1.オンリョウ 3/4
ざわ、と教室中に動揺が走った。それは声に出したものでなく、一斉に息を呑む音だ。唐突で意図の読めない質問に、面食らった俺は聞き返す。
「呪いって言うと、呪詛の事か?」
俺は国語の教師だ。ひょっとするとこれは高度な質問なのかも知れない。
「ええ、そうですね。それも含めた呪いです」
探る様な恩田の目を眺めながら、ちょっと考えて答える。
「……信じるとか信じないとか、そういうものではないだろうな」
俺は確かにそう言った。翌々考えると、恩田の意外そうな顔を見たのは、これが最初で最後だ。
「と言うと?」
「お化けだったら、見えると言う人と見えないと言う人が居る。見えない人にとっては、見えないものをいくら見えると言われたって信じようが無い。だから俺は幽霊や怪談の類は信じないし、UFOだのUMAだのも同じく信じないんだが、呪いとなると話は別だろうな」
ここからは質問への回答と言うより、俺の主義主張になった。
「言葉には力があると俺は思う。心を見る事は出来ないから、心を伝える為にある言葉には、相手の心に影響する力がある。『嫌いだ』とか『死ね』とかいう言葉だって、簡単だが人の心を傷付けてしまう。逆に、『好きだ』とか『大丈夫』とか、そういう言葉は人を励ましたり癒したり、元気にする。言葉は、善くも悪くも心を動かす力を秘めてるんだ。病は気からとも言うし、気分が落ち込めば病気にだってなる。凹んでると失敗も増えるし、事故を起こして怪我をしてしまうかも知れない」
俺の言葉がどれだけ人を傷付けたか解らない。誤解でも、そうでなくても、変わらない。逆に、小さい頃から言われたイジメの文句も、未だに俺の心に深く刻み付いている。たまにそういう言葉の数々が足枷になる。
「呪いってのは、言葉の力の事を言うんじゃないか? 例えば、みんなもよく知ってるゲームの呪文は、唱える事でその効果を発揮するだろう? 意味のある言葉は、どんなものだってある種の呪いだ。人を悲しませたり、怒らせたり……嬉しくさせたり楽しくさせたり、善い事も悪い事も、呪いの類じゃないか。呪いは信じようと信じまいと、『ある』ものだ――と、俺は思う」
聞いた恩田は片側の頬を引き攣らせる。それが笑みだと解ったのは、また後々の事だ。
「ありがとうございます、先生」
「俺が呪いはあるなんて認めなければ、恩田も今よりはマシだったかも知れません」
「清水先生が後悔したって仕方無いでしょう。あの子が人を呪うのはその頃から始まった事じゃないもの」
それはまあ、そうだろう。でも俺が認可を下してしまった様で、要するに癪なのだ。
「少し心配もあるんですよ。人を呪わば穴二つって言うでしょう?」
「そうねえ。ま、その心配には及ばないかもね。彼女の事だから」
「恩田ですからね」
笑うと、その恩田に深く抉られた心が痛んだ。
恩田の呪いは人を傷付けるものだ。人に恨みを買う理由になる。しかし今度の事ばかりは、恩田を責める事は出来ないだろう。あいつの呪い、遠回しな指摘は正しくて、俺が悪いのだから。
杉浦先生とどう違う……か。俺があのろくでもない先生を心底軽蔑している分、重たい問いだ。
六時限目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
「よし!」
頬を叩いてベッドから脚を放り出す。
「すみません。お手数掛けました」
「どうせ暇だったから良いのよ。お話出来て楽しかったわ、清水先生」
そう微笑みかけてくれるが、俺はヘラヘラしている場合じゃない。気合い一発、校内履きスニーカーの紐を結び直し、すっくと立ち上がる。
俺は、杉浦先生とは違うのだ。それははっきりさせなくちゃならない。
俺が倒れた事は、生徒達にまで広まっていなかった。ただ恩田だけが、全てを知っているかの様な目で俺を見てくる。俺はそれを極力無視しながら、ホームルームを終わらせる。
わっと解放される生徒達より早く、教室を後にした。向かう先は一年生の教室だ。ちょうどそちらもホームルームを終えて、生徒達がわらわらと騒がしく出てくるところだった。戸口から覗き込むと、あの女子とすぐに目が合う。くしゃっと顔を歪めて、苦しげにレポート用紙を広げた。
粗方の生徒が出て行ったのを見計らって、教室に入る。
「ほらほら、用のねえ奴はいつまでも残ってんな」
その一言で残った生徒達も散っていく。怖い先生だと思われてるのが、この時に限っては寧ろ有り難かった。
件の女子生徒は、俺の存在を意識から抹消したいのか、黙々と教科書を睨みながら辞書を捲っている。その正面の席に腰を下ろした。近くで見ると、呆れるほどに進んでいない。一つの単語につき一、二行だが、まだレポート用紙の半分にも満たない。
「時間掛かりそうだな、おい」
ついついそんな事を口に出すと、「すみません」と隙間風程度の弱々しい声が返ってきた。
五月に入って間も無い今日この頃、太陽が傾くのが早い。四時を過ぎると斜陽が眩しくなり、徐々に赤みを帯びてくる。のんびりした時間だけがただ過ぎていった。特に仕事も無いから良いかと、職員室に寄らずに来てしまったが、一旦戻った方が良いだろうか。そんな事を考えていると、横合いからちくちくと視線を感じた。
「あの……」
「何だよ。気にしないでとっとと終わらせちまえ」
言いにくそうにもじもじするが、最後は意を決した様子で言われた。
「すごく、居心地悪いです」
「はあ?!」思わず大声を上げてしまう。無理も無いだろう。「お前、付きっきりなんて特別待遇だぞ。有り難く思えよ。いや思ってくれ」
「はぁ……」
「感謝ゼロだな、おい」
頭を掻き毟ってみせるが、別に構わない。それより、
「全然進んでないな」
「……すみません」
「無理に解らない語を探す事はないぞ。誰でも知ってる様な単語でもカウントしてやる。授業用のメモみたいなモンだからな。と言ってもその授業は二日前に終わったが」
その為の期限だった訳だ。また「すみません」などと言うから、「謝るくらいなら手を動かせい」とせっついてやった。
しかしその後は助言が役だった様で、すらすらと進んだ。内容については……まあ問うまい。期限を守った奴だって、中にはもっと酷いのが居た。今更ながら課題の説明をすると、教科書掲載の芥川龍之介『羅生門』から単語をピックアップして意味を調べて来い、というものだが、目も当てられないのになると、『仏像』『仏具』『打ち砕く』とかとか、出会い頭の辻斬りの如くに、それは調べんでも良いだろうというものまでも書き並べていたりする。その点、この生徒は『仏像』は言わずもがなと避けていたし、字も丁寧で見やすい。たぶん勉強はやれば出来る子なのだと思うと、悔しくもあり申し訳無くもあった。
「出来ました!」
白紙の目立っていたレポート用紙が黒に埋まり、今まで暗い顔で取り組んでいた生徒の顔が少しだけ華やいだのは、もう六時になろうかという頃だった。
「おっし、受け取った」
「先生、どうもすみませんでした」
「謝ってばっかりだなお前は。こういう場合は『ありがとうございました』だろ」
「はい」と応えるが、その表情には未だ暗い影が落ちている。その正体は杉浦先生なのは明白だった。腕時計を見ながら尋ねた。
「まだ部活の練習やってる時間だろ?」
「え? ええ、まあ……」
途端に、再びどんよりとした陰鬱な顔付きに戻る。あの先生が生徒達にとってどれだけの脅威であるか再認識してしまうな。だとしても、俺にはそこから解放してやる事が出来ない。それだけの力が無いのは解っている。なら、非力なりにする事をしなくちゃいけない。
「よし、行くべか」
「えぇ?!」
うん、良い反応だ。
「実は俺、まだ杉浦先生に事情話してないんだわ」
バレー部の練習は基本的に体育館内で行われる。特に実績の無い部活なのに屋内の好環境を独占しているのもまた、杉浦先生の影響力が故だろう。そしてその杉浦先生がパイプ椅子にどっかりと座り込み、腕組みをして部員の練習に睨みを利かせている横顔を、入り口からそっと覗き込んで確認した。
覚悟を決めろ、県立高校国語教諭、清水・二十五歳!
「行くぞ」
すっかり萎縮してしまった女子を励ます。正直、俺も膝が震えてるけれど。
体育館内にずんずん踏み込んでいく。俺の背に隠れる様にしてだが、怯えた生徒もちゃんと付いて来てくれた。早々に気付いた杉浦先生は、首だけこちらに向けて待ち構えている。傍まで近付いても口を開く事は無い。ただ感じ悪く「何の用だ」という目をしている。
「あ、あー、杉浦先生……」
未だ後ろに立つ件の女子を横に立たせた。すると杉浦先生は体を遠ざかる方へ傾けて、その視界一杯に長身の女子を収める。普通に見上げれば良いだろう、とはとてもじゃないが言えない。冷静に考えればひたすら偉そうなだけのその所作も、その圧力下にある人間には恐ろしいもので、隣の子がより一層縮こまってしまう。
ええい、何をやってる俺。やっちまえ俺。
「杉浦先生!」
決意を固めて、自ら背を押すべく声を張り上げる。勿論、喉の渇きや消え入りそうになる声を誤魔化す為じゃないんだ。断じて違う。
両脚を揃え、両腕を胴に添わせ、腰を七十五度に折る。スーツ姿のするこの姿勢は、なんと美しく見える事だろう。これが日本の伝統的礼儀作法、『謝罪』である。
「申し訳ありません、電子辞書を無くしてしまいました!」
「は、はい?」
俺の意味不明な叫び声に杉浦先生は――ついでに隣に立たせた女子も――愕然とした。