5.事故る、付け込まれる 2/4
幸い、俺がこっくりさんの呪いを受ける事はなかった。呪いを受ける予兆として、まず強烈な臭いがするらしい――と、不安になって調べてみたら書いてあった――が、俺が嗅いだ臭いは紙が焦げる臭いだけだ。それに、普段なら胃が大暴れするところだが、今回は馬鹿馬鹿しさが先んじたお陰でピンピンしている。
あいつは一体何がしたいんだか、さっぱり解らない。わざわざ永井先生を使わないで直接来れば良いのだ。
と、そんな事を考えていると、次の授業は恩田のクラス……いや俺のクラスだ。五分前行動を心掛けている俺だが、ついぼんやりとしてしまっていた。頭を掻き毟る事で釈然としない思いを振り払いながら、教室へ向かう。
職員室は特別教室棟の二階、教室は教室棟の一階だ。当然階段を下りる事になる。この階段、手すりなんていう気の利いた物は付いていない。若いモンには必要無いとは言え、小平先生くらいのご老人も居るのだから取り付けたって良いだろうに。こんな不平を垂らしたくなるのは、俺でさえ何度か滑り落ちそうになったからだ。勿論だが、平常時は問題無い。だが恩田と接触して陰々滅々たる気分、または胃痛から来る目眩で意識朦朧という時には、実に危ない。特に下りは。
しかし、まあ、今日の所は別に問題ない。剽軽すぎて笑えないこっくりさんから受けた精神的ダメージはほぼゼロだ。悠々と階下に到達する。
が、どうもおかしい。先に言っておくと、この学校に地下は無い。そもそも地下がある学校なんて俺は一つも知らないのだが、どういう訳だか、まだ下に続く階段がそこにあった。まさかこんな所に階段が……とは言えない程堂々と。更に加えれば、いつも通っている階段なのだから気付かない訳が無い。それに、奇妙にも踊り場の小窓からは日光が差し込んでいる。地下へ続いているなら有り得ない事だ。
何がどうなっているんだ。ふと足元に目を落とすと、そこには二階を示す『2』の文字がある。
俺は二階から一階へ下りた。しかしそこはまだ二階だった? 訳が解らない。
目の前の階段を更に駆け下りる。そして足の下の数字を見る。……『2』だ。
更に下りる。二階。飛び降りる。二階。転げ落ちる。二階。一歩一歩慎重に下りる。二階。今度は逆に上ってみる。二階。上に行っても下に行っても、二階だった。
おい、待て、待ってくれ。どういう仕組みだ。まだ五月だぞ、ホラーの季節には早いぞ。
俺の頭がどうかしちまったのか? いや、自問しなくても解ってる。全くその通りだ!
「どうしたんですか、先生。授業はとっくに始まってますよ」
階段に腰掛けて途方に暮れていると、どこから現れたものか、元凶としか言い様の無い恩田が、目の前に立っていた。
「恩田……!」つい掴み掛かりそうになって、腰が浮く。俺は何とか自制しつつ問い質した。「これはお前の仕業か?」
「何の事です?」
恩田はすっとぼけるが、その目を見れば事実は明々白々だ。
俺には負い目がある。一言物申したくなるのをぐっと噛み殺し、深い溜息に変換してからすっかり立ち上がった。
「……教室まで案内してくれるか」
「良いですよ」
生徒の後に付いて教室へ行く……滑稽だ。それに、恩田と一緒に階段を下りたなら正常に一階まで辿り着けたのだから、何とも言い難い。
こいつは、どうも俺の弱みを掴んで楽しんでいる様子じゃない。そういう考えに行き着いたのは授業中だ。
普通――行い自体が普通なのかは置いておくとして――人の弱みをその手にしたら、脅すものだ。そして脅しとは何かを要求する事だろう。金銭だとか、教師と生徒の関係なら点数や成績だとかの利益を。
ところが、恩田にはそれが無い。これまでチクチクとしていた、殆ど嫌がらせみたいな悪戯がより過激になっただけである。それにしたって間接的だし、怪我をするとか心が立ち直れなくなるとか、そういった度合いのものじゃない。ループする階段はかなり参ったが、結局は恩田自身が救出に来た。
脅迫の前に揺さ振りを掛けているのかも知れない。確かに効果は出ているだろうが、それと断言出来る感じもしない。かと言って愉快犯でもないだろう。さっきの恩田には、あの薄ら笑いが無かった。あれらは単なる攻撃……そんな印象だ。
ならどうして? 一体何の為に? 考えれば考える程分からなくなる。
「まあ、随分怖い事をするのね」
「怖いと言うか、気味悪いと言うか……」
「清水君、何かしたんじゃない?」
「と、とんでもない! 有り得ないですよ、ハハハ……」
やっぱり、悩んだ時の悩みの綱は乾先生だ。発端が発端だけに、乾先生にお伺いを立てるのもどうかとは思ったが、遠山では恩田がべったり張り付いているし、誰に相談するにせよ詳しい事情は説明出来ないのだ。
「怒らせた理由があったとしか思えないわね。本当に心当たりは無いの?」
「い、いやあ、無いですよ」
きっかけなら解ってる。だがそれで『怒る』というのは、何か違う気がした。
しかしここまで話して安心出来たのは、恩田は約束通り乾先生に告げ口していないという事だ。乾先生の態度はいつもと変わらない。いつも通り、自分の姪の事なのに、どこか他人事だ。
まあ、姪なんてそんなものかも知れない。そもそも、お姉さんとは折り合いが悪かったのではないかと思う。どうも恩田も乾先生も、その口振りからしてお互い仲良くやっている風には見えないのだ。
家庭の事情にくちばしを突っ込むのはどうかとは思いながら、一つ尋ねた。
「乾先生は、恩田の事をどれくらい知ってるんですか?」
「あの家の事情は大体話したつもりだけど」
「いえ、もっとこう……あいつの内面的な事と言いますか」
自分でも下手な言い様だと思うが、そうとしか聞き様が無かった。
「ま、大体は。好きな食べ物とかね」
食べ物の好き嫌いは『内面的な事』に含まれるだろうか。いや、それよりも、
「あいつに好きな食いモンなんてあるんですか?」
そもそもものを食うのか、恩田は。いやいや、思い返せば先日遠山が、昼食を一緒に摂るのだと言ってたか。
「そりゃあるわよ、人間だもの。例えばそうね、最近だと……オム……あ、やっぱりやめとく。またお喋りだって怒られちゃうから」
「もうそこまで言ったらオムライスしかないじゃないですか」
俺が笑うと、乾先生も「かもね」と笑い返してくれる。こういうちょっとした遣り取りで、俺は乾先生が好きなんだと改めて思い知るのだ。
そう言えば……恩田のお陰で告白が宙ぶらりんになっていた事も思い出す。今更言えない。あの時は寂しさから思い余っただけで、今この場面で面と向かって言える勇気なんて持ち合わせていない。寧ろ勢い任せに暴走せずに済んで良かったと、そう思う事にしよう。
「あ、そうだ。すっかり言い忘れてた」不意に乾先生は手を打った。「明日から三日間ここを空けるんだけど、大丈夫かしら?」
「丸一日? 出張ですか?」
「そう、大阪までね。講演会にお呼ばれしちゃって、断れないから仕方なく行くの。一泊二日の予定だけど、休暇がてらって一日余計に休みくれたのよね」
「そうなんですか。気を付けて行ってください。俺は大丈夫ですから」
俺『は』大丈夫。そう言ってから、一つ気掛かりを思い出した。
「……恩田は、大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫でしょ。しっかりしてるもの」
まあ、しっかりしてるだろうな。常人以上に。
とは言ったが、乾先生は考えた。
「でもどうなんだろう? 少し不安かも」
「不安……ですかねえ」
ウサギじゃあるまいし、別に二、三日放っておいたとしてもピンピンしている事だろう。殊、恩田ならそういった類の心配は皆無じゃなかろうか。一人で居る方がよっぽど落ち着く様な性質だし、寧ろ乾先生が居ない間に屋敷を呪いの館へとリフォームしていそうな、そんな恐ろしさはあるが。
「ま、良いわ。何とかしてもらいましょう」
乾先生はいきなり投げ出す様な事を言って、本当に脚を投げ出した。
正直な所、乾先生抜きで恩田の攻撃を耐え抜く自信は無い。かと言ってそれを白状しても、俺の不甲斐なさを見せ付けるだけだし、これから遠出をしようというところを不安にさせてはいけない。何とか凌がなくては。
取り敢えず、今日の所は家に帰ったらじっくり休もう。そうやって毎日ゼロに戻しながらやっていくしかあるまい。
「よう、おかえり」
帰宅すれば、相変わらず晶が酒をかっ食らっていた。
「人の気も知らないで……」
こいつが居る限り、心穏やかに休む事なんて出来ないんじゃないか? 呆れ返りながら玄関を上がる。すると……
「おかえりなさい、先生」
身の毛がよだつ、聞くだけで薄ら寒さを感じる声が俺を迎えた。
晶の隣に、床に足の届かない、小さな影が鎮座している。
「……お、恩田ッ?!」