6.おやすみなさい 1/4
悪夢を見た。夢は寝ている間に見るものだが、しかし今俺が見ている悪夢は、朝起きてそこに恩田が居るという、現実の悪夢だ。
「おはようございます」
二度目の朝。平然と――といちいち言うのも嫌になるくらいさも当然の如く――ダイニングの椅子に座り、もう制服に着替えて、牛乳を飲んでいる。遠慮というものを知らないのか。水を飲めよ、水を。
もう晶の寝相にも慣れたのか、今朝は疲れた顔一つしていない。よく眠れたようだ。
「……ああ、おはよう」
俺は教師で、恩田はまがりなりにも女子生徒。本来、家に泊めるだなんて事はあっちゃならない事だ。マスコミが面白おかしく取り上げそうなネタじゃないか。
まあ、同情はしてやるさ。親が居ない寂しさはよく知っている。晶も口にこそ出さないが、恩田の事情については軽く説明しておいたし、同情的なのだろう。
とは言え……とは言え、だ。三日は長い、長すぎる。俺の精神疲労は限界すれすれ。昨日一日は呪いこそ掛けられなかったが、いつまた、それも家の中で始まるのかと思うとハラハラする。その辺は恩田も追い出される危険を承知しているのかも知れないが、いやそれより、俺の天敵が恩田だと乾先生は解っているはずなのだから、先生が恨めしくてたまらない。
憎くても好きな人、って誰の曲だっけ?
「朝飯はトーストで良いだろ? 一枚か?」
「はい」
食パンを二枚オーブンに放り込んで、焼き始める。
「俺はシュガートーストにするが、お前はイチゴジャムだろ? バターたっぷりで」
「はい」
まったく、恩田の好みを覚えてしまったじゃないか。
こんがりと焦げ目が付くまで焼き上げたパンに、バターを塗りつけていく。恐らく、バターナイフを伝う感触や耳に聞こえるザラ付きが心地よいのは、トースト以外に存在しないだろう。ほんのりと甘く香ばしい匂いと、バターの柔らかな匂いに噎せそうになりながら、恩田のと決めた方には、焼き目がやや透けて見える程にまで塗り広げた。薄く引いて艶が出た俺の分に、スプーン一杯の砂糖をまんべんなく振り掛ける。これくらいだと、パン本来の香りを楽しめるのだ。砂糖はパンの甘さを助けているに過ぎない。一方で、恩田用はこってりとジャムを塗りたくってやる。恩田は意外と甘い物好きらしい。俺は自分でもけち臭いタイプなんだと解っているが、どうせイチゴジャムなどは、持て余して謎の白濁した物質が練成されるか、カビの培地に様変わりしてしまうのだから、もったいぶる必要は無い。
良い御身分だよ。トーストを焼くくらい自分でやればいい。とか何とか思いながらも一通りの作業をしてしまう俺が、少し情け無い。
恩田は、口を控えめに開き、パンの角をかじる。パンくずが落ちるのを気にしながら口を離すと、無くなったのはほぼ耳の部分だけ。まるでネズミの食事だ。いや、あんなに早くはないし、結構な時間を掛けてもぐもぐやっているから、これはいつかデパートのペットショップで見たリクガメだな。「これ欲しい」と何故か晶が駄々をこねたのを思い出す。その時のあいつはとっくに成人を迎えてた訳だが、なるほど、恩田に似たものを覚えたか。こちらはそんな可愛いものではないけれど、無表情なところは確かに爬虫類的な……
「……お前、存外に表情あるよな」
「何ですか、いきなり。気持ち悪い」
俺自身、若干気持ち悪い事を言った自覚はある。が、
「いや、美味そうに食ってんな、と思った」
何となくだが、パンを頬張っている間、気持ちばかり、本当に僅かに、口元がほころんでいる様な、或いは目許が引き上げられている様な気がする。酷く曖昧だが。
「美味いなら美味いと言っても良いんだぞ?」
「美味しいですよ」
「そういう事じゃねえんだよ」
スーパーのパン屋で買った、一斤三百円の食パン――もちろん見切り品だが――だ。美味くない訳が無い。
「もっと、こう、『うわー、すっごく美味しいですぅ!』とか、『イチゴジャム好きなんですよー!』とか、声を大にして喜べよ」
「感情を強要されましても」
しらけた目で俺を見返しながら、もう一度パンを口にする。それでもやっぱり、心無し美味そうな顔をした。
「そうじゃねえっての。俺が欲しいのは見返りだ、俺の気を良くする言葉だ、ギブアンドテイクだ」
「先生は、何かをお忘れなんじゃないですか?」
ひくり……恩田の眉間がほんの僅か痙攣するのが解った。と、同時に俺の眉間も。
俺は恩田に、弱みを握られている。それも、とんでもなくこっ恥ずかしいものだ。俺が乾先生に恋してるという事、そして、告白の相手を間違えた事。
「……忘れちゃないさ。だがな、だがだ! こうして、リスク背負ってまで世話してやってるんだから、口止め料としちゃ高いくらいだろ。チャラだ、チャラ!!」
正しい事を言ったはずだ。そもそも、恥ずかしいだけの話であって、別に何も悪くない。良い大人なのだから、俺が誰を好きになろうが俺の勝手だ。ところが、恩田にはそんな正論は通用しない。冷ややかな視線を返すばかりだ。加えて、
「……こんな事で……」
などと呟くものだから、もう頭に来た。
「お前なッ! 教師が女子生徒を家に泊めるってのが、どれだけ危険行為か理解してないだろ?!」
教師をクビになるかも知れん。いや、社会的に抹消されかねないのだ。そんな危険を冒してやっているのだから、敬意を払われて当然というものじゃないか。
「だいたいな、俺は尽くしてやってるだろうが。お前の好物だって言うから、オムライスを作ってやったりもした訳でな……!!」
今になって考えれば、恩田なんぞに媚を売っても仕方が無い事だ。毅然と振る舞うべきだったのだと、後悔している。
「……何を言ってるんですか?」
これだ、これだよ、この態度!
「私、オムライス嫌いですけど」
「は?」下らん嘘を吐きやがってからに。「何だ、その悔し紛れ。あり得ん」
素直じゃないのはここ最近知ったつもりだが、これは無い。好きなものは好き、で良いだろうが。呆れてしまう。
しかし、
「チキンライスがダメです」
「はあ?」
「と言うか、鶏肉が嫌いなんです。特にササミが。パサパサしてるし」
恩田はさらりと言った。
「……マジか?」
「嘘吐いて何になりますか」
確かに。俺の考えに至極もっともな答えを出されて、いささか腹が立った訳だが、恩田の言う通りである。
「あー、つまりだ。これは、空回りってやつか?」
「空振りとも言いますよ」
今、乾先生からの情報を思い出してみれば、「オム」なんちゃらであって、オムライスと決まった訳じゃなかった。そう言えば遠山が、恩田の機嫌が悪いと言っていた。オムライスが原因か。笑うしかない。
「……いや、まあ、その、お前を歓迎してやろうという、俺なりの心遣いだった事には変わりがなくてな?」
駄目だ。腰が木っ端微塵に砕け散ってしまった。何を言ったところで、上滑りするだけ。空気が凍っている。
やっちまった。
「おい、もっと離れて歩けよ」
「先生こそ、もっと早く歩いてください」
駅で降車してから学校までの道のり、住宅街の並木道を、恩田とほぼ並んで歩いている。
「ナニか、世間を賑わせ、俺を破滅の道へ向かわせようって腹積もりか?」
「世界は先生が思う程、先生に注目してませんよ」
嫌に張り合ってきやがる。嫌いな物を食わされた腹いせにしては遅いが、それを勘違いして得意がったのがいけなかったんだろう。
体格差を生かして大股で歩き、恩田を引き離してやる。何せ脚の長さは倍も――言いすぎか?――違うのだ、流石に付いて来れまいよ。
走らない限り無理だろう! 勝利の笑みで振り返る……が、恩田の姿は無い。
「なん……だと?」
また忽然と姿を消したと言うのか。驚愕し、ふと横の方へ目を戻すと、黒髪がさらりと風に流れていた。
恩田め、足音も立てず、肩も揺らさず、悠々と俺の横を歩いていやがる。歩幅は変えず、ただ脚を素早く動かしている様だが、しかし、まるで車輪でも付いているかの様に、スライドしている。
「うわ、気持ち悪ッ!」
恩田は言い返さず、俺を横目に見ながら薄ら笑いを浮かべた。だから気持ち悪いってのに。
俺は走り出した。と言うより、逃げた。あれは生身の人間だがオンリョウだ、取り憑かれる前に逃げる。幸い、早朝の住宅街は人も少ないし、居たとしてもみんな急いでいる。そんな中で全力疾走したって、「大変ですね」と思われるだけだろう。恥ずかしくなんかない。
それに、学校まではもうすぐだ。恩田との対決で、到着が随分早い。先に校門をくぐるのは俺だ。
が、朝っぱらから息も絶え絶え、何とか校門までたどり着いた俺を待ち構えていたのは、勝利ではなく、恩田だった。
「はあ、はあ……今度は何だ、どんな呪いだ……」
「呪いはそれほど万能じゃありませんよ」全力疾走の俺より先周りしていながら、恩田は息一つ乱れていない。「地理に疎い先生は知らないでしょうけど、団地を抜けると近道なんです。と言うより、律義に大通りを行くのが遠回りで」
「ひ、卑怯だぞ。校則違反だ……はあ、はあ」
校則云々は、恩田には今更の話かも知れない。恩田はしれっとした顔で俺を見返した。
「良いんですか? 私と一緒のところを見られたら、校則どころの話じゃなのでは?」
「ああ、そうだな……まったく」
まったくもって嫌な奴だ。