5.事故る、付け込まれる 1/4
『サイアク』とは最も悪いと書く。若い奴ほどよく口にする言葉だ。しかし人生においての『最悪』とは、その単語の意味から考えると、一生に一度訪れるものである。
俺の人生はまだ四半世紀、平均寿命から考えるとまだ六十年程度。今までだって色々あったのだから、これから二倍以上の色々な経験をする事になるだろう。
なら人生最悪の事件は、まだこれから控えているかも知れない。知れないのだけれど、この時より悪く希有な状況はもう二度とやって来ないと思う。だから俺は、今この瞬間を恥ずかしげも無く、『サイアク』と呼ぼう。
人違いで、それも恩田なんていう最悪の相手に告白を聞かせてしまったのだ。
恩田はその一瞬こそ驚いた表情をしていたが、少しずつ顔付きを普段のニヤリと笑うものに戻していく。
「へえ」
顎をしゃくり、まるで憐れな昆虫を見る様に俺を見下ろしながら、蔑む様な声で言った。
「い……」
一体どうしてお前が、たぶんそう言おうとしたんだろう。でも俺は、急に恥ずかしさが顔や耳まで上ってきて、「イッツ、ジョーク」等という無意味な事を口走っていた。勿論、恩田はくすりとも笑わない。
「先生は叔母さんが好きなんだ」
「ち、違うぞ! いや違わないが、違うんだ!!」
何を言ってるか解らないと思うが、俺も何を考えてるのか解らなかった。兎に角先程までの決意がない交ぜになって混乱していたのだ。
いいや、もう言い訳のしようも無い。飛び起き、ベッドの上で正座になって手を合わせた。
「頼む、恩田! 今の事は乾先生に黙っててくれッ」
「どうしましょうかね」
恩田はとことん俺を困らせて楽しむつもりだ。それは解っている。でも……
「この通りだ。何でも一つ言う事を聞くから、それで勘弁してくれないか」
どれだけ軽率な交換条件か。どんな無理な事を言ってくるか解ったものじゃない。場合によっては、教師と生徒の上下関係を転覆させる様な注文が飛んでくるだろう。だが、この醜態を隠せるのなら、どういった無理難題でもマシだと思える。
「……別に」眼を細めた恩田は言う。「口止め料とか欲しくありませんから」
「ほ、本当か?!」
それは願ってもない。
何だろうか。眉間に皺まで立てて、より一層瞼を狭めるのは。憎悪か、嫌悪か……それだけじゃ言い切れない色が恩田の顔に募る。
そんな視線に射すくめられていると、不意にベッドを飛び降りた恩田は、背を向けてつかつかと離れていく。カーテンを開け放って去ろうとするので、
「ま、待てよ」
「何ですか? 誰にも言いませんよ。約束は出来ませんけど」
「そうじゃなくて! お前、乾先生に会いに来たんじゃないのか。良いのかよ、待たなくて」
「もう気分じゃありません」
答えになっているのかいないのか解らない返事をして、恩田は足音も無く去っていった。些か乱暴に戸を閉める音だけがして。
これが単なる恥ずかしい失敗談で終わったなら、どれ程良かっただろう。
俺がそう苦々しく思ったのは、そう遠くない未来の事だ。
翌日の事だ。昨日の失態などとっくに忘れていた――と言うか、そうする事で誤魔化していた――授業間の十分休憩中、職員室で仕事を片付けていると、音楽室から永井先生がやって来て俺に一冊のノートを突き出した。
「これ、何だか知りませんけど、清水先生に」
「俺に? 何です?」
教育の賜物か、それともテスト前で躍起になっているのか、ここのところ課題の提出遅れは無かったはずだ。
「何でしょうね。さっき授業終わりに女子生徒から渡されたんですよ。清水先生にって」
どうして清水なんぞにお使いしてやらなくちゃいけないんだ、とでも言いたげな顔付きだった。それは放っておいて、嫌な予感がしたから聞いてみる。
「……まさか、恩田ですか?」
「そんなまさか。さっきの授業は一年生ですよ」
言われてみれば、確かにうちのクラスの時間じゃない。
「誰からかは解らなかったんですけどね。貰ったらすぐ出て行ったみたいで」
俺が首を傾げながら受け取ると、「一応、渡しましたよ」と念を押してから、永井先生はさっさと職員室を出て行った。
はて、と表紙を眺めてみる。名前や教科の見出しは書かれていない。三十枚綴り六号サイズ、ごく普通のノートだ。新品の様で、汚れは無い。
ただ何となく……本当に何となくなのだが、どうも危険な臭いがする。気配と言うべきだろうか。
とは言え、渡されてしまったからには中を見ずにはいられない。取り敢えず一ページ目から、とノートを立てて表紙を開こうとする。ところが、丁度真ん中に何か厚い物が挟まっていたらしく、俺の意に反して、ぱっかりと見開きの格好で俺のデスクに広がった。
そのぶ厚い何かというのは、十円玉だった。一瞬には、どうして十円玉が挟まってるんだ、と疑問に思った。しかしその理由はすぐに説明が付く。
左側のページ、左上には『はい』と『男』という手書き文字がある。その反対、右側には『いいえ』と『女』。その下には両ページに跨って五十音表と『?』の記号があった。そして、挟まっていたはずの十円硬貨は、『はい』と『いいえ』の中間にどっかりと鎮座しているじゃないか。きっとその下には鳥居の絵がある。
誰でも解る。これは『こっくりさん』だ。
……恩田め! 俺にこんな物送りつけてどうしようと言うんだ。やれってか?
胸を怒りが掻き回し始めた時、俺が触れてもいないのに、十円玉がススッと動き始めた。
『よ』『ん』『だ』『?』
「いいや、呼んでない」
素早くノートを閉じる。間違い無く何かが降りてきた状態だった様だが、俺には関係無い。
しかし、随分口調が軽いな、こっくりさん。
「何なんだよ……」
やれやれ、とこめかみを押さえるべく手を離した隙に、今度はノートが勝手に開く。そして十円玉も自由に動き回る。
『そ』『の』『あ』『つ』『か』『い』『は』『ひ』『ど』『い』
『その扱いは酷い』
「いや、呼んでねえしさ……」
『折角来たのに』
「そんな世話焼きな彼女みたいな言い方されても……困る」
『こちらも困った』
「じゃあ痛み分けって事でどうだろうか」
何だろう。つい会話してしまう。こっくりさんと会話する俺……傍から見ればデスクに向かってぶつぶつ言ってる俺、物凄く気持ち悪いと思う。
『マジキモイ』
「もう帰れ、こっくりこの野郎」
現代風こっくりさんって、ムカツク仕様みたいだ。そもそもこれはこっくりさんなのか? 遠隔操作式ホバー十円玉とか、そういうオーバーテクノロジーじゃないよな?
「どうしたんです、清水先生? 何かお悩みで?」
小平先生がひょいと首を突っ込んで、こっくりさんを覗き込もうとしてくる。俺は慌ててノートを閉じた。
「い、いいえ、何でも無いんです! ただちょっと生徒のノートを読んでいただけで」
「そうなんですか? でもちょっと顔色が優れない様な……」
「いえいえ、ほら、この通り!!」
ガッツだのウルトラマンだの仮面ライダーだの、ありとあらゆるポーズを決めて、上半身全体で元気を表現した。それはそれで不審だっただろうが、小平先生は何かを諦めた様に自分の仕事へ戻っていった。
やれやれだ。
こっくりノートに目を戻すとまた開いていて、十円玉がこう言った。
『なおこのノートは自動的に消滅する』
最後の一文字に十円が被さるや否や、ノートはぶすぶすと煙を上げ始め、ついにはボウと火が起きた。
咄嗟に小平先生の玄米茶を引ったくったのは、迅速な消火活動というものである。
こっくり大作戦までの意味不明な悪戯なら、口止めの対価としては安い物だったかも知れない。
そう、恩田の攻撃は、まだまださも当然と続く。