遠距離片恋
世界は引き算でできている。
「知ってたよ」
きみはわたしを好きじゃなかった。
きみにはわたしが必要だった。
「手をつないでも、べつのひとのことを想ってたね」
疑問形ですらなく、ただ静かに事実として呟いた。
望まれたから傍にいられたけど、きみのそれは恋じゃなかった。
きみはずっと、ここにはいないひとを想っていた。――手の届かない、遠い空にいるひとを。
驚き目を見張る栗色の瞳に、どうして気付かないと思っていたのかと逆に聞いてみたくなった。あんなにあからさまだったのに、それはあまりにもわたしを馬鹿にしている。
(あぁ、そうじゃないね)
ただ、興味がなかっただけだ。
わたしの恋に。わたし自身に。
彼女に似たぬくもりが傍にあることが大事で、わたしが選ばれた理由はそれだけだった。
「ごめんね」
知っていたのは最初から。
それでもいいと思っていた。
傍にいられるだけで、きみが許してくれる最後のときまで、傍にいられるだけで幸福だと思っていた。いまも。
けれど。
「もう、だめなの」
傷つき続けて、騙し続けてきた心臓はもう限界だ。幸せだと言い聞かせても、激痛にのたうつこころはまるで言うことを聞いてくれない。一刻も早くこの苦痛から解放してくれと、ひたすら訴えるだけで。
凍りついた口元、言葉の出ないまま蒼褪めたのを、それが喪失への怯えだとしても、もううれしいとは思えなかった。
(きみをまたこどくのなかにおきざりにする)
数年前、彼をそうした彼女をあんなにも恨んだのに。
自分だけは何があってもそばにいると誓ったのに。
(だけどずっと、そばにいてもひとりだった)
握り締めた手に返らないぬくもりが、目が合った瞬間のかすかな違和感が、ずっと、彼のこころがあのひとだけを求めてると伝えていた。
「なんで、」
なんで、なんて。
今さら聞かないでよと声もなく哂った。瞬きすれば感情が溢れてしまいそうな視界で、わたしはまっすぐに顔をあげる。
「好きって言ってくれるひとがいるの」
とてもやさしくて、こころのひろいひとだった。私に好きな人がいることを知っていて、辛い恋をしていると気づいているひとだった。
『利用するだけでいいよ』
私がこの恋を忘れるまで。傷ついた心が癒えるまで。
君の凍えたこころを抱きしめて癒せれば僕は十分しあわせになれる、と微笑んでくれた。
このやさしさに流されてしまえ、と悪魔がささやくのに一瞬遅れてずきりと鈍く心臓が痛む。なぜだろう、なんて考える間もなくわかった。彼の瞳はいつかの自分のようで、彼の言葉はあの日の自分そのままで。だから心が痛んだのだ。
きっとずっとこの人を好きなままの自分は、彼を自分と同じ目に合わせるのだろうと、そう思いついてしまえば、ぐらつく心はすんでのところで踏みとどまったけれど。
「わたしのことを好きになってくれないひとを、ずっと好きでいるのはくるしいよ」
「そんなことは、」
手酷い悪戯を咎められた小学生みたいに栗色の瞳が泳ぐ。
そこで、『ない』と言い切れないきみを、やっぱり好きだなぁと思った。
言い切れない、正直で誠実で、やさしすぎてやさしくないきみが好きだった。
(ついていい嘘もある、って知ってるのにわたしには嘘をついてくれないきみが)
喪失の恐怖に揺らいだきみの足元で、わざと地面にむけて石槌を振り下ろした。
足元が砕けたとき、奈落へ落ちるのははたしてきみとわたし、どちらなのだろう。
嫌いになったわけじゃない。ただ、きみの見つめる先にわたしはいないのだと、こんなときにまで思い知らされるのがつらかった。
「だからもう、そばにはいられないよ」
そのかわりに、せめてわたしの一生分のこいごころをきみの隣に置いて行こう。
きみの目には見えないけれど。