6.おやすみなさい 3/4
くたくただ。朝から走った上に、作った回答用紙にダメ出しを食らって残業なのだから、肉体的に堪える。まあ、ほぼ自業自得ではあるが。しかも、家に帰れば恩田が居るというのだから、思い出すだけで気が滅入る。
帰宅したのは午後八時過ぎ、とっぷりと日が暮れてからだ。
「あァ? 何だ、テメェか……」
迎えるでもなくそう言った昌は、いつも通りダイニングに居たが、今日はどういう訳か酒を飲んでいる様子が無い。
「こっちは疲れてんのに随分じゃねえか」
「それはどうでも良いんだけどよォ……」
いつに無く反応が弱い。
「確かにどうでも良いな。で、恩田は? 風呂か?」
この二日、恩田はここに居座っていたはずだ。居間の方にも姿は見えない。テレビを見ている様など想像も付かないが。
俺の問い掛けに、昌は口をへの時に曲げ、「フゥン」と深い息を鼻から噴き出した。
「まだ帰ってねェみたいだ」
「は?! 一体今何時だと思ってんだ」
「オレに訊くなよ」
「訊いてねえよ、おかしいって言ってんだよ」
テスト前で運動部も活動していないものだから、閉門時間が早い。それでなくとも、学校から家まで一時間と掛からないのだから、帰りがこれほど遅くなるのはあり得ないのだ。
昌は品行方正な部類ではなく、高校時代に夜通し遊んできた事もままあったが、それが普通だと思い込んでいる程馬鹿じゃない。それに、恩田だ。あいつが夜遊びなんて考えられない。
「――勘弁してくれ」
何かあったんじゃないか、という不安が脳裏を過った。一度そう考えてしまうと、胸騒ぎが止まらない。
「ケータイに掛けてみた方が良いんじゃねェか?」
「それだ!」
鞄を放り投げて電話機に飛び付く。だが受話器を取り上げたところで気付いた。
「……昌、恩田の携帯番号知ってるか?」
「あ? お前も知らねェのかよ!」
だめだ。そもそも恩田が携帯電話を持ってるのかどうかさえ解らない。
乾先生も捕まえられそうにないし、自宅に電話しても無意味だ。
「取り敢えず学校に電話して――」
いや、やはりまだ校内に居るとは考えにくい。期末試験や進路が絡むこの時期に、無闇な騒ぎを起こさせたくない。それにどう説明すれば良いのだか。保護者が心配して問い合わせが、なんて嘘を言ったところで、そういう電話は担任より真っ先に学校側へ行くものだろうから、すぐに見破られてしまうだろう。
「どうすンだよ」
どうするもこうするも無い。
「探しに行ってくる」
スーツから着替えもせず、携帯電話と財布だけを持って飛び出した。
そこまでは良い。だがどこを探せば良い? 一度学校に戻るか、いや学校を出てしまえば駅までは大した距離じゃないし、人通りも多い。電車に乗るのももどかしい。もっと効率よく動かなければ。
この辺りで恩田が行きそうな場所はどこだ。駅の方へ歩を進めながら考える。いくら考えても一つの場所しか思い当たらず、ならばとそこへ行ってみる事にした。恩田の家だ。
向かいながら電話を掛けてみたが、思った通り、何度呼び出しても応答しない。結論は間違いだったのか、それとも、何らかの理由で家に戻った途中、あの辺りの暗い道で暴漢にでも出会したのか、あぜ道で足を滑らせて怪我でもしたのか……色々な思いが浮き沈みを繰り返して、自然と俺の足を走らせていた。
本当に暗い。あの雑木林の前まで来て、思わず足を止めていた。暗闇を目の前にして、足がすくむ。この前はよくこんな道を通って帰れたものだと思う。あの時は、乾先生が恩田の肉親と知って、唖然としたまま帰ったのだっけ。普段この帰り道を通っている恩田も怖い。
ええい、ままよ! 闇の中へ身を投じる。一寸先は闇というのはものの例えだが、まさしく三センチ先も見えやしない。何度も竹垣に肩をこすりながら、闇雲に突き進んでいく。
そしてやっと、薄明かりの下に出られた。目の前には恩田の屋敷。けれど、窓には一つも明かりが灯っていない。お化け屋敷がただ眠っている、という感じだ。
やはり、ここに戻った訳じゃないのか。そうは思っても諦め切れず、俺はやたらにドアを叩いた。
「おい、恩田、居るのか? 居るなら出て来い!!」
呼べど叫べど、叩けど蹴れど、返事は無い。おい、ここまで来て空振りかよ。そりゃねえだろ。
それは良いとしよう。だが、家に帰ったのじゃないとなると、本当に何か悪い事が起こっているのでは……汗でシャツが張り付いた背中に、ひやりとしたものを覚える。
恩田は、いくら呪いを使っても、いくらこっくりさんと仲良しでも、いくら薄気味悪い奴でも、まだ十代でちっこくでか弱い女子だ。そして俺の生徒だ。何かに巻き込まれたのだとしたら、それはきっとおぞましい事だ。もし恩田の身が危険に晒されていたら、いや、もう危険な目に遭っていたとしたら、俺はどうしたら良いんだ。
「嫌だぞ、俺はッ」
学校だ。学校へ行こう。そう仕切り直し、自らを奮い立たせて踵を返した。
と、その時、目の前に黒い影が現れた。俺の胸ほどまでの背丈しかない、小柄な人影だ。
「何してるんですか、先生?」
そいつは、まるで呪いの言葉を読み上げるかの様な、囁く様な、耳の奥に絡み付く様な声音で、俺にそう尋ねてきた。
「……恩田ァ!」
制服姿の恩田は怪我をした様子も無い。直毛の黒髪は乱れ無く、青白い顔も、見慣れた無表情も、変わり無かった。
無事だと解った途端、足腰の力を失った。運動不足には激しすぎる走行だったのだ。地べたに尻を落としてしまう。
「何してんだじゃないだろうが……お前こそ何やってんだよ……」
「ずっと家を空けてたんで、この子達がお腹空かせてるとと思って」
「この子達?」
恩田が目を落とすのに合わせて足元を見ると、一匹の三毛猫が近寄ってきていた。俺の皮靴の匂いを嗅いで、すりっと頬を擦り付ける。
こいつだけじゃない、よく見れば恩田の足元にも黒猫が一匹……いいや、二匹、三匹……十匹、二十匹……! 三十匹は居ようかという野良猫の大群に囲まれていた。それらの目がギラギラ輝いて俺を見ているのだから、恐ろしい。
「お、恩田! 餌付けは良くないぞ!!」
「餌付けじゃありませんよ、飼ってるんです。ほら」
足元の黒猫をひょいと持ち上げて見せてくる。首に目の色と同じ、黄色の首輪が巻かれていた。足元の三毛猫は赤い首輪だ。
「飼ってるって……こいつら全部かよ」
「そうですよ。今先生の足元に居るのは最近入った子です。名前は先生から貰ってタイチにしました」
「勝手に使うな!」
名前が同じだからなのか、タイチは俺を気に入ったようで、毛が付くなんて人間様の都合お構い無しに体を擦り寄せてくる。
「ん……? タイチって事は、オスなのか? オスの三毛猫ってのは、とんでもなく珍しいんじゃなかったか?」
「らしいですね」興味無さそうだが、それでいて馬鹿馬鹿しいと言いたげだ。「だからでしょうね、タイチは最初、凄く怯えてて……いろんな人に追い回されきたんだと思います」
三毛猫のオスというのは、確か染色体の異常で、生物学的にあり得ない存在なんだとか。市場で取引して値段を付けるなら数百万だか数千万だか……けれど、そんな事はこのタイチにはまったく関係の無い話だ。人間のエゴでしかない。
「何だか凄えな、お前」
稀有な存在を一匹の猫としか見ない、本来の価値しか見出さない恩田は凄い。加えて、怯えきった猫をこんなに人懐っこくさせるのも、とてつもない事だろう。
猫は、人好きのする人物、例えば明るい性格だとか、あからさまに声を上げて感動を示す人柄は好かないのだ、と聞いた事がある。恩田は人を寄せ付けない雰囲気を持っているし、やたらに騒いだりしない。猫にとっては心安らぐ相手なんだろう。
俺も同じか。タイチの頭を撫でようと差し出した手にさえスリスリされて、自嘲的な気持ちになった。
「……怒る気が失せちまうな」
「先生、もしかして、私を探しに来たんですか?」
「もしかしないでもそうだ」
よろめきながらも何とか立ち上がって、尻の埃と猫の毛を払う。
恩田は猫を下して、急に申し訳無くなったのか、うつむきぎみに言った。
「……すみません」
「別に構わねえよ、何ともなかった訳だし。こっちの取り越し苦労だ」
何でもなかったら、こっぴどく叱り付けてやろうと思っていたところだが、まあ、
「こいつらに免じて許してやる。俺も猫派だからな」
正直なところ、ほっとしているのだった。