5.事故る、付け込まれる 4/4
寝不足だ。昨晩は――ヌードを晒した報復として――悪夢でも見せられるのではないか、寝ている間に何か悪さされるのではないかという不安で、眠れなかったのだ。ところそれらは杞憂だった様で、何事も無く朝を迎えられた。
恩田は俺よりも早く起き出していて、俺が寝室を出る頃にはすっかり制服を着込んで、リビングで牛乳を飲んでいた。しかし、その顔には心なしか疲労が見える。
「大丈夫か?」
「……何がですか」
普段から『元気』或いは『活気』というものを一切感じない恩田の声音だが、そう聞き返す声にはまるで覇気が無い。理由は大体想像がつく。
「晶か」
「二時過ぎまで、その……ガールズトークを」
「一方的に、だろ?」
晶は女友達が多くないらしい。ああいう性格で男に人気だから、嫉妬が多いのだろう。ここぞとばかりに喋り続ける晶の姿も、津波の様に押し寄せる言葉の数々に飲まれ、相槌を打つ間も無い恩田の姿も目に浮かぶ。
「それに、寝てる間もずっと抱き付かれて……」
「あの野郎、ずっと『抱き枕が欲しい』とかほざいてたからな……」
いくら恩田とは言え、同情を禁じえない。
「悪いな」
「……嫌いじゃないです、明るい人は」
「そうか」遠山とも仲が良いし、活発な性格とは相性が良いのかも知れない。「それなら、良かった」
まだ出勤には時間がある。牛乳を飲むくらいは余裕。これは胃酸から胃粘液を守るため――効果の程は知れないが――続けている習慣だ。
コップを濯いでいると、恩田が問い掛けてきた。
「先生はどうですか、明るい人は」
「ああ……晶は願い下げだが、まあ好きだ。暗いよりは」暗に恩田の事を皮肉ってみたところで、質問に込められた裏の意味に気付いた。「何だ、乾先生の事か?」
テーブルにコップを二つ並べながら恩田を見遣るが、頷きもせずじっと上目遣いに見つめられていた。
「ガールズトークならしないぞ、俺は男だからな」
酔狂か、晶に毒されたか、それとも家族が絡む事だから気になっているのか。何にせよ、嬉々として恩田に話せるものじゃないだろう。まあ――
冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぎ込む。ガラスのコップが白い液体に満たされていくのに、恩田はそっと目を落とした。
「牛乳は好きか?」尋ねてみるが、答えは無い。「乾先生は白いだろ。牛乳みたいにな。だから好きだ」
惚気はしたくなるものだ。
不可侵の聖地、その純白の神殿。そうした神々しさまで、俺は乾先生に感じる。傍から見れば気持ち悪いと思われる様な、それでも構わないと思える様な、そんなやっぱり気持ち悪い感情を抱いているのだ。
俺の分を注ぎ終えて、さあ飲もうという時、恩田がコップを取って一気に煽った。喉を鳴らしながら一息に飲み干して、酒でも飲み切ったかの様に、タンとコップの底でテーブルを打った。ついでにやり遂げた一息を吐いて、
「もう出ますね」
と一言言ってから、さっさと鞄を手に玄関へ向かって行った。
「お、おお、気を付けて行けよ……って言うか、しっかり味わえよな!」
俺の声を最後まで聞いていたか、恩田は出ていった。
学校では、勿論噂になっている様な事は無かった。当然か。恩田からしても、俺と噂になるなんて願い下げだろうからな。
つい足が保健室へ向きそうになる。その度に乾先生は居ないのだと思いだしては憂鬱になった。愚痴れる人が居ないのはなかなか辛い。まあ、お蔭でテスト問題制作に励めそうだ。締め切りは近い。
「先生」廊下を歩いていると、遠山が声を掛けてきた。「諒、どうしたんスか?」
ギクリとしながらも、素知らぬ風を装って聞き返す。
「何がかな? 別に普段通りに見えるが」
「先生にはそう見えるかも知れないッスけど……」
恩田の言動には常々気を遣っている遠山だが、今回は心配をしているのとは違うらしい。不審がっている、そんな様子だ。
「……ちょっと、機嫌が――」
「機嫌悪そうにしてるのはいつも通りだろ」
「そうじゃなくってッスね……」
「お前の心配りは俺もありがたいと思うけどな、余計な世話って事もあるぞ。考えすぎは良くない。第一、俺に尋ねる事じゃないだろう。本人に訊いてみたらどうだ?」
我ながら意地が悪いとは思う。しかし、あまり詮索されたらボロが出てしまいそうだ。
「悪い、仕事が立て込んでるんだ。それじゃ」
まだ何か言いたげな遠山に背を向けた。
嫌な汗をかいた。どうも誤魔化しは苦手だ。顔に浮いた脂汗をトイレで洗い流すと、顔面のぬるりとした感触はすっきりするが、気持ちはすっきりしない。
酷いツラだ。と言うか、醜い。悪そう。凶悪。
「……整形でもするか?」
自分に問い掛けてみると、ニヤッという笑いが返ってくる。
「気持ち悪い」
そう思ったが、口に出して答えたのは俺じゃない。鏡の右下、俺の肩越しに、恩田の不気味な顔が浮かんでいた。
「ぎゃあッ」叫びながら振り返る。「お、恩田ァ! 驚かせるなよ!!」
「先生が勝手に驚いたんでしょう?」
肩を竦める恩田は平然としていた。
「ここは男子トイレだぞ」
「それが?」
こうも開き直られると、何も悪い事じゃない気がしてくる。いや、いかん。
「男子トイレに女子が、女子トイレに男子が入った場合、軽犯罪法に抵触する恐れがあってだな……」
「それはどうでも良いです。用はすぐ済みます」
用を足しに来たのじゃないのは明白だ。となると、俺に用があるらしい。
「……なんだよ」
「さっき、まりあに何か訊かれたでしょう? 何を?」
「ああ……お前の機嫌が悪そうだってな」
「へえ」
探るような目だ。
「変な噂を広めないでくださいね」
「そりゃこっちの台詞だって!」
どれだけ面の皮が厚いのやら。こっちとしては迷惑以外の何物でもないのだ。
そもそも……そもそもだ。恩田の様な奴が、俺の家に転がりこんできて良しと思える、その理由が解らない。だって俺だぞ。あんなにナメ切って、執拗なまでに呪いを掛けていた相手の家だ。
まあ、良い。恩田の事は考えたって解らない。何を考えているのか解らない。遠山さえ、自信が持てないのだから。
「どうせ今日一日までだ。明日には乾先生が帰ってくる。お前も嫌々うちに居る必要は無くなる」
鏡を見ながら、緩めたネクタイを直す。
「だからせめて今日くらい大人しくしていてくれよ。例えば平然と男子トイレに入ったり――」
ネクタイを整えてから振り返ると、もう恩田の姿は無かった。どこまでも幽霊じみた奴。
家に帰ると、やはり恩田が居る。すでに承知済みとは言え、制服姿で晶の隣に座っているのは、少々ビビる。
「今日で終いたァ、寂しくなっちまうなァ、おい」
俺はちっともそう思えない。恩田は……まあ、表情では解りかねるが、寂しさなんて微塵も感じちゃいないだろう。
少しは惜しんでくれた方が、世話をした身分としては気持ちが救われるのだが。
電話が鳴った。電話なんて滅多に掛かってくるものじゃない。酔っぱらった晶が、「誰だ畜生」などと舌打ちをして席を立とうとするものだから、俺は晶よりも素早く電話機に飛び付いた。全く留守番なんぞ任せておけない。
「あ、もしもし、清水君?」
受話器越しに聞こえてきた声に心臓が口から飛び出し、同時に息を飲んだ。
「乾先生!」
ちらりと振り返ると、恩田が牛乳を片手にこちらを見ていた。マイクを手で覆って、更に口元を隠しながら話をする。
「酷いじゃないですか、突然爆弾送りつける様な事をして……」
「爆弾? ああ、あの子の事ね。ごめんなさい、頼れるには清水君だけだったから」
そう言われると悪い気はしない。いや、良い気になってる場合じゃないだろう。
「勘弁して下さい。おろし金で神経ゴリゴリ削られてる気分なんです」
あっはっは、という快活な笑い声がする。乾先生はいつも通りだが、それはつまり他人事だって事だ。
「笑い事じゃないんですよ、本当に。明日帰られるんですよね?」
折角の休暇だ、ゆっくりして貰いたいという気持ちはある。けれど、俺はもう限界だ。乾先生は「ああ」と曖昧な相槌を打った。
「その事なんだけど、ね……もう少しこっちに居る事になっちゃったのよね」
「ええ?!」
「明後日の朝一の新幹線で帰るから、明日までよろしくね」
殺生な……
「ちょ、ちょっと待って下さい! 困ります――!!」
「ごめんなさい、宴会が始まるから。それじゃあね」
そう言って、一方的に電話を切られた。
終話を知らせる電子音が耳の中にこだまする。
「カンパーイ」
晶の声と、コップを打ち鳴らす音が遠くに聞こえた。