贅沢な朝
深夜2時。
開いていた参考書をパタリと閉じる。
深い夜は、小さな物音さえも大きく感じる。
私はそれが嫌い。…… だから。
いつもテレビを点けているか、音楽を聴いているか、どちらか。
そろそろ寝なくちゃいけない。
明日だって早起きだ。
でも、ここまで、どうしても勉強しておきたかった。
自分で自分を追い詰める。
ノルマを決めて自分に厳しくしないと、すぐに抜かされる。
順位なんて気にしないで生きれたら楽なのにな。
なのに、私はそれが気になってしまう。
何のために勉強するんだろうって思う時もあるけど、それをしないでいたら、どうしていいかわからないかもしれない。
大学に行くため?
将来のため?
何もかも投げ捨てて、お化粧しておしゃれして彼氏がいて。そんな生活も悪くないんだろう。でも、できない。
布団にもぐりこみ、目を閉じる。
メールチェック忘れたけど、どうでもよかった。
一、二、三……。
深い眠りはすぐに訪れた。
**
携帯のアラームが鳴る。
ひとりで起きることには、慣れている。
いつもそうだから。
キッチンに行き、ホットミルクとバターロール一個。
バターロールは、スーパーの割引品がほとんど。5個で100円に20%引きにシール。たまに、50%引きもあると、かなりなお得品になる。賞味期限なんて冷凍しちゃえば気にならない。
それが私の朝食。
365日かわらない。
これと決めておけば、楽なのだ。
トーストーにしようか、ご飯にしようか。
ご飯なら、ふりかけは何がいいかとか。
トーストなら、何のジャムがいいかとか、それともバターがいいかとか。
卵は必要かとか。
迷うことは無駄だと思うから。
そっと、キッチンの隣の部屋の襖が開いていた。見るとはなしに、見てしまう。
…… 母が寝ている。
そして、隣に…… 男が寝ている。
父じゃない。新しい男。週に一、二度の訪問者だ。
別にかまわない。母は独身だし、父はとっくに死んでる。
別にいい。恋愛は自由だし。
私には関係ない。
けれど、この家でセックスだけはしてほしくない。そう思う。
朝くらいおきて「いってらっしゃい」を言って欲しいなんて思わない。
そんな言葉、いらない。
それよりも私が欲しいのは、大学へ行くためのお金。
参考書を買うお金。
ゼミに行くお金。
お金、お金、お金。
**
足音をさせずに歩くことを覚えたのは、父が死んで間もなく。母が知らない男を連れてきた日からだ。
「緑、この人ね、パート先の主任さん」
そう紹介した主任さんは、頭の禿げたおやじ。
お父さんの方が断然、かっこ良かった。
なんて言えず、曖昧に私は挨拶をしたように思う。
その日から、男が入れ替わり、この新顔は私の知る限りじゃ五人目だ。
不倫なのか、そうでないのか、興味はない。どの男もたいしたやつじゃない。
それなのに、母は男にくっついて生きている。
醜い。とまでは言わない。
けど、ああはなりたくない。
…… だから。
勉強をしてるのかもしれない。
男を頼らずに生きる力が欲しいから。
**
襖の隙間から垣間見た母の寝顔。
なかかの美人と評判の顔は、目を閉じていると、疲れた老婆のよう。
父がいなくなってから、母はスーパーに勤め、禿げおやじのせいかどうか知らないが、そいつと別れた途端にスーパーを辞めた。
そのあと、小さなお店を開いた。いわゆる水商売だ。
必然的に、夜は私ひとりになった。
始めたばかりの頃は、朝は私を起こしてくれてたけど、段々にそれがなくなっていった。
気づいたら、いつもキッチンテーブルには、お店の残り物が申し訳なさそうに朝食としておいてあった。
朝から食べたくもないメニューが並んでいると、吐きそうになった。
あの日は、確か参観日だった。
朝は起きない母だけど、参観日には必ず来てくれていた。美人の母は、生徒と父兄の注目で、それが恥ずかしいような、嬉しいような。
その時だけは、自慢の母だった。
帰り道。
シンプルなワンピースを着た母と近所のスーパーに寄った。
パン売り場で足を止める。
「アタシ、朝はこれでいい」
20%引きのシールが貼られたバターロールの袋を指さして私が言うと、母は
「じゃ、これ買おう。いつも、残り物でごめんね。朝、起こさなくてごめんね」
私にごめんねを繰り返しながら、バターロールの袋をひとつ手にしてレジに並んだ。
その姿は、確かに人からみたら綺麗な女かもしれない。
けれど、さっきまで自慢の母が、バターロールの値引きを喜ぶちっぽけな女に見えた。
父が死んだことで私と母の生活がこんな風に変化してしまったと、嘆きたい気分だった。
…… その日から私の朝食は、バターロールになった。
**
静かに玄関の鍵をかけ、学校へと向かう。
駅から電車に乗る。駅までは歩く。
自転車でもいいけど、歩くことは寝ぼけた頭を冴えさせる効果があるような気がして、片道15分。毎朝歩く。
駅前には、ブルーの看板「須川ベーカリー」
そこから、毎朝、かわらない焼き立てのパンの香り。
スーパーの安売りのバターロールが胃袋から消えて、焼き立てパンをほおばりたくなった。
時々、そう。
時々。
私はここでパンを買う。
それはお昼用のパンだったり、おやつだったり、夕飯用だったり。
基本、お財布と相談する。なぜなら、スーパーのパンの方がだんぜん安いから。
ここのパンはご褒美みたいなものだ。
たくさんのパンの中、私が一番好きなのは、やっぱりバターロールだ。
特別な朝だけ、母はここのバターロールを買ってくれる。
小中と、いつも。
遠足とか運動会とか、それから、各学期のスタートと終わり。
特別な朝は、年に数回。
それが私の贅沢な朝だった。
**
冬の真っただ中。
どうして、こんな季節に受験をするのだろうかと思ったりする。
「明日のお天気」が今まで生きてきた中で一番気になった。
正確に言えば、一番じゃなく二番かもしれない。
小学校の頃、遠足の前夜と同じくらい。
「明日はおおむね晴れでしょう。受験生の皆さんは明日センター試験ですね」
なんて、余計な事をいうアナウンサーの声が少しばかりうるさく感じてテレビを消した。
…… やれるだけのことをやったつもり。
ゼミもなんとか行かせてもらえた。
お金の出所は、母の経営するお店からなのか、男からなのか。
訊く気にもならず、ただ、振込用紙だけを母に渡していた。
受験料もしかり。
それでも、家計を考えて私は国立を志願した。
いつもより早めに寝るため、夜中に必要のない物音で目覚めないため。
あたためたホットミルクをゆっくりと飲む。
ひとりの夜には慣れている。時折、鳴る携帯は、ひとりをかき消すメールだったりする。
友達いないわけじゃないし。
既に推薦で大学が決まった友達から、メールが来たりもしていて、それはそれで嬉しいものだ。
メールに返信をしていると、何かに追われているように着メロが鳴った。実際、追われているわけじゃなく、それは、私の心が落ち着いていないせい。
♪♪♪
「もしもし」という私の声より先「明日は晴れだってね。良かったね」母の声が聞こえた。明るい元気な声は、お店にいるせいだろうか。
いや、母はもともと。
そう、もともと、明るく元気。
美しい母は、父がいるころ「美人のママ」「元気で明るいママ」で有名で、私はそれが自慢だった。
父の葬儀から、変わった環境の中。
それでも……母は、時折見せる悲しい顔を隠して、いつも明るく元気だったのだ。
私が気づかなかっただけのこと……。
「そうみたいだよ。今日はもう寝るから」
簡単に電話を切ろうとする私に
「緑ならやれるよ。がんばれ!」
と言ってから、何を考えているのかカラオケで歌い始めた。
♪♪ 桜サケ。君の…… ♪♪
「嵐じゃん」
「耳痛いから切るよ」
途中で電話を切ったのは、本当に耳が痛かったから。
電話を切ると痛い耳を軽くさする。不思議とさっきまでのざわめきが消え、穏やかな気持ちになっていた。
布団にもぐりこみ、一、二、三。
すぐに眠りについたのは、きっとホットミルクのせいだろう。
母の歌声は、まだ。
耳に残っていたけれど……。
**
アラームが鳴る前に目が覚めた。さすがに緊張しているのかもしれない。
淡々とかわらない朝のように、着替えをし、足音をさせないようにキッチンへ行く。
寒さで冷えているはずのキッチンが暖かい。
暖房がついていて、キッチンテーブルに伏して母が寝ていた。
テーブルの上には<合格祈願>のお守りと、鋭く削られた鉛筆が二本。
新しい消しゴム。
それから……
須川ベーカリーのバターロール。
今日はかなり特別らしく、須川ベーカリー特製のいちごジャムも置いてある。
母の肩にそっとショールをかけ、起こさないように朝食をとる。
甘酸っぱいいちごジャムが口の中で広がり、あったかいホットミルクとよく合う。
…… やれそうな気がする。大丈夫。
自分に気合を入れて、寝息をたてている母の手にそっと手をあてた。
禿げたマニキュアが少しばかり動き、それでも母は寝息をたてている。
足音を忍ばせて、そっと、家を出る。
ポケットにお守り。
筆箱に鉛筆、消しゴム。
胃袋にバターロール。
私の贅沢な朝。
天気予報は当たり。
…… 晴れた一日がスタートした。
<完>