2.不思議 1/4
起立、礼、着席。クラスでの挨拶と言えば、昔から決まってこれだ。しかして、今現代となっては慣例的に行われているのに過ぎないのであって、その意義は失われ、形骸化している。
とは言え、この学校は荒んでいない。寧ろ極めて平和な学校に数えられるだろう。だから、不良生徒達を相手にヤンキーから逆ドロップした――顔だけならそういう設定も適当な――先生が熱い指導を加えていく青春譚ではないのだ。
たった一人の超が付くほど特殊な問題児に対して、俺という臆病なへなちょこ新米教師が、退け腰かつ慎重、それでいて腫れ物に触るかの様な扱いでもって、何とかならないかしらという期待を抱きながら接していく、ドタバタ学園コメディー大巨編である。
……と言った具合に、半日以上過ぎてもまだ現実を直視出来ない俺を他所にして、朝のホームルームは日直の元でどんどん進められていった。俺の手から出席簿が引ったくられ、無言のまま空いた席をチェックされていく。
「先生いらねえな」
俺も直視出来ないなりに、歪曲した視線でどうにか見ている。呟いた言葉に日直が挨拶で応えた。
「清水先生、おはようございまぁす」
続いてクラス全員で一斉に「おはようございます」。みんな慣れたものだ。
俺が恩田の所為で放心状態に陥るのは、クラスの生徒達からしても珍しい事じゃない。呪い存在を肯定してしまって以来、恩田はどうも俺に呪いを掛けるのを楽しんでいる節がある。こっくりさんを一人でやってる分にはまだ可愛いものだが、迷惑な趣味が増えてしまった感じだ。
連絡事項は特に無い……と思うから、取り敢えず蘇りつつある胃痛を抑えるべく、ホームルームを終わらせてしまおうと思った時だった。
「おっはようござまっす!」
勢い良く戸を開く音と共に、独特なリズムで朝の挨拶をする、甲高い声がした。
遠山まりあ。当然俺のクラスの生徒なんだが、大部分を黒縁眼鏡で隠された顔とその名前とを一致させるのに、暫く時間が要った。
「お、おお、もう良いのか遠山」
「もうバッチリですよ。現在進行形でバッチリング」
『ビシッ』という漫画的なオノマトペが相応しく、親指を立ててみせる。
四月の下旬、新学年の新学期が始まって早々に、遠山はインフルエンザをやらかしてしまい、十日も出席停止になっていた。明るく元気なのが印象的な女子だが、その顔を見ない十日間――特に昨日――が誰かのお陰様で濃厚すぎた所為もあって、想起の優先順位が随分と後になってしまっていた。
恩田とは真逆のベクトルで、生徒達のムードメーカーである。長い間空席になっていた彼女の席に向かう間、歓迎の声が男女問わず上がった。それらに対していちいち手を振ったりピースサインで応えていた遠山だが、席に着く間際、鞄を下ろしてから、離れた席、教室の隅の方へ振り返って、
「おはよっす!」
と、またあの『ビシッ』を繰り出した。その相手というのが、驚いた事に恩田なのだ。そして更に驚くべき事に、声は出さないが、恩田も机の縁から小さく親指を突き出した。
二人は仲が良いのか。と言うより、恩田に友達が居たのか!
『ガーン』だ。遠山のが伝染したんだが、兎に角『ガーン』としか言いようが無い。要するにショックだ、意外だ、驚愕だ。目が覚まされる。
恩田のあの性格と趣向でよく友達が出来たものだと思えば、遠山のあの性格でよく恩田に近付いたなとも思う。ギャップがありすぎるだろう。言わば陽と陰、光と影、正と負、生と死、表と裏……完全に真逆のキャラクター同士だと思うのだ。
世の中には解らない事もあるな。
そうだ。世の中には理解不能な事が多い。それを再び感じるのは、また今日の出来事だ。
「おや、清水センセ。行かなくて良いんですか?」
三時限目が終わり、どこの授業も入ってない四時限目をのんびり過ごそうかとしていた頃、小平先生が言った。
「は? どこにですか?」
「ああ、聞いてませんでしたか、そうですか。ほれ、職員会議で永井先生が言ってたじゃないですか。『そろそろ一ヶ月なので、担任の先生はお暇な時間に授業参観でもいかがですか』って」
放心状態だったから脳に引っ掛かる事もなく聞き流していた。
「そちらのクラスは四限目に音楽でしょう」
「ああ、そう言えば……」
当のクラス担任である俺でさえ『そう言えば』程度にしか憶えていないのに、しっかり把握している小平先生には全く恐れ入る。
それは置いておくとして、音楽の授業を覗くのはあまり気乗りしなかった。音楽は嫌いじゃないし、寧ろ好きな部類だが、担当の永井先生がどうにも気に食わないのだ。人の嫌なところばかり見るのは人間として劣った行いだ。けれど彼に関しては、どうもいかん。
キザだ。どこまでもキザ。止め処なくキザ。値段の張りそうな細身の洒落たスーツを着て、教師にしてはちょっと長すぎる髪に、優男然とした風貌。俗に言ういわゆるイケメンで、女子に人気がある。良いとこの坊ちゃんなのか何なのか、外国製スポーツカーで通勤してくる。安物のスーツに三白眼、電車通勤の俺と同期なのが許せん。
……別にひがんでる訳じゃないんだが。
「スルー出来ませんかね」
「無理でしょうなあ。この時間はこの先生が暇、って時間割表見て確認してましたからね」
全く、自己顕示欲の強い奴だ。
仕方無い。音楽室にちらっと顔を出しに行こう。牛歩戦術で。
この高校の音楽室は防音設備があまり整っていない。校舎は築二十年。だから音楽室の前後にある二枚のドアは、ぶ厚ければ良いだろうという程度の木製で、中で何をやっているかは外からでも聞き取れる。そうやって大体の様子を掴んでから、後ろ側のドアをそっと開いて覗き込んだのだが、正直びっくりした。
ピアノの伴奏に統制された歌声が乗る。曲名は俺でも分かる、『アメイジング・グレイス』だ。混声四部合唱という奴か、男子のバスとテノール、女子のアルトとソプラノが綺麗な和音を作り出している。
何? このスペックの高さ。クラス編成からまだ一ヶ月、というのが俺の記憶違いだったかの様。決して人の輪に入らず、唯我独尊と振る舞っているあの恩田でさえ、起立しメロディーを乱す事無く合唱に加わっている。
沸々と募る嫉妬心を抑え込んでいると、曲が終わり、みんな腰を下ろす。
「うん、みんな凄く良いね」
永井先生がにこやかに言う。
「遠山さん、快復おめでとう。ただ声のボリュームはもう少し落として平気だよ」
「たは。ゴメス!」
コツンと自ら頭を叩くと、音楽室が笑い声で溢れ、和やかになった。
何? この超良いクラス。俺の授業だとみんな死んだ目――または眠い目――をしてるのに。
もう帰ろう。そう思って首を引っ込めた時だ。
「みんな、清水先生が見に来てくれたよ」
気付かれていた様で、永井先生のその声に合わせて、クラス全員の顔が一斉に振り向いた。痛い程の視線と一緒に「えー」とか「きゃー」とか、悲鳴がどっと押し寄せてくる。「いつから居たんですかあ」なんて言って恥ずかしげにもじもじしたのは、いつか俺の授業中、目薬を差すのに白目を剥いていた女子だ。女子に対しては不適当だが、「この野郎!」と思った。
「い、いやあ、結構綺麗だったんで邪魔したくなくって」
笑い、頭を掻きながら全身を見せる。俺は今、凄く格好悪い。
「このクラスは本当に良いですよ。これだけクリアな低音出せる男子はそうそう無くて」
その発言に、男子連中まで照れる。こいつ……男子に嫌われるタイプかと思っていたのに、上手く飼い慣らしていやがる。裏切られた気分だ。
「女子も無理なく高音出せる子が多いですし」
勿論女子への配慮も欠かさない。この男は俺の生徒達を一体どうしようってんだ。
これだけなら、まあキザな男の甘い一言で済んだだろう。だが、恐るべきは付け加えた一言だ。
「特に恩田さんは、一音一音がはっきりしていて良いですね」
おい、おいおい。恩田に話を振るなんて、どういうつもりだ。それは自殺行為だぞ。褒めたって貶したって、恩田の興味を惹いて良い事なんて何一つ――
見遣った恩田は、俯いていた。こういう時、恩田は相手の目を真っ直ぐ見返しているはずだ。だのに視線を机の上に落として、揃えた膝に両手を乗せ、人差し指の先をむず痒そうにしている。
ブルータス、お前もか。いや寧ろ、そこに居るお前は本当に恩田なのか?
永井先生の手を打つ音で我に返った。
「それじゃあ、清水先生の為にもう一曲歌いましょうか。今度はポップスにしよう、『チェリー』」
掛け声に合わせて全員が席を立つ。恩田も例外ではない。
ピアノに合わせて全員が口を開く。恩田も例外ではない。
ちょっと怠惰でいて明るい調子のメロディーを、恩田が口にしている。その歌声は、周りに埋もれているから聞こえないのか、俺が知らない声を出しているから判別できないのか。ただ斜め後ろから、恩田の顎が上下するのを呆然と眺めていた。
曲が終わり、時間を計ったかの様にちょうどぴったりチャイムが鳴る。挨拶をしない決まりなのか、永井先生が「はい、お疲れ様」とたった一言言って、生徒達が散っていった。いや、本当に散ったのは男子ばかりだ。女子の殆どについては、一度席を離れて永井先生の居るグランドピアノに群がった。その輪から少し離れた所に、恩田も居る。
取り留めも無い言葉で騒がしい中、恩田も何か言ったのか、
「うん、またね、恩田さん」
という永井先生の返事だけが聞こえた。