4.告白 1/4
悪夢を見た様だ。いや、本当に悪夢を見た。
闇の中を見えない何かに追い掛けられている。走っても走っても、逃げ切れない。
その内躓いて転ぶ。そこをそいつは見逃さず、俺の上に覆い被さってくる。
苦しい。息が出来ない。口を塞がれている。
乾先生、助けてください――
そいつは何かを振りかざした。キラリと光る……五寸釘だ。
「やめろ、恩田……!」
「ぶべぁ!!」
本当に息が出来なかった。顔を覆うそれを突き放して見ると、物凄く肌色だった。
いや、包み隠さず言うなら、それは胸だった。オブラートに包まず言うならおっぱいだ。
「うわ、てめえ、アキラッ」
俺の隣でぐーすか寝ていたのは晶。家の中を下着姿でふらふらする恥じらいの『は』の字も無い女だ。
残念ながら、彼女じゃない。残念な俺の姉だ。
「起きろ! ここは俺の部屋で、お前の部屋は隣!!」
晶はいい歳して毎日遊び回っている。一週間以上帰ってこない事もザラだ。ホテルに泊まる様な金も無いから、大抵日替わりで色々な男の所に泊まっているらしい。顔は俺とそっくりなのに、切れ長の目は女として良いベクトルに働く様で、男にはモテるのだ。無駄に育った胸も大きな――二重の意味で大きな――武器だろう。そうやっていつの間にか居なくなり、いつの間にか帰ってくる。そして帰宅する時は大抵酒に酔っているから、度々こうして部屋を間違える。
「んあァ? ンだテメェ、ドーテーも度を過ぎると姉貴を襲う様になりやがンのか」
「襲ってねえよ。寧ろ逆だ、逆! 俺を殺す気かよ」
こんな姉と小さい頃から二人きりで過ごしてきてから、口の悪さが移ってしまったんだ。
「それに俺はお前と違って貞節ある大人ってだけだ。解ったらさっさと自分の部屋に戻れ」
「面倒臭ェ、だりィ、頭痛ェ。だからあと五時間くらい寝かせろやタコ」
「昼まで寝るつもりかよ。と言うか、大体から今何時……」
目覚まし時計に目を遣る。七時十分。
「七時過ぎてんじゃねえか。今から寝たら昼って言うか、昼過ぎ……七時十分だと?!」
家を出る時間はいつも六時半だ。
「目覚ましなら五月蠅ェから止めたぜ」
「お前に平日の感覚は無いのかッ」
これはまずい。まずいなんてモンじゃない。遅刻確定だ。
大慌てで支度を始める。
「着替えなくちゃならねえんだから、さっさと出てってくれ」
「恥ずかしがンなよ。一緒に体を洗い合った仲だろ」
「小学生までの話を持ち出すんじゃない!」
ええい、こんな馬鹿に構ってる暇は無い。パジャマを脱ぎ捨ててシャツを着る。ネクタイを締めていると、ずるっという音と共に、布の感触が下半身を滑り落ちた。
「……何してくれてんだ、晶」
背後にしゃがみ込んだ晶が何を見ているか。それは敢えて考えない事にした。
「慌ててッから、手伝ってやろうと思って」
「パンツは昨日替えたばかりだ」
「成る程そうか」
するすると上に戻っていく。
「綺麗なケツしてンだな、テメェ」
「五月蠅い、黙れ、部屋に帰れ」
戦闘民族の王子なら「下品な女だ」と言っていたところだ。
お袋は随分昔に死んだ。たった一人になった親父も、伴侶と一緒に子供への愛情も無くしてしまったらしく、家に帰ってこなくなった。俺が小さな頃だけ世話に来てくれた親戚の小言を頼るなら、外に愛人を作りそちらで寝泊まりしてるらしい。十数年経った今でも親父から連絡は無いし、今現在どこで何をしているのか知らない。知りたくもない。
物心ついた時からそんな家だったから、俺は慣れてしまった。お袋の事も親父の事も、人から聞いた話でしか知らない。でも、四年早く生まれた晶は違う。多分お袋が死んだ記憶もあるし、暖かかった家庭が崩壊するのもその肌で感じた。晶は一旦すっかり荒んでしまってあの性格が出来上がり、俺の世話を焼く一方で、孤独を覚えていたんだと思う。
たぶん、恩田も同じだ。
担任として恥ずかしい話だが、恩田の家も両親が居ないという事を昨日初めて知った。父親も母親も健在だけれど、両親とも仕事で長い出張が多く、恩田は幼い頃から独りぼっちの時間が長かった。そういう家庭だと『家』の概念が薄れるものらしく、そして『家族』という絆も無くなる様で、殆ど他人の様な状態が続いている。お互い連絡も取り合う事はなく、ただ銀行振り込みの金だけが唯一の繋がりで。乾先生からそっと聞かされたのはそんな話。
だから、叔母にあたる乾先生が時折訪ねて世話をしているそうだ。俺に隠していた理由は、恩田の口止めもあり、俺がやりにくくなるだろうという配慮もあり、その他諸々……水臭いとは言えない。人には話しにくい事だと俺も解ってる。
「重役出勤ですなあ」
職員会議後にのこのこやって来た俺に、小平先生はお茶を出してくれながら言う。
「今日に限って遅刻とは、損しましたねえ、清水センセ」
「何かあったんですか?」
「乾先生と杉浦先生の一騎打ちですよ。杉浦先生が何か言うのを、真っ向からズバズバ斬り伏せてくんですからな、そりゃもう天晴れな大活躍で」
実に痛快と笑う。
「杉浦先生に言い返した恩田君もさることながら、臆せず反論する乾先生も――女性は強しですな、清水センセ」
「そ、そうですね。はは……」
俺が弱いと遠回しに言われた様だが、その通りだから仕方ない。いや、怖いもの知らずの恩田と、剛毅な乾先生、この二人が強すぎるのであって、タッグを組まれたら誰も敵わない気がする。
乾先生は恩田側の人だ。そういう事情を知ってしまった以上、余計に迂闊な事が出来なくなった。
大丈夫なのか? 俺。
杉浦先生に対抗したただ一人の生徒として、恩田は英雄扱い……される様子は無い。恩田だからこそ意外性は無くて、やっぱり恩田だから尊敬ではなく畏怖の意味で一目置かれた、といったところだ。あれが恩田でなければ今朝のホームルームはお祭り騒ぎだっただろうに、寧ろ真逆、通夜の如くしんと静まり返っている。
「……あー、今日も三者面談だから、予定された奴は各自確認してうっかり帰ったりしない様に。以上、終わり」
乾先生の考えは正しい。やりにくい事この上無い。実際のところ、恩田は素知らぬ風を気取っているし、俺からこのタイミングで恩田に声を掛ける事は無いのだが、どうにも必要以上に意識を持って行かれる。だからさっさと逃げる。
正直言うと、少し安心した。何事も無くとはいかないが、恩田が、杉浦先生に目を付けられた程度で済んで、ほっとしている。家庭を知った同情じゃない。ただ、問題児というのは他の生徒より気を遣う、それだけの事だ。
これで一旦落ち着ける……最近色々あっておざなりになっていたが、中間テストの問題を作らなくちゃならない。先生のお仕事は意外と膨大なのだ。
「忙しい、ああ忙しい、忙し――いふすッ」
人が機嫌良く一句詠んでいるところに、どういう訳か後ろからタックルしてくる奴がいた。背中に当たる頭、掴んでくる腕は腰の高さ、やたら小さい質量は、ちょうど恩田と同じ背格好だ。いや、恩田はこんな事をしない。攻撃してくるとしたら呪いか飛び道具の間接攻撃であって、体当たりはあいつの流儀じゃない。
振り返ろうと身を捩ると、背後の奴も一緒に振られる。右から向けば左に、左を向けば右に。俺は自分の尻尾を追い掛ける犬か。
違う。犬はこいつだ。
「おい、柴、離せ!」
「うわぁん」
何を泣いてるんだか。
「話がしたいなら兎に角その手を離して俺の正面から来い。な、だから落ち着け!!」
ええい、一難去ってまた一難とはこの事か。
柴恭平。俺のクラスの生徒。何だか似た名前の俳優が居た気がするが、こいつは役者とは程遠い。背の順で並ばせると、女子の恩田と並んで先頭に来るチビだ。童顔で、名は体を表すと言う通り、柴犬の様な――まあ少々気持ち悪い言い回しになるが――愛くるしい顔立ちをしている。
別に虐められたりもしていないし、体格に収まるくらいの性格だから、男女問わず可愛がられているのだが、よく一人でめそめそしている。見掛ける度に声を掛ける様にしているんだが、何故かいつも逃げられた。今度の様にこいつから泣き付いてくるのは初めてだ。
廊下では話しにくいと言うので、男子トイレで話を聞く。ホームルームを早く済ませた分、授業開始までまだ時間があるのが幸いだ。
「うぅ、ひっく、うっく……」
「泣くな男だろう」
柴はこの身長にこの顔でこういう泣き虫だから、高校の制服さえ着ていなければ小学生の様だ。だから扱いもつい子供にする態度になりがちだ。
「何があったのか落ち着いて話してみろ。先生が相談に乗ってやるから、な?」
「せんせぇ、ぼく、ぼく……うぇ」鼻を啜り啜り、嗚咽を漏らす。「好きになっちゃったんですぅ」
「げ……いや、気持ちは有り難く頂戴するが、俺はノーマルだし……」
「先生じゃないですよぅ……恩田さんですぅ」