3.親の顔が見てみたい! 1/4
あっはっはっは。
嘘みたいだが、乾先生は本当にそう声を立てて笑う。表記通り、一音一音の区切りがはっきりしているし、発音も正確だ。女性ながらに豪快で、男だってこんな笑い方をする人は珍しいくらいだが、かと言って下品さは微塵も無い。寧ろ耳に心地良い。
というのは、かなり個人的感情が入った解説だけれど、まあ、彼女の笑い声を聞いて不快に思う人間が居たとしたら、そいつはきっと人間の声を聞くだけで嫌なんだろう。
「笑い事じゃないですよ。お陰で暫くは屋上に行けなくなりました」
軽く相談してしまったものだから、乾先生に顛末を話す義務がある。勿論、建前だ。単純に俺が乾先生と話したいだけ。話題は何でも良い。
「あの子だったら見えてたっておかしくないね」
「や、やめて下さいよ! 乾先生にまで脅かされたら、夜トイレに行けなくなります」
「なら、お姉さんについて来てもらったら?」
「ああ、あの馬鹿はここ一週間程帰ってませんよ。まったく、いい歳扱いて何やってんだか……」
そんなたわいも無い会話で、緩やかな時間が過ぎていく。
今は三時限目の途中だ。保健室の中は乾先生と俺の二人きり。邪魔する奴は居ない。しかし、それは授業時間中に限った事ではない。この学校の保健室は、大抵が暇である。
普通、保健室は怠慢な生徒にとって昼寝をするのに格好の場だし、若くて美人の先生が居たら男子達がこぞり挙って押し掛けるものなのだが、そういう事は一切無いのだ。いや正しくは、新学年が始まって一、二週間までしか続かない。
乾先生は厳しい。「少し休んで様子を見ましょう」なんて言葉はまず口にしない。生徒の仮病は簡単に見抜けるそうである。本当に具合の悪い生徒には優しいが、そうでないと見るや冷酷なまでの対応を見せる。その現場に何度か居合わせたが、それはもう、怖い。毅然と突っぱねられた生徒は、もう二度と軽い気持ちで保健室を利用しようとは思わなくなるのだ。何も知らない新一年生は美人と知って飛び付くのだが、早々に痛い目を見る。
だから男子生徒連中の乾先生に対する評価は高くない。俺の感覚からすると見る目が無すぎるが、要するに思春期の男児が求めているのは『優しいお姉さん』であって、『怖いお姉さん』ではない、という事だ。
ならば、いくら授業が無いとは言っても仕事のある教師が、ただ雑談したいが為に足を運ぶなど以ての外だろう。けれど、乾先生に厳しく追い返された事は、今のところはただの一度も無い。他の誰とも違って、俺にはいつも『優しいお姉さん』だ。
俺が乾先生を好きになった理由の一つ。
「それにしても、あの子は本当に困ったちゃんねえ」
「ええ、本当に。親の顔が見てみたいですよ」
「あー……」是も否も無く、何故か濁す様な微妙な相槌を打たれる。
「何です?」
「ううん。でも、ほら、近いうちに見られるじゃない」
どうして、と尋ねそうになって、その質問は物凄く間抜けだと気付いた。教師としての資質を問われかねない。
「三者面談ですね! ええ、そうです!!」
忘れていたんじゃない。ただちょっと恩田に気を取られていただけだ。
そう、三者面談が近い。三年生はもういい加減進路を固めておかなくちゃならん。今から考えます、なんてのは遅い。だから早々に三者面談を決行するのだ。保護者の見ている前で恥などかきたくないだろうから、否が応でも進路を考える事になるだろう。そうやって尻に火を付け、宣言させてしまおうという寸法だ。ちゃんと考えている生徒には何ら問題の無い事だし、考えていない奴はそうでもしないと考えない。まあ、今の段階では道筋を立てる事が目的で、明確なものでなくても良い。
「良かったじゃない。親の顔が見られるよ」
「え、ええ、まあ……」
ただの慣用句だって事は、乾先生だって解ってるはずだ。全く、悪戯好きな人である。まあ、悪い気はこれっぽっちもしないんだが。
しかし、実際会うとなると、少し怖い。カエルの子はカエルと言うが、実際のところはオタマジャクシであって、オタマジャクシの親であるカエルは、オタマジャクシより完成された生物だ。つまりオンリョウである恩田の保護者は、恩田よりももっと邪悪……いやいや、強大なお方なのだと想像出来てしまう訳。きっと神仏レベルの。
「うう……」
「あらら。湯たんぽ出す?」
「いえ、大丈夫です」
想像しただけで胃に来るなんて、ひ弱にも程がある。もう手遅れだが、あまり乾先生に見せたくない弱みだ。
「それより乾先生」気を紛らわそうと、ちょっと違う話題に変える。「先生は恩田と知り合いなんですか?」
「え、何で?」
「恩田の事を『あの子』とか『彼女』とか、何だか親しげに呼ぶじゃないですか」
また「あー」と曖昧な返事をする。おまけに明後日の方を向いて、視線を泳がした。
「まあ、有名な子だし?」
「確かにそうですけど」この学校において、恩田を知らない事は現職の総理大臣を知らないのと同じくらいに、非常識な事なのだ。「もしや、先生もあいつの毒牙に――」
「それは無いわね」
この質問に関しては即答。目も俺の方へ戻ってくる。
「無いですか?」
「だってわたし、あの子に怨まれる理由が無いもの」
と、断言出来てしまうのは乾先生の凄い所だろう。恩田の怨みを一体どこでどう買ってしまっているか、それは誰にも解らない。大体から、恩田にとっては要素なんてどうでも良くて、何かしらの理由を見付けては呪いたいから呪っているという節さえある。愉快犯の通り魔みたいなもので。
しかし、その自信は一体どこから来るのだろう?
「やっぱり、乾先生は恩田と――」
三時限目終了のチャイムが俺の言葉を遮り、乾先生は手を打った。
「さ、無駄話はお終い。清水先生は授業でしょ? 戻った戻った」
「え、ええ……」
半ば追い出される格好で、保健室を後にする……滅多に無い事だ。
三者面談は一週間を掛けて行われる。その初日は来週月曜、つまり土日を挟んで三日後だ。昼休みに入ってすぐ近所のコンビニへ駆け込み、何とか手に入れた唐揚げ弁当の、さして美味くもない米を噛み締めながら、面談の順番を確かめる。まあそんな事をしなくても大体解っているんだが、覚悟を決める為だ。
面談は基本的に出席番号順――要するに名前の順――で、毎日六から八組、一組二十五分ペースでやっていくが、保護者の都合次第で入れ替えが発生している。このご時世だから共働きの家の方が多いくらいで、平日の夕方早く、特に月曜は「都合が合わない」が連続した。そんな訳で初日は、事前のアンケートに無回答、すなわち「いつでも大丈夫」を詰め込んである。だがトップバッターは異例、仕事が夜からなので早めに、という理由で遠山だ。そしてその次が、恩田である。
初めての三者面談、しかも初日の二人目でいきなりラスボスを迎え撃たなければならんのだ。うん、素っ気ない味のコンビニ弁当が、余計無味になる。
「ほほー、これはきつい」
いつの間にやら、横から小平先生が覗き込んでいた。
「可哀想なのはこの後の六人ですな」
「小平先生は、恩田の保護者を知ってるんですか?」
「いいえ、全く。ほれ、カエルの子はカエルって言うでしょう?」
「ええ、それは既に考察済みです」
恩田の親について、何か予備知識が欲しいな。
「恩田が二年の時って、クラスはどこでしたっけ? 担任の先生は?」
「ええっと……ああ、そうそう、田沼先生ですな」
田沼先生は物理の担当だ。多分五十代前半だが、骨と皮だけというくらい痩せていて、いつも青い顔をしている。一度理科準備室に入ったら二度と出てこない。いつか死後三日くらいしてから遺体で発見されるんじゃないかと噂される。
あの人は、発言にいちいち大量の三点リーダが付くから苦手だ。
理科準備室は未知の領域だ。中で待ち構えているのは、きっと人体模型や瓶詰めの標本……想像するだけで薄ら寒さを覚える。担当教諭でない限り、好んで足を踏み入れる者は居ないだろう。
慎重にノックして、戸を開く。
「失礼します、田沼先生はいらっしゃい――」
思わず呻き声を上げそうになった。様々な薬品の混ざり合った噎せそうな臭いが、途端に流れ出てきた。中庭に面した部屋は、放課後の傾いた日差しを取り込めず、薄暗い。
「……レポートならその辺に……」
陰気な声だけがそう告げる。
「いえ、田沼先生、清水です」
「清水……?」
乱雑に並んだ実験器具の影から、やはり陰気な顔が覗く。そこが彼の席らしい。ボサボサの髪に、頬の痩けた長い顔、無精髭、曇った眼鏡。この部屋の主、田沼先生だ。
「……ああ、清水先生だ」
「ええ、清水です」
田沼先生と言葉を交わしていると、どういう受け答えが正しいのか解らなくなる。しかし、田沼先生は笑っている様だった。