2.不思議 3/4
「これ、どうするの?」
「恩田に返しますよ」
ついでに、いつまでもこんな事を続けるのはやめろと、説教を垂れてやるつもりだ。他にも言う事があるし。何より、恩田の呪いに一喜一憂するのは馬鹿馬鹿しくなってしまった。とことん突き放してやろうという気さえする。
「そっと処分するのが一番だと思うけど」
呪いの手紙を返してくれながら、乾先生は苦笑いで言った。無かった事にしておくのが得策という判断だろうけれど、俺はそうは思わない。
「俺は担任ですから、生徒の事には責任があります。いい加減あいつを止めてやらないと。呪いなんてモンにハマってたら恋もまともに……」
しまった。
「え?」
「い、いや、あいつも女子なんだから、女子らしい恋愛だって、ねえ? す、するべきだと思いませんか、乾先生!!」
我ながら苦しい誤魔化しだ。乾先生を困惑させてしまった。俺は逃げる様に立ち上がる。
「そ、そろそろ戻ります! 昼休みも終わりそうですし……」
では、と早足に戸口へ向かった所で、呼び止められる。
「あ、清水先生、湯たんぽは置いて行ってね」
これはついうっかり、ラグビーボールよろしく脇に抱えたままだった。
……こんな調子だから、俺の恋はちっとも発展しないのだ。
それから二時間後。放課のホームルームを終えて、壇上から恩田を呼び付ける。ホバリングしているんじゃないかと疑う程揺れの無い、幽霊そっくりな歩調でこちらへ向かってくる。肩越しに遠山が俺を睨んでいた。
「俺の名前を言ってみろ」
胸に七つの傷は無いが、傍まで来た恩田にそう尋ねる。藪から棒に何だという冷たい目で見られたけれど、構わず黒板に書き付けていく。
「清水寺の『清』に、清水寺の『水』」
大学時代、ひょんな事から参加する事になった合コンで、そっくりそのまま自己紹介した事がある。ウケを狙ったのではなく、緊張のあまりうっかり言ってしまっただけの話。あの子達の目には、恐ろしく頭の悪いヤンキー上がりとしか写らなかっただろう。
「それくらい知ってます。国語の成績に何か問題でも?」
「いいや。有り難い事に毎度のテストで百点満点を叩き出すお前に、国語の先生として心配する事は何一つとて無い。担任としてなら山程あるが」
さて、とチョークを置く。
「問題はこの後だな。解るか、恩田」
俺の挑戦的な口振りにムッとした様子――と言っても顔付きは一切変わらないのだが、何となくそんな雰囲気――で、頷くでもなく進み出てくると、チョークを取って書き加えていく。
のび太の『太』に、漢数字の『一』。恩田はやたらに達筆だ。書道でも習っていたのか、止め跳ね払いをしっかり書き分けられている。呪いの札を書いて上達したのかも……そう想像すると胃が痛くなる思いだが、この時ばかりは体も反応しない。
「……だから何ですか?」
何か問題でも、と視線が言う。いいや、それが大問題なのだ。
「良いか、恩田」
赤いチョークを手に取り、堂々と書かれた『一』にペケを上書きする。
「タイチはタイチでも、俺は……」右に書き直したのは、全盲の剣士の、人口の多い自治体を指す、織田信長の妹の名でもある、『市』だ。
「俺の名前はこう! 『清水太市』だッ」
ぽかん。恩田のぽかんとする顔は、イリオモテヤマネコ以上に、そうそうお目に掛かれるものではないだろう。その珍しさたるや、天然記念物を越えてツチノコ並。
恩田が間違えたのも無理は無い。俺の名前が勘違いをされる頻度は、顔にされるのに次いで多いのだ。未だに校内の配布物で『太一』と誤植される事もままある。そもそも、教卓に貼られた席順早見表の左上、担任教師の欄までそうなのだから、最早改名を迫られている様な勢いである。
「同じ間違い、この筆致……証拠になるな」
ポケットから、件の名前違いが書き連ねられた紙を取り出し、恩田に突き付ける。
「それ……」
「こんなものを落っことすんじゃないぞ。と言うか、こんな根本的な間違いをしてだな、呪いが通じると思――」
喋っている途中、恩田の両手が紙切れをがっしりと掴んだ。この瞬間知った事だが、恩田は腕力が弱い。恐らく握力も。俺だってそんなに思い切りルーズリーフ紙を掴んでいた訳ではなく、寧ろ抓む様にして持っていたはずなのだが、恩田は恩田なりに思い切り引いているらしく、ぴんと伸びた恩田の腕はふるふる震えた。
「返して下さい」
「い、いや待て恩田、俺の話はまだ終了してないぜ?」
「返して下さい!」
必死な恩田というのもまたおかしなものだ。まるで釣りだな。このまま力一杯持ち上げたなら、回遊魚みたいに半回転して俺の後ろへ吹っ飛ぶかも知れない。恩田の一本釣り。
「ちょ、恩田ッ」
体を後ろに傾けて、とうとう体重を使い始める恩田。それにしたって見た目通りに軽量らしく、俺の腕一本はびくともしない。
どうしてそんなに慌てる必要がある? 何を焦ってるんだ? 取り乱して、力を入れすぎている所為か顔が赤い。耳まで真っ赤だ。前髪から覗く目は見開かれているが、不思議と恐ろしくない。
「返してって……」
紙一枚で懸垂でも始めるのかというくらいに引っ張られる。俺も意地になって、返すまいと引き戻す方に力を加えていく。
きっとそれがいけなかった。
「言ってる――!」
より一層力が込められた刹那、ビリッと音を立てて、呪いの紙は二分された。同時に、自分の腕力に引っ張られた様に、恩田は尻餅を突く。
「……の?」
破れて、くしゃくしゃになったルーズリーフの片割れを握り締めたまま、途切れた言葉の続きを呆然と呟いた。それは俺も同じだが、ただ少し違うのは、思わず「ノー!」と叫んでいた事だ。
ゆっくりと視線を手元に移して、恩田は口をぱくぱくと動かす。
頭の中が真っ白だ。ど、どうしたら良いんだ、この状況は!
「ご……ごめん」
短絡した俺の脳回路は、そんな言葉を選んでいた。
いやいやいや、待て待て待て。俺は何も悪くないだろう。悪くないよね。悪いはずが無いじゃない。
紙切れと同じ程、恩田の顔が皺くちゃになる。ああ、こういう顔も初めて見る。たぶんこれが、恩田の泣き顔だ。
恩田が……泣いた?
「お、恩田、その……」
女子生徒を泣かせた回数は数え切れないが、恩田まで泣かす事になるなんて、考えてもみなかった。
これは、相当まずい事態だ。相手はあの恩田だ。後々何をされるか解ったものじゃない。
それにしても、何故泣いた? 口汚く罵ったのではないし、それくらいで泣く奴とも思えない。丹精込めて――込められるだけ迷惑だが――書き上げた呪いの文書が破れたのが悲しいのか、それとも強か打った尻が痛いのか。どちらも違う気がするけど……
俄然、恩田が立ち上がる。その目はもう俺を見ていなかった。下唇を噛み締めて、鼻息に合わせて小さく唸り声を出す。
そして教室を飛び出していった。
「お、恩田――!」
「なにやってんスか!!」
遠山の怒鳴り声がする。
「わ、解んねえよッ」全然解らない。「何なんだよあいつは! 俺が何か悪い事したのか? 全部身から出た錆じゃねえか。俺は悪くねえ、悪くねえからな!!」
何だ、俺。これじゃまるで餓鬼じゃないか。矮小だ。ずるい。
遠山がズンズン歩み寄ってくる。間近に迫ったレンズ越しの目は、明らかに激怒していた。今にも平手打ちが飛んできそうだ。左頬の衝撃を覚悟したが、何も無く、代わりに遠山が低く言った。
「最低ッスよ」
「お、俺は……」
最低なんだろうか。確かに言い訳は俺も嫌いだし、卑しい行いだと思う。でも、恩田に泣かれた事に関しては何一つ解らない。
無意識に人を傷付けるのは、誰にだってある事だ。特に俺はその頻度が高い。だから、もしかすると、今の一連の行為の中に恩田を傷付けるものがあったのかも知れない。だったら……だったら教えてくれないだろうか。
「俺は、あいつに何をしたんだ?」
遠山の顔付きが憤怒から一点、びっくりした表情になる。「本当に何も解ってないのか」とでも言いたげな顔だ。
暫くの沈黙。右手の中で、破れた紙片がくしゃりと音を立てた。それが合図だったかの様に、遠山が言う。
「……追い掛けて下さい」
「は? い、いやあ、俺が行ったんじゃ――」
「追い掛けて下さい!」
目と鼻の先で大声を上げられて、思わず足が竦んだ。