6.おやすみなさい 2/4
朝からドタバタと始まった二日目だが、授業が始まってしまえば、何ともない一日だ。職員室と教室を行き来する、忙しなくも普遍的な――いつ恩田に呪われるかという恐怖も含めて――日常である。強いて平素と違うところを挙げるなら、休み時間であっても、期末試験の問題作成が追い込みできつい事だ。
「やぁ、平和ですねぇ」
時期を問わず呑気な声で言うのは、小平先生以外他に居ない。あからさまに俺に向けた一言だろう。こっちは慣れない回答用紙のレイアウト作業で必死だってのに。
「本当に平和ですよねえ」
右から左へ受け流しつつ、構わないでくださいオーラを発する。けれど、小平先生は構わず構ってくる。
「ええ、本当に平和ですなあ」のんびりとお茶をすすってから、後の語を継ぐ。「恩田さんが静かにしてると」
「はい?」
恩田の名前が出てきて、不意に聞き返していた。
「清水センセ、ここ二日ばかり恩田さんの攻撃を受けてないでしょう?」
「ああ、はい、まあ、そうですね……」
何だか探るような視線を横合いから感じるが、気付いてないふりをして、マウスをぐるぐる動かした。
「この間まで、こっくりさん送り付けられたりしてましたのに、ねえ」
「あれ? バレてました?」
「横に居て気付かないくらい、鈍感に見えますかね」
そう言われて横に目を向けると、小平先生は眉毛と顔全体の皮膚が垂れた笑みをしていた。……見える。物凄く、鈍感に見える。
「……いいえ、全然そうは見えないです」
「でしょう?」
満足したのか、小平先生はデスクに向き直って、また湯飲みを口に運んだ。暇なのだろうか。小平先生とのお喋りはまったりとして嫌いじゃないが、今の俺にそんな余裕はないので、仕事に戻らせてもらう。パソコンのディスプレイに目線を戻した、その時だ。
「ここのところ、恩田さんと仲良くやれてるみたいですねえ」
その言葉にこめかみを撃ち抜かれて、ギクリと肩がすくんだ。
「今朝は一緒に登校してましたしねえ」
もう一発撃ち込まれて、ひっと息を飲む。
「……み、見てたんですか?」
「おやおや、鈍感なのは清水センセの方でしたか。ほほほ」
もう一度小平先生を見遣ると、横顔は、あの笑顔で湯飲みの中を覗いていた。怖い。
「わたしゃてっきり、逃げられたと思いましたけどねえ。急に走り出すものですから」
ぞわりと全身に鳥肌が立つのを感じた。言わんこっちゃない! これは大変な事になった。どうしよう、どうしよう、どうしよう……
「しかし、恩田さんは偉いですなあ」
「……はえ?」
どうしてそうなる?
「あんな朝早くから登校してるんですからねえ。運動部じゃないでしょうに」
「あ……え、ええ、まったくです! あいつは偉いですよ!!」
何だ、そうか。どうやら小平先生は、俺と恩田が偶然出会したものと思った様だ。なら安心である。ほっと胸を撫で下ろす。
「俺も驚きましたよ、ええ、マジで。朝から呪われちゃ堪らんと思って思わず逃げましたよね!」
あっはっは、と乾先生を見習って、豪快に笑って見せる。小平先生も合わせて、ほっほっほと笑ってくれた。
俺の考えすぎだったんだろう。実際に俺と恩田の家は近いし、利用する駅は同じ、その上恩田の生態は誰も知らないから、登校が一緒になったって別に不自然じゃない。杞憂というものだ。
何となく肩の荷が降りた気がする。これは小平先生のお蔭かも知れない。かと言って、ここでお礼を言ったらそれこそ不自然だから、にこにこして仕事に戻る事にした。ところが、
「清水センセ」
小平先生はまたも話し掛けてきた。
「はいはい、何ですか?」
俺も少し上機嫌になって応える。相も変わらない微笑みは言う。
「ま、上手くやってくださいな」
一瞬何の事だか解らなかったが、きっと作表の事を言ってるのだと判断して、俺は頷き返した。
「頑張ります」
さてさて、回答用紙の作成も順調に進み、後は問題の方が出来上がってから帳尻合わせだけとなったところで、漸くの昼休みだ。飯が食える。
学校での昼食は、自前の弁当か、近所のラーメン屋の出前である。一応、学生向けに弁当屋の売店も入っているが、生徒で込み合うし割高なので候補には入れていない。今日は出前を頼む事にした。出前にするのは俺や杉浦先生といった寂しい独り身男ばかりだが、この素晴らしいところは、代金が経費で落ちるところだ。倹約家に優しい。しかし毎日とはいかない。脂っこいチャーハンでは胃がもたれる。朝に弁当を作る時間が無かった日や、胃の調子が良い時だけだ。
という訳で、出前のアンケート調査に答えた後、手を洗いに廊下へ出た。そこに、
「先生」
遠山が居た。
「おう、遠山、職員室ならテストが終わるまでは立ち入り禁止だぞ」
「だからここで待ってたッス」
待ってた、とは奇妙だ。誰かに用があるなら戸口で呼べば良いだけである。
遠山は手招きして、俺を出入り口から離れた壁際に呼び寄せた。内緒話をしよう、という感じだ。何事かと、少し身を屈める。
「諒の事ッス」
「またか」
「またッス。今日はちゃんと聞いてもらうッスから」
そうまで言われたら、聞いてやらない訳にはいかない。どうせ恩田の機嫌が悪いという話だ。俺はその理由まで知っているから、申し訳ない気持ちではある。
「それほど気にする事か?」
「そりゃー気になるッスよ、諒があんなに機嫌良さそうにしてたら……」
「ちょっと待て」
俺の聞き間違いか、それとも遠山の言い間違いか。
「今『機嫌が良い』って言ったのか?」
「そうッス」間違い無く、しっかり首を縦に振る。「だから気になってたんスよ」
それは……確かに気になる。機嫌を損ねる理由しか思い浮かばない俺には、寝耳に水の話だ。
「そうは見えないが」
「細かい事っスけど……」
遠山は眉間に皺を寄せる。記憶の細部を見詰めている様だ。
「窓を開けたッス、授業中に」
「窓? いや、それは別に普――」
「いいや! それだけじゃないッスよ。なんと、諒は昨日今日と……こっくりさんをやってないんス。毎日二回はしてたのに」
真剣なまなざしが、分厚いレンズ越しに俺を突き刺す。
「ね、変でしょう?」
「ああ、変だな」
こっくりさんなんぞ、日常的にやっている方が変なのだが、恩田となると話は別だ、寧ろ普通。
「恩田と何かあったんスか?」
「ああ? 何で俺が……」
「……いえ、別に」
引っ掛かる言い様だ。
「何かも糞も、ある訳ねえだろ。妙な感繰りはやめろ」
腕組みをして、舌打ちを一発。全身で「心外だ」と表現する。特別な演技力は要らない。うちに寝泊まりしてる事を除けば、恩田とは本当に何も無いし、奴をご機嫌にさせる要素なんて何一つ無いのだから。
「何度も言う様だがな、お前は恩田に気を遣いすぎだぞ。友達思いなのは結構だが、お節介は好かないだろ、あいつは」
「そう、でしょうけど……」
目を泳がせて、もじもじとする。何か思うところあり、といった様子だ。なら、俺からも言わせてもらう。
「だいたいな、お前達の関係が解らねえよ。恩田相手じゃ仕方無えのかも知らないけどな、どうもよそよそしいと言うか……」
俺は人間関係を上手く捉えられない。たぶん、俺自身が良い交友関係を築いてこられなかった所為だ。しかし恩田と遠山に感じる違和感は、間違い無い。
「そうだな……距離とか、隔たりとか、そういうものを感じるぞ。確か『慣れたらフツーの女の子』って言ってたが、遠回しに『フツーの女の子』友達の腹探るような真似するか? 軽い気持ちで本人に訊ける事じゃねえか」
遠山の顔色が曇った。的外れな事を言われて気分を害したのではなく、図星、或は痛い所を突かれた顔色。
どうも府に落ちない。恩田の事も勿論そうだが、遠山のこの態度もだ。「親友」とまで言っていたのに、返す言葉も無いという感じで、言い返そうともしない。何だか嫌な雰囲気だ。
まあ、良い。変な感繰りをするなと俺自身が言ったばかりだ。適当に追い返そうと、口を開いた丁度その時、
「何してるの」
最近妙に聞き慣れてしまったあの声が、遠山の後ろから聞こえた。
「あ……」
「お昼ご飯、一緒に食べるんでしょう?」
どんな台詞を口にする時でも、恩田の表情は変わらない。こういう場面では、振り返った遠山の顔を、首を傾げて覗き込んだりするものだろうが、そうはしない。ただじっと、驚いた瞳を見返すだけ。恩田というのは言うまでもなくそんな奴なのだが、この瞬間の遠山は、視線を避けるように頷いた。