5.事故る、付け込まれる 3/4
何故だ。何故恩田が俺の家に居る。
いや、これもきっと何かの呪いか魔術に違い無い。きっとそうだ。つまりこれは幻で、居るはずもないオンリョウの生き霊を見せ付けられているのだ。そうに決まってる。
「突っ立ってねェで座れやハゲ。お客さんに失礼だろうが」
「そうですよ、視覚的にうざったいですから」
二人揃って言うと、顔を合わせて「な」と頷き合う。
「幻覚と仲良くなったらいかん!」
「何言ってるんですか?」
「そうだ、何言ってんだテメェは」
どうやら俺だけでなく、晶までおかしくなってしまったらしい。
とうとう、恩田の魔の手が俺の家族にまで伸びてきた。これは由々しき事態である。兎に角落ち着いて対処しなければいけない。俺は二人の言葉に従って、晶の向かいに座った。
恩田はいつも通りの制服姿で、ごくごく自然と、違和感たっぷりにそこに居る。思えば我が家を訪れた初めての客だ。四脚セットが安いからという理由で買った椅子が、よもや恩田の為になるとは。いや寧ろ俺か? 恩田も晶も、その性格からして俺を床に坐らせても構いはしなかっただろう。
酒の缶を空けていく晶の隣で、恩田もちびりちびりコップに口をつけている。まさか酒じゃあるまいな、と思ったが、中身は俺が買い置きしている牛乳だった。かなり美味い。スーパーで見掛ける度に買うようにしているが、売り切れが目立つ人気商品だ。一リットルの紙パックにしては少々お高め。なんだか楽しみを奪われた様な気がして、苛立ちを込めて核心に触れる。
「……で? 何の用だ」
「随分な言い様ですね」
「そうだぞテメェ、そりゃ随分だ」
どうして意気投合してんだ、こいつら。
「叔母さんから言われたんです。『清水先生のお世話になりなさい』って」
「だからって……!」
そういう意味じゃないだろう。こいつ、わざと意味を取り違えてないか?
「……解った。家まで送ってやるから、さっさとそれを飲んじまってくれ」
「何だテメェ、帰そうってのか」
「そりゃそうだろッ」うんざりしてつい大声を出してしまう。「俺は教師で、こいつは受け持ちの生徒だぞ? このまま置いておける訳が無いだろ! 泊らせろとでも言うのかよ」
もう夜なんだぞ。遅くならないうちに家に帰らせなくては。
「問題無ェだろ。オレの部屋に泊るんだから。な?」
言われた恩田はコックリ頷く。
「どっちにしろ『清水先生の家』だろうが。学校とかPTAとかにバレたら……」
「バレなきゃいいだけの話じゃね?」
簡単に言ってくれるよ。
「先生、あの道、街灯が一本も無いでしょう?」
元凶が話し掛けてきた。あの道とは、恩田の家に続く道だろう。
「この時間になると、真っ暗で、手元も見えないし、それに……出るんです」
「出るって……アレか?」
「幽霊ですよ」ニヤリと笑う。「それはもう、多種多様なのが。中でもタチが悪い霊になると、霊感の弱い人を狙って襲い掛かって来るんです。怖いですね」
「脅す気かッ」
「怖いから帰れないって話ですよ。先生はどうです?」
確かに怖い。いや、俺にはそれに恩田が加わるのがもっと怖い。
「さって、どうすンのかね、セ・ン・セ」
何でお前も恩田の味方なんだ、晶!
「……お前、誰かに言い振らしたりしてないだろうな」
「自慢出来る事ならそうしますけど」
何でこんな……陰気で不順で、嫌味な奴を泊らせてやらなくちゃならないんだ?
「好きにしろよ、もう」
俺が投げ放して言うと、喜んだのは何故か晶の方だ。恩田は何も言わず、ただニヤニヤと薄ら笑いを浮かべているだけ。
「ただし、ここは俺の家だからな。ルールに従ってもらう」
「ルール?」
「そうだ。例えば――」
無駄遣いはしない、冷蔵庫のドアはすぐ絞める、だれもいない部屋やトイレの照明は必ず消す……ルールと言い出してみたけれど、どれにしたっていちいち恩田に言って聞かせる様な事柄じゃない。もっと、恩田には必ず守ってもらいたい取り決めが必要だ。そう思い付くと、あとは一つしか浮かばなかった。
「この家で呪いは使うな」
まったく、どうしてこんな事になったんだか。だいたいから、何で恩田は俺の家に転がり込んで来ようと思った? 一人でも十分生活出来るだろ。
「可愛いエプロンですね」
「うるせえ」
俺のクマさんエプロンを笑う事は許せん。
「何作ってンだ?」
自分では全く動かない癖、食欲だけは人並みにある晶が身を乗り出した。
「折角恩田も居る事だからな、卵の消費に手伝ってもらう」
普段卵料理は滅多に作らないから、たまに一パック買ってくると余ってしまう。腐らせるのももったいない。
そうと決めた時に真っ先に思い出したのは、乾先生との会話だ。何だか恩田のご機嫌取りみたいで癪ではあるが、まあ、これで――文字通りの――呪縛から解放されるかも知れない。
まず冷凍しておいたご飯を電子レンジで軽く解凍する。ほかほかに温める必要は無い。その間にみじん切りのタマネギと、こま切りにしたササミを鍋で炒めておき、ご飯をそこへ移す。弱火で温めつつ、トマトケチャップを加えてほぐしながら塩コショウで味を整える。チキンライスが出来上がったら、これを皿によそう。今度はフライパンにバターを敷こう。とろ火にしたら、ここに白身と黄身をよく混ぜ、件の牛乳を少量加えた卵を二つから二つ半分程度流し込む。固まらない様に菜箸でかき混ぜながら、トロッとしたらチキンライスの上に乗せる。仕上げに、ケチャップとウスターソース、ちょっとの酢を混ぜたデミグラスソースの代替ソースを掛ければ……オムライスの出来上がりだ。
ああ、なんて家庭的な俺……コンビニ弁当やスーパーの惣菜では出費がかさむし、他に家事をする人間が居ないから、料理は自然に覚えてしまった。悔しいかな、晶以外に俺のこんな一面を知っている奴は居ない。今日この時、一人加わった訳だが。
「おい、何だか珍しいじゃねェか」
「何せお子様が居るからな。温かいうちにさっさと食え」
残念ながらスープまでは手が回らなかったが、サラダならある。
「いっただきまーっす」
とはしゃいだのは晶一人だった。恩田の方は嬉しそうな顔一つしない。
恩田の事だから、感情を表に出さないだけだろう。そう思って暫く観察していたが、スプーンを口元に運ぶ手付きが、あまり面白くなさそうだった。ふむ、味は悪くないはずだが……もしや偽デミグラスが口に合わなかったか?
「美味くないか、恩田?」
「いいえ」
曖昧な返事だ。はっきり「美味しい」とは言わない。これじゃあ作った甲斐が無いじゃないか。
「美味ェ美味ェ」
「てめえには聞いてねえよ!」
やれやれ、だ。好物だと聞いて作ってやったのに、ありがとうの一言も無い! 感謝されこそすれ、脅される謂れ因縁は無い。
「誰だと思ってやがる」
独り言ちは露の貼り付いた壁に反響して、返ってきた。そうだな、相手は恩田だ。教師を敬うなんて言葉はあいつの辞書に載ってない。今更憤るだけ無駄というものだろう。
やめだ、やめ。恩田に気を使うのはやめる。作る食事が一人分増えて、風呂の順番が一番最後になるだけだ。呪いは無いのだから――恩田がルールを守るならの話だが――居ないも同じ。ペットみたいなものだ。可愛い、可愛いペットだ。
……とてもそんな風には扱えそうにない。
本当にやれやれだ。風呂なんてリラックス空間まで恩田に侵食されてしまったのかと思うと堪らない。
溜息を吐き散らしながら脱衣所に出る。少し涼しい空気に触れると、頭がすっきりする様だ。一日の垢を流して、一日に鬱積した疲れを落とす。これだから風呂は良い。
「あ」
体を拭いていたところ、出入り口のあたりから、声がした。
「……あ」
恩田だ。うちのトイレは脱衣所にある。さっきも言った様に、恩田は俺より先に風呂に入ったばかりで、ジャージー姿だ。まさか普段も家着はジャージーなのか、というのはあまり関係の無い話だ。まあ兎に角だから恐らくトイレを使いに来たんだろう。
何故こんなに冷静か? それは自分でも解らない。たぶん人間は、異常な状況の時ほど、脳が活発に働く。
「ああぁぁッ!!」
しかし自分に起きた事態を理解するのには時間が掛かる。
俺は素っ裸だ。下着一枚身に着けていない。それを見たのは恩田。
恩田はそっと戸を閉めて出ていった。
「ふ……」
去り際、ものすごく哀れんだ目で見られた気がする。事故だし、俺は悪くない。いや、それよりも何よりも、
「普通逆だろ!」