2.不思議 4/4
それは夏休みが明け、そろそろ秋の臭いがしてこようかという頃。
新任の内はと抑え込んでいた毒舌をとうとう発揮し、初めて女子生徒を泣かせてしまった。キリキリ胃が痛んだが、胃薬は持っていなかったし、こんな事で保健室の御用になるのも――まだ乾先生の事をよく知らなかったから――躊躇われ、どうにか一人になれて落ち着ける場所を探し求めた結果、辿り着いたのが教室棟の屋上だった。
腹を押さえながら、ぐったりとベンチにもたれ掛かった。放課後の太陽は少し橙色を帯びて、未だにじっくりと俺の肌をレアに焼き上げようとしてくる。汗が滲むけれど、しかし風は心地良く、胃痛は少しずつ和らいでいった。もし風通しの悪いトイレなんかに入っていたら、狭い個室は俺の体温でサウナ化し、より一層のストレスとなっただろう。
「辛えなあ、教師……」
不意にそんな事を口走っていた。俺が学生時代に抱いていた憧れなんてのは、所詮は理想でしかないのだという後悔を噛み締めて。
学生時分、偉そうで嫌な先生だと思っていた様な人は、同じ教師の立場から見てもやっぱり偉そうで嫌だ。でも、そういう嫌悪感を抱いている俺自身でさえ、生徒達から見ればやっぱり嫌な先生だったりする。八方美人ぶりが鼻に突く永井先生の人気に羨望さえ覚えてしまったりする。
俺がなりたかったのは、『良い先生』だ。ところが実際は、誰かを嫌ったり、羨んだり、子供を泣かせたり……教師以前に人間として、悪い方向に向かっている。
教師に不向きなのかも知れない。悪人になり切って堂々と振る舞うなんて出来ないし、かと言って善人にもなれない。こんな中途半端な男が、子供達の未来と関わり合いを持とうなんて、片腹痛い話じゃないか。いや、胃とは別に。
「……辞めちまおうかな」
「それは困ります」
「ぎゃあ!」
いきなりすぐ近くからした声に、思わず叫びながら跳び上がった。幽霊が出るにはまだ時間が早いが、まさに幽霊としか思えないおどろおどろしい声だったのだ。
そいつはいつの間にか俺と同じベンチに腰を据えていた。そもそも屋上にやって来た事さえ気付かなかった。
幽霊だというのはあながち間違いじゃない。何故ならこいつはオンリョウだ。俺に『神出鬼没』の意味をその存在でもって教えてくれた、恩田諒。
「先生みたいに悲鳴を上げてくれる人が減ると、寂しいですから」
迷惑な事を言う恩田は、上目遣いに俺を見ながら、片笑んでいた。早まる血流に合わせて、胃がズキズキ痛んだ。
恩田の髪は、初めて遭遇した時から切っていない様で、毛先は肩に掛かるくらいになっている。まるで呪われた日本人形だ。この世のものと思えない白い肌と夏服のブラウスは殆ど同じ色味で、日差しを照り返して、眩しくも異様な存在感を放っていた。
「お、恩田……さん、こんな所で何やってるのかな?」
「先生こそ、職場放棄ですか?」
「ば、馬ッ鹿、違うね。ただ休憩してただけだもんね! 俺はしっかりした公務員ですッ」
まあ、仕事が手の着かなくなったから職員室を離れたのは事実だが。
恩田はゆっくりと腕を上げ、俺の腹を指差した。その動作はまるで地縛霊が、自らの遺骸が埋まっている場所を指差すかの様な動き……或いは祟る対象にする様な動きだ。
「胃が痛むでしょう?」
「……ど、どうしてそれを……」
露骨に腹を押さえてたんだから、見れば解る。という正常な判断が出来ないくらい、俺はビビっていた。
「それ、私がやったんですよ」恩田は片笑みを崩さず不敵に言った。「藁人形にグサッと」
「そんなまさか。これは体質的なモンであって……」
いや、本当にそうなのか? 恩田が呪いを趣味にしているのは知っている。もし恩田がその気になって俺に呪いを掛けているんだとしたら、体質から来るストレス性胃炎か呪いの効果かなんて、区別出来るのか。ひょっとすると、これは胃炎じゃなく、癌とかの命に関わる病の兆候なのか……
そう考えると急に恐ろしくなった。まさかとは思う。でも、俺はこの目の前の小娘に呪い殺されるかも知れない。
「まあ、嘘ですけど」
「嘘かよ!」
「でも、先生」
笑うのをやめて、またゆっくり腕を下ろした。
「無理はダメですよ」
「……へ?」
急にそんな事を言われるものだから、魂消る。魂消たのも束の間、
「先生の必死な姿を見ていると、つい呪いたくなっちゃいますから」
などと物騒な事を言ってベンチから降りると、去っていった。
一体何しに来たんだ、あいつは。
ガラス戸の向こうに恩田の姿が見える。この屋上を真っ直ぐ目指したのは単なる直感だ。何となく、去年の出来事を思い出して来てみたら、というところ。
三年生の教室のある一階から屋上まで、全速力で駆け上がった所為で荒れた呼吸を整えてから、出入り口を開いた。強い風が吹き込んで押し返されそうになりながらも、ぐっと踏み出す。
俺がやって来たのには気付いたと思う。だが恩田はベンチに座って、無惨に皺だらけになった紙切れにただじっと目を落としていた。
「恩田……俺は謝りに来たんじゃないぞ」
何を言って良いのか解らなかった。だからって黙っている訳にもいかない。だから俺は、思うままを口にする事にしたのだ。
「寧ろ俺が謝って欲しいくらいだ。勝手に呪われて、その上名前を間違えられてんだから」
「……そうですね、ごめんなさい」
恩田は素直に謝る。その姿は妙にしおらしくて、らしくない。
らしくないと言えば、今日は恩田らしくない格好ばかり見ている。いや、俺が固定観念に囚われているだけだろうか。恩田の見方を、一度白紙に戻す必要があるかも知れない。
「隣に座るぞ」
答えは無いが、ベンチに腰を下ろす。それは奇しくも一年前の夏と同じベンチと並び。あの日と違うのは、未だに冷たさの残る風と、恩田の髪の長さ、泣きっ面だ。そして俺の気分の落ち着き、だろうか。
「どうして呪いなんだ?」
恩田をオンリョウでなく、恋もすれば泣きもする普通の女子生徒だと見れば、それは当然の疑問だ。初めから期待してはなかったが、恩田は何も言わない。
前提を変えて考え直せば、普通の女の子らしいナイーブな理由があるのだろうか。例えばインターネットの日記に不平不満を書き綴るのと、同じ様な心理なのじゃないか。
「もう良いじゃねえか……いや、やめろとは言わねえよ。ただ、お前の得にはならないだろ」
これは言うべきなのか否か、迷ったけれど、俺は破れかぶれ口にする。
「そんなんじゃお前、永井先生にだって……」
恩田の顔が跳ね上がる。俺に向けられる目はまだ赤かったが、怪訝そうなものだった。「何で永井先生が出てくるんですか?」
「え、いや、おま……お前が、永井先生を、ス……スキみたいだから……」
「ハァ?!」
聞いた事も無い甲高い声に、思わず跳び上がる。
「どうして私が、あんな軽薄さの権化みたいな人を好きになるんですか」
「は……?!」
何だ、それ。
「だ、だって、お前――!!」
あんなに良い顔して、歌ったり、話し掛けたりしていたじゃないか。そう言い掛けて、凍り付いた。
そこに恩田の目があったからだ。冷ややかで、見透かす様な目。いつも通りの目で、恩田に見詰められていた。
「先生って、馬鹿なんですか?」
「ば……?!」
教師を平気で馬鹿呼ばわりするのも、普段の恩田なら何も不思議ではない。
そう、恩田が戻ってきたのだ。急に、不意に、いきなり、唐突に。
「何を勘違いしてるんですか。あの人には、自分が特別だと思い上がらせておきたいだけですよ。もしあの人が女子に手を出したらその時は、有頂天からどん底まで叩き落としてやろうかと」
ニヤリと笑う。そしてあの力尽くでまで取り返した紙切れを破り捨てる。呪いの紙の半分が、紙吹雪となって風に流されていった。
ああ、やっぱりこいつは……オンリョウだ。
恩田は軽やかに――浮遊するかの如き不自然なまでの滑らかな動作で――ベンチから飛び降りた。
「まさか、清水先生も『俺ばかり呪いを掛けられて特別』とか何とか思ってます?」
「は……はは、そんな訳あるめえ! てやんでい、バーローめ」
今度は江戸っ子になる、言語の安定しない俺。これも、恩田の前での俺としては、やはり普通なのだ。
何故だろう? 実に奇妙な事だが、言い知れない安堵感がある。俺の心配が杞憂に終わった事、単なる思い過ごしだった事が、妙に嬉しい。
「そうでしょうね。それより、先生」
「何だろうかッ」
恩田はふと、俺の横、ベンチの無い所を指差して言う。
「その子がさっきから、座れないって泣いてます」
ギョッと指差された方を見るが、当然この屋上には俺と恩田の他に誰も居ない。いや、居るのだろうか。俺には見えないだけで――
空恐ろしくなって視線を戻すと、恩田はもうそこに居ない。もう戸口に立っていて、俺を嘲っていた。
「バーカ」