような笑いだ。
景色に既視感があった。
夢で見たあの道だ。
失踪後、私は、何度もこの道の夢を見た。記憶がないのだ。道なんか覚えているはずがない。でも、確かに、これは、夢で見たあの道だった。
夢では、突然、崖っぷちで行き止まりになって、気をつけないと池に転落しそうになった。ゆっくり立ち止まると、そこは、ものすごい絶壁で、二十メートルほど下に池が見えた。
夢では、崖っぷちの手前、右側に獣道のような細い道があった。もしかして……そう思って、うっそうと繁る木々をかき分けると、細い、人の通らない道があった。
目を見張った。
深呼吸して、ゆっくり道をたどる。
木々の間を抜けると、草むらへ抜けた。これも、夢の通りだ。
息が苦しい。
確か、夢では、この先に畑があった。そうして、そのまた先に小さな集落があるのだ。
畑だ。
畑があった。延々と続く広い畑だ。そして、遠くに人家が見えた。
集落にたどり着くと、中央に古い大きな民家があった。
「学校って、どんなとこ?」
どこかで、あどけない声が聞こえたような気がした。
何となく、その民家に入る。玄関を脇に銅鑼があった。チャイムの代わりに、客が打ち鳴らすようになっているのだろう。
傍らにぶら下がっている木槌をとった。
大小中中大。ここは、こういうリズムで打つ。何故だろう。体が勝手に動いた。
中から、中年の女が出て来て、驚愕した。
「あなた……もしかして、斉藤くん?」
応接間のソファに腰掛けてしばらく待つと、さっきの女性がお盆に小さな瓶を乗せて持って来た。
「全部、飲んで頂戴。例の薬の解毒剤なの」
「例の薬って?」
「あなたが、ここであったことを忘れる薬。記憶をなくす薬よ。あなた、失踪期間中、どこで、何をしたか覚えてないでしょ?」
「ええ、一緒に失踪した坂本も全く覚えていなかったんです」
「あなたが、最後に飲んだ薬のせいなの。ここのことを外の人に知られると、どうしても、襲撃しようってバカが現れるでしょ?それで、外の人が帰る時、記憶をなくす薬を飲んでもらってるの」
「解毒剤ということは……」
「そう、思い出すの。ここのことも、ユイのことも」
ユイ?
どこか懐かしい響きだった。誰かの名前だろうか。
一礼して、小瓶の薬を飲み干した。
喉が焼けるようだ。喉だけじゃない。頭の中も焼けるようだ。私の大切な人、暖かい人、その人が泣いていた。小さな手で、顔を覆って泣いていた。
悪かった。お前を忘れていた私を許して欲しい。