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おんでれ!  作者: 熊と塩
20/24

5.事故る、付け込まれる 4/4

 寝不足だ。昨晩は――ヌードを晒した報復として――悪夢でも見せられるのではないか、寝ている間に何か悪さされるのではないかという不安で、眠れなかったのだ。ところそれらは杞憂だった様で、何事も無く朝を迎えられた。

 恩田は俺よりも早く起き出していて、俺が寝室を出る頃にはすっかり制服を着込んで、リビングで牛乳を飲んでいた。しかし、その顔には心なしか疲労が見える。

「大丈夫か?」

「……何がですか」

 普段から『元気』或いは『活気』というものを一切感じない恩田の声音だが、そう聞き返す声にはまるで覇気が無い。理由は大体想像がつく。

「晶か」

「二時過ぎまで、その……ガールズトークを」

「一方的に、だろ?」

 晶は女友達が多くないらしい。ああいう性格で男に人気だから、嫉妬が多いのだろう。ここぞとばかりに喋り続ける晶の姿も、津波の様に押し寄せる言葉の数々に飲まれ、相槌を打つ間も無い恩田の姿も目に浮かぶ。

「それに、寝てる間もずっと抱き付かれて……」

「あの野郎、ずっと『抱き枕が欲しい』とかほざいてたからな……」

 いくら恩田とは言え、同情を禁じえない。

「悪いな」

「……嫌いじゃないです、明るい人は」

「そうか」遠山とも仲が良いし、活発な性格とは相性が良いのかも知れない。「それなら、良かった」

 まだ出勤には時間がある。牛乳を飲むくらいは余裕。これは胃酸から胃粘液を守るため――効果の程は知れないが――続けている習慣だ。

 コップを濯いでいると、恩田が問い掛けてきた。

「先生はどうですか、明るい人は」

「ああ……晶は願い下げだが、まあ好きだ。暗いよりは」暗に恩田の事を皮肉ってみたところで、質問に込められた裏の意味に気付いた。「何だ、乾先生の事か?」

 テーブルにコップを二つ並べながら恩田を見遣るが、頷きもせずじっと上目遣いに見つめられていた。

「ガールズトークならしないぞ、俺は男だからな」

 酔狂か、晶に毒されたか、それとも家族が絡む事だから気になっているのか。何にせよ、嬉々として恩田に話せるものじゃないだろう。まあ――

 冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぎ込む。ガラスのコップが白い液体に満たされていくのに、恩田はそっと目を落とした。

「牛乳は好きか?」尋ねてみるが、答えは無い。「乾先生は白いだろ。牛乳みたいにな。だから好きだ」

 惚気はしたくなるものだ。

 不可侵の聖地、その純白の神殿。そうした神々しさまで、俺は乾先生に感じる。傍から見れば気持ち悪いと思われる様な、それでも構わないと思える様な、そんなやっぱり気持ち悪い感情を抱いているのだ。

 俺の分を注ぎ終えて、さあ飲もうという時、恩田がコップを取って一気に煽った。喉を鳴らしながら一息に飲み干して、酒でも飲み切ったかの様に、タンとコップの底でテーブルを打った。ついでにやり遂げた一息を吐いて、

「もう出ますね」

 と一言言ってから、さっさと鞄を手に玄関へ向かって行った。

「お、おお、気を付けて行けよ……って言うか、しっかり味わえよな!」

 俺の声を最後まで聞いていたか、恩田は出ていった。


 学校では、勿論噂になっている様な事は無かった。当然か。恩田からしても、俺と噂になるなんて願い下げだろうからな。

 つい足が保健室へ向きそうになる。その度に乾先生は居ないのだと思いだしては憂鬱になった。愚痴れる人が居ないのはなかなか辛い。まあ、お蔭でテスト問題制作に励めそうだ。締め切りは近い。

「先生」廊下を歩いていると、遠山が声を掛けてきた。「諒、どうしたんスか?」

 ギクリとしながらも、素知らぬ風を装って聞き返す。

「何がかな? 別に普段通りに見えるが」

「先生にはそう見えるかも知れないッスけど……」

 恩田の言動には常々気を遣っている遠山だが、今回は心配をしているのとは違うらしい。不審がっている、そんな様子だ。

「……ちょっと、機嫌が――」

「機嫌悪そうにしてるのはいつも通りだろ」

「そうじゃなくってッスね……」

「お前の心配りは俺もありがたいと思うけどな、余計な世話って事もあるぞ。考えすぎは良くない。第一、俺に尋ねる事じゃないだろう。本人に訊いてみたらどうだ?」

 我ながら意地が悪いとは思う。しかし、あまり詮索されたらボロが出てしまいそうだ。

「悪い、仕事が立て込んでるんだ。それじゃ」

 まだ何か言いたげな遠山に背を向けた。


 嫌な汗をかいた。どうも誤魔化しは苦手だ。顔に浮いた脂汗をトイレで洗い流すと、顔面のぬるりとした感触はすっきりするが、気持ちはすっきりしない。

 酷いツラだ。と言うか、醜い。悪そう。凶悪。

「……整形でもするか?」

 自分に問い掛けてみると、ニヤッという笑いが返ってくる。

「気持ち悪い」

 そう思ったが、口に出して答えたのは俺じゃない。鏡の右下、俺の肩越しに、恩田の不気味な顔が浮かんでいた。

「ぎゃあッ」叫びながら振り返る。「お、恩田ァ! 驚かせるなよ!!」

「先生が勝手に驚いたんでしょう?」

 肩を竦める恩田は平然としていた。

「ここは男子トイレだぞ」

「それが?」

 こうも開き直られると、何も悪い事じゃない気がしてくる。いや、いかん。

「男子トイレに女子が、女子トイレに男子が入った場合、軽犯罪法に抵触する恐れがあってだな……」

「それはどうでも良いです。用はすぐ済みます」

 用を足しに来たのじゃないのは明白だ。となると、俺に用があるらしい。

「……なんだよ」

「さっき、まりあに何か訊かれたでしょう? 何を?」

「ああ……お前の機嫌が悪そうだってな」

「へえ」

 探るような目だ。

「変な噂を広めないでくださいね」

「そりゃこっちの台詞だって!」

 どれだけ面の皮が厚いのやら。こっちとしては迷惑以外の何物でもないのだ。

 そもそも……そもそもだ。恩田の様な奴が、俺の家に転がりこんできて良しと思える、その理由が解らない。だって俺だぞ。あんなにナメ切って、執拗なまでに呪いを掛けていた相手の家だ。

 まあ、良い。恩田の事は考えたって解らない。何を考えているのか解らない。遠山さえ、自信が持てないのだから。

「どうせ今日一日までだ。明日には乾先生が帰ってくる。お前も嫌々うちに居る必要は無くなる」

 鏡を見ながら、緩めたネクタイを直す。

「だからせめて今日くらい大人しくしていてくれよ。例えば平然と男子トイレに入ったり――」

 ネクタイを整えてから振り返ると、もう恩田の姿は無かった。どこまでも幽霊じみた奴。


 家に帰ると、やはり恩田が居る。すでに承知済みとは言え、制服姿で晶の隣に座っているのは、少々ビビる。

「今日で終いたァ、寂しくなっちまうなァ、おい」

 俺はちっともそう思えない。恩田は……まあ、表情では解りかねるが、寂しさなんて微塵も感じちゃいないだろう。

 少しは惜しんでくれた方が、世話をした身分としては気持ちが救われるのだが。

 電話が鳴った。電話なんて滅多に掛かってくるものじゃない。酔っぱらった晶が、「誰だ畜生」などと舌打ちをして席を立とうとするものだから、俺は晶よりも素早く電話機に飛び付いた。全く留守番なんぞ任せておけない。

「あ、もしもし、清水君?」

 受話器越しに聞こえてきた声に心臓が口から飛び出し、同時に息を飲んだ。

「乾先生!」

 ちらりと振り返ると、恩田が牛乳を片手にこちらを見ていた。マイクを手で覆って、更に口元を隠しながら話をする。

「酷いじゃないですか、突然爆弾送りつける様な事をして……」

「爆弾? ああ、あの子の事ね。ごめんなさい、頼れるには清水君だけだったから」

 そう言われると悪い気はしない。いや、良い気になってる場合じゃないだろう。

「勘弁して下さい。おろし金で神経ゴリゴリ削られてる気分なんです」

 あっはっは、という快活な笑い声がする。乾先生はいつも通りだが、それはつまり他人事だって事だ。

「笑い事じゃないんですよ、本当に。明日帰られるんですよね?」

 折角の休暇だ、ゆっくりして貰いたいという気持ちはある。けれど、俺はもう限界だ。乾先生は「ああ」と曖昧な相槌を打った。

「その事なんだけど、ね……もう少しこっちに居る事になっちゃったのよね」

「ええ?!」

「明後日の朝一の新幹線で帰るから、明日までよろしくね」

 殺生な……

「ちょ、ちょっと待って下さい! 困ります――!!」

「ごめんなさい、宴会が始まるから。それじゃあね」

 そう言って、一方的に電話を切られた。

 終話を知らせる電子音が耳の中にこだまする。

「カンパーイ」

 晶の声と、コップを打ち鳴らす音が遠くに聞こえた。

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