6.おやすみなさい 4/4
家に帰る頃には九時。それからしっかりした夕飯を作ったのでは、一日が終わってしまう――俺の体力がきついというのもある――から、帰りがてらスーパーに寄って、簡単に作れそうなものを調達する事にした。カップ麺かインスタント食品になるだろうが、まあ、誰にも文句は言わせない。
「良いんですか、先生」
「仕方無い。今日の出費は家計簿から抹消しておくさ」
「金銭的な意味じゃなくて……私は制服ですし、先生はスーツですし……」
「ああ、その事か」恩田の方が気にするなんて意外だが、すまない事をしたという自覚があるからだろう。「平気だろ。この辺じゃ学校の誰かに見られる事なんかまず無いだろうし、それにな……」
「それに?」
「俺若いから、兄貴か何かに見えんだろ」
「……父親の間違いでは?」
冗談に皮肉で返しながらも、恩田は少し楽しそうだった。
さて……口ではケチらないと言ったものの、実際買い物をするとなると、どうしても安いものに目が行く。カップ麺の棚を見ているのだが、どうも六十八円の「わかめラーメン」とやらが気になって仕方ない。見た事も無い会社の商品だし、パッケージからして食欲をそそられない。どう考えても不味そうだ。不味そうなのだが、カップ麺で選ぶとしたらこれを選ぶだろう自分が居る。しかし、絶対に後悔する。けれどきっと、奮発して美味そうなのを選んだ場合には、会計で財布を開いて後悔する。さあ、どうする?!
どうもしない事にした。何も無理してカップ麺を買わなくとも良いのだ。ちょっと手間は増えるが、レトルト食品ならば安くて美味いものは沢山ある。
沢山、と言えば、
「恩田、一つ聞きたいんだが、猫に餌やるくらいでどうしてこんなに遅くなったんだ? 学校から直行だろ?」
いくら猫が多くとも、別に一匹ずつ順番に餌を与える訳じゃあるまい。ところが恩田は不思議そうな顔をした。
「一度先生の家に帰りましたけど……?」
「何ィ?!」
「帰ってから暫くして、あの子達の事を思い出したんです」
「昌はそんな事少しも言ってなかったぞ……」
確かに「帰ってない」と、奴は言った。
「まだ寝てましたから」
「あの野郎ッ!!」
あいつの責任でもあるんじゃねえか。
「でも、書き置きくらいするべきでしたね」
やけにしおらしく言う。すまないと思っているならそれで良い。深く追及してネチネチと小言を垂れるつもりは無い。ただ、
「人に迷惑を掛けるななんて、偽善的な事は言わねえけどさ、お前独りで生きてるなんて思ってくれるなよ? お前を心配する奴だって、何かあって悲しむ奴だって居るんだ。そういう奴の事は、念頭に置いてやってくれ」
あの昌でさえ心配したのだ。きっと遠山も、乾先生も、殆ど関わりの無い小平先生や、柴だって、この騒ぎを知っていたら心配しただろう。
「それは……先生もですか?」
恩田の黒々した瞳が見返していた。だが、いつもの見透かす様な目ではなく、探る様な、何かを求める様な目だった……と思ったのは、勘違いだろうか。
「まあな」
そして、騒動の一端を担っていたにも関わらず、その自覚の無い昌は、恩田の帰還を熱烈に迎えた。恩田の頭を滅茶苦茶に掻き乱したり、強くハグしたり、笑いながら肩を叩いたり、思い付く限りの事はしただろうか。こいつはただ眠りこけていただけである。傍目に感動も出来ないし、呆れてしまって責め立てる気力も湧かない。おまけに、ひとしきり終わった後の一言が、
「で、飯は?」
なのだから、もう何も言うことは無い。
テーブルの上の空き缶をごみ袋に突っ込み、流しの下で眠っていたホットプレートを取り出す。
「おお、何だか珍しいモンが」
「こいつが安かったんでな」
焼きそばの麺。「水産」と名が付く癖に、何故かカップ麺ばかり作っている謎多き某有名食品会社製。三玉パックで税込み価格二百七十五円が、なんと百九十八円という破格。「特価」のポップを見て買わない手など無かったのである。
更に、もう春も末となると売れ行きが落ちるのであろう、高野豆腐も一パック買ってある。
「何に使うんだ、これ?」
「肉の代わりだ」
肉が嫌いだと言う奴が居るのだから仕方無い。昌は嫌な顔をしたが、まあ、食った後に同じ表情はさせないつもりだ。
ざく切りキャベツがしんなりするまで炒めた後、短冊切りにして、別にフライパンで炒めておいた高野豆腐を入れる。でないと目一杯油を吸ってしまうからだ。
麺を三玉全部あけて、水を加える。ジュウ、と食欲を誘う音と湯気が立つ。
「おい、昌。適当にほぐして味付けしとけ。濃い目で良いぞ」
菜箸を渡してやる。普段手伝いなど何一つしないのだから、これくらいはやって貰おう。
「テメェは何すンだよ」
「俺はこっちに用があるんだよ」
ホットプレートを取り出したのは、昌に手伝わせようという理由もあっての事だ。焼きそばを炒めている間に、しなければいけない仕事がある。
皿に盛り付けられた焼きそばは、ソースの良い匂いと良い色合いがしている。だがまだ完成じゃない。
「ちょっと失礼、火傷するぞ」
フライパンで薄く焼いた卵を載せる。一番にそうしたのは、恩田の分だ。皿の上を見つめる恩田の目が、皿の様に丸くなる。
「これは……」
「オム焼きそばだ」
俺は「オム」の付く料理を、オムライスの他にはこれしか知らない。
別に媚を売っている訳じゃない。ただ嫌いなものを食べさせた侘びであるとか、ご馳走してやるのは今日が最後だからとか、そういう事だ。また間違えていたら、格好悪いのだが。
食えと言うと、恩田はオム焼きそばに箸を付けた。熱々の卵を切り取り、焼きそばを挟むように持ち上げ、一口含む。口から溢れた麺は、噛み切られて落ちる。俺が見守る中、咀嚼し、飲み込んだ恩田は、恐らくそれと意識を働かせる事無く、
「おいしい」
と呟いた。
成る程。きっと恩田は、昔からコンビニやスーパーで飯を調達していたのだろう。だから、好みが家庭料理じみたものでなく、また高級品でもなく、そこらで買えるものになったのだと思う。可哀想だとは思わない。俺だって一時期は、コンビニのカルビ弁当が至高のご馳走だったのだから。
何だって良いのだ。俺が作り、誰かが美味いと言う。それが何であれ、誰かが恩田であれ――いや恩田だからこそ――嬉しいという気持ちは他ならない。
飯を食って、風呂に入って、歯を磨いたらもう十一時。例え明日が土曜だろうと、子供も良い大人も寝る時間である。恩田と晶は……どうしたか知らない。俺より先に二人揃って風呂に入った後、部屋に引き籠もってしまった。最後の夜を満喫しよう、という晶の思惑だ。
俺はと言えば、開放感で胸がいっぱいだ。妙な言い回しだが、まさにそういう気持ち。世話を焼かせるのは晶だけで十分だ。あいつだって中身は餓鬼なんだ、子供を二人も抱え込むのは大変である。
明日になったら、恩田を家まで送り届けてやって、お終いだ。乾先生の急なお願いを見事無事完了。これは俺の株価急上昇間違い無し。良い夢が見られそうだ!
などという淡い期待、及び妄想を膨らませすぎて興奮してしまったのか、ベッドに寝転がってもなかなか寝付けない。部屋は真っ暗で、適温、騒音も無い。これ程良好な環境なら、ほんの数分で夢の中だと言うのに、全く眠気が来ないのだ。一度開けてしまった瞼はパッチリとしている。色々あって疲れているから、眠れなければおかしいのだが。
眠れない時は取り敢えず姿勢を変えるのが良い。寝返りを打とう……としたが、どういう訳か、体が全く動かない。まるで脳と体が分離してしまったかの様に、指先さえピクリとも動かせなくなっていた。
人生初めての金縛り、だと思う。壁の方を向いたまま、身動き一つ取れない。これはまずい、まずいと思う、まずいんじゃないかな、ちょっと覚悟は出来ていない。
呪いにビクついていたら、これだ。これは祟りじゃないか。しかし祟られる理由なんて無い。この部屋に何かしらの曰くなど無いはずだ、と言うか、聞いてない。何かあるなら入居前に教えてくれよ、不動産屋さんもしくは大屋さん。
人の気配がした。と言うより、ドアの開く音がした。ゆっくりと、蝶番の軋む音がする。俺は背中を向けたまま、振り返る事も出来ない。
息が詰まる。体中をねっとりした脂汗が覆う。胸を激しく叩く様に、心臓が震えだす。鼓膜が、文字通り太鼓の膜みたいに、どん、どんと鳴り響く。夢であってくれ、早く目覚めてくれ、そう願いながらまぶたを閉ざすしかなかった。
これ程手も足も動かないのに、何故感覚は生きているのだろう。部屋に侵入してきたそいつが、タオルケットの中に腕を滑り込ませて来る。
小さい頃は、漠然とした恐怖を感じた時、布団を頭からすっぽりと被って、手足さえ出さなければ大丈夫だと思っていた。
けれど、今俺に忍び寄るこいつは、それさえ許してくれない。
もう、『それ』は体全部を滑り込ませていた。俺の背中にぴたりと張り付いている。ティーシャツの袖から出た生身の二の腕に、死人の指先の様にひやりとしたものが触れて、ヒッと息を飲んだ後、まるきり呼吸が出来なくなった。
耳元にそよ風を感じる。これは吐息だろうか。
駄目だ、気が遠くなってゆく。世界が九十度傾いて、頭から奈落の底に落ちていきそうだ。だが、それはそれで、助かる。恐怖が長引くよりは、ずっと良い。
ベッドが垂直に起き上がった。真っ逆様に意識が落下する――
その瞬間、遥か遠く、声が聞こえた。
ここのところよく、いや、ひどく聞き慣れた声だ。
「お世話になりました、おやすみなさい」
恩田、そういうことは……普通に言うべきだ!!