3.親の顔が見てみたい! 2/4
「田沼先生は去年、恩田の担任でしたよね」
何も言わずコーヒーを出してくれたのだが、味も香りも解ったものじゃなかった。部屋に充満する薬品臭もさることながら、やたら精巧な人体模型がこちらを向いて内臓をさらけ出している所為でもある。
「ああ、恩田さん……」
「三者面談はしましたか?」
質問すると、田沼先生は天井を仰いで、顎を撫でる。髭のジョリジョリという音が聞こえてきそうだ。
「……いえ」
「してないんですか?」
「はあ、まあ……」
要領を得ない回答だ。本当に物理学に通じた人物なのか疑いたくなる。理知的じゃない。
「恩田の保護者に会った事は?」
「無いですねえ……三者面談はやりましたが、恩田さんの保護者は……」
「来なかったんですか?」
「ええ、まあ……拒否されました」
何だそりゃ。
「拒否って! 先生は黙ってたんですか?」
「まあ、電話はしましたけどね……誰も出んわ」
いきなりそんな駄洒落を言われても、笑えない。
日曜日の夕方から雨が降った。梅雨にはまだ早いのに、しとしととした、長い陰気な雨だ。雨は、日が変わり月曜の朝になっても止まなかった。
子供達に落ち着きが無いのはいつもの事だ。けれど、この天気の所為か、三者面談が始まる所為か、教室に焦燥感やら緊張感やらが立ち込めている。
恩田は頬杖を突いて、じっと窓の外を見詰めていた。俺の連絡は聞いているのか、いないのか。表情からは何も解らない。でも、真っ黒な瞳が陰鬱な空模様を写していた。
そっくりだ。
「まりあさんは明るく活発ですから、クラスメイトの信頼も篤い様です。十日の出席停止もハンディキャップにはなってないでしょう……成績は兎も角」
割と中心にパーツの寄った丸顔も、趣味で選ぶアクセサリーだろう眼鏡さえ、瓜二つな父娘だった。油断してしまったら思わず笑ってしまいそうな程、そっくりなのである。
けれど性格の方は似ていないらしく、遠山父は俺の言葉にゆっくりと二、三度頷くばかりで、寡黙だ。
「それで、進路はどうする? 考えてるだろ?」
「んー、ぶっちゃけ」ぶっちゃけ話にされた時点で、続きは読めた。「考えてないッス」
「お前なあ」
保護者の面前で子供を叱咤する、というのは実にやりにくい事だが、それは避けられないし、避けてはいけない。
「良いか、遠山。将来を見据えるって事は、今の自分がどっちの方向に足を踏み出せば良いのか、解る様になるって事で……」
「あ、将来したい仕事はあるんス」
これからが良いところだったのに! いや兎も角、それは進路を決めているのとは違うのか。
「……話してごらんなさい」
「小説家になりたいッス」
「ほー!」
意図せず脳天の方から妙な声が出る。それ程、
「意外だ」
「こう見えて文学少女ッスから」
その言い回しは古い気がするが、まあ置いておくとして、確かに小説家志望となると、進路は決めがたいな。
「立派な事だとは思うがな、しかし……俺も一度は志した事があるが――」
「あるんスか?!」
「まあな。それで大学に行って国語を学ぶと、少し別の事に目移りしちまうモンで」俺もその口だ。「かと言って、適当な仕事に就くと離れづらくなるだろうしな。要は志望が本気で、初志貫徹出来れば良いんだろう。でもそう考えると、進路は何でも良いって事になっちまう。難しいところだ」
国語教師としては応援したいのだが、頑張れなんて気楽に言ってやる事も出来ない。小説家と言えば聞こえは良いが、つまり『文学』という最もらしいジャンル分けがされているだけであって、音楽家や絵描きと同じ、いわゆる『アーティスト』だ。遠山にどれだけの才能があるのかは知らない。しかしどんなに才能があっても、飯の食えない作家は大勢居るのだ。創作する事は何でも素晴らしいけれど、それを仕事にするというのは、深い霧に入っていく様なもの。俄には賛成してやれない。
「お父さんはそういう話を聞いてましたか?」
ここは保護者の意見を仰ぐべきだろう。
「聞きました。好きにさせようと思ってます」
回答は実に簡潔だった。
「娘の人生ですから」
例え親であっても、大人が子供の人生に干渉するべきじゃない、という風に聞こえた。言葉少なな人の一言はこんなにも重く響くのだと思い知らされる。
が、
「結局は親馬鹿ッス」
「ええ、親馬鹿です」
遠山親子は息もぴったり、腕を突き出して親指を立てた。『カエルの子はカエル』の逆説が見事に証明されたのだ。
遠山の父親は、車を玄関前に回すので先に行った。
廊下に並べた椅子は、次の順番を待つ親子の為だ。けれど次の親子は居ない。座っているのは遠山と、その隣で俯く恩田だけ。
「ちゃんと伝えたんだろうな? 全く……」
呆れてしまった。三者面談は強制じゃないが、とは言っても任意の事情聴取みたいなものでもないし、保護者としての義務くらいには認識して欲しいものだ。
金曜日の放課後、田沼先生の話を聞いて不安になり、恩田の家に電話してみた。結果は田沼先生から聞いた去年の話と同じ。時間を置いて何度か掛け直したが、やはり不通。
そもそも、恩田がちゃんと両親に話をしたのかすら疑問だ。
「諒はちゃんと話したはずッスよ」
「いや、遠山には聞いてないんだが」
「自分が言うんだから間違いネッス」
強い口調で断言されてしまっては、何も言えない。遠山を退けて追及したとしても恩田は喋りたがらないだろうし、遠山が恩田の事を誰よりも知っているのも確かだ。ここは信じる事にしよう。
「……解った。単に遅れてるだけかもな。もう少し待ってみるから、遠山、お前はもう帰れ」
「え、でも……」
遠山は恩田を見る。恩田は横顔を向けたまま押し黙っていた。
「友達を心配するのは良いがな、お前の親にまで心配掛けさせんな。そら、帰れ帰れ」
しっしと追い払う手付きをすると、遠山は恩田の手にそっと触れてから、渋々といった様子で立ち上がった。
友人に出来る心配りは、何もただ傍に居てやる事だけじゃない。恩田はきっと誰かに心配されて喜べないのだから、それを尊重してやるのもまた思い遣りだ。遠山に理解出来るかは解らないが。
「じゃあ、お願いするッス」
「おう、また明日」
遠山は帰っていった。廊下を折れる時、ちらりと振り返った。
見送ってから、俺は恩田と席を一つ空けた椅子に腰を下ろす。
「お前は本当に迷惑な奴だよな、色んな意味で」
恩田のお陰で、心穏やかに、平和に過ごせる日は一日たりとも無くなった。まるで世界がこの空恐ろしい問題児を中心に回っているかの如くに思えてしまう。例えるならアリ地獄、ブラックホール……いや、排水口だろう。吸い込まれない様常に足掻き続けていなければならず、油断するといつの間にやら飲み込まれかけている。たちが悪い。誰も彼もが、恩田に振り回されているのだ。
「そうだ。迷惑と言やあ、お前は見えるのか? この前屋上で言ってただろ。幽霊とか妖怪とか……」
恩田は答えない。ただ「何を言い出すんだ」と言いたげな横目で反応する。
「お前の言葉の力はすげえよ。俺には見えないモンでも、本当にそこに居るんじゃないかって怖くなっちまう。お前の才能なんだろうな」
呪いなんて誰にでも出来る事じゃないだろう。「何を馬鹿言ってるんだ」と思われたらそれでおしまいだ。本当だと思わせられる、信憑性があるから効くのだ。なら、
「お前の言葉でさ、『大丈夫』とか『心配しないで』とか、言ってやれよ。お前が言うなら、そういう友達にする優しい言葉も効くんだろ、きっと」
たぶん、少し腹が立っている。保護者が来るか来ないかなんて、この際どうでも良い。
遠山は本当に良い奴だ。恩田にとっても良い友達だろう。だったら、恩田も遠山の良き友人で居る努力をするべきじゃないのか。遠山の心配を和らげようとしない恩田が、苛立たしかった。
恩田はやはり答えない。肝心な時に何も言わない。だからいけないのだと思う。しかし、暫くの間を置いてから、恩田は俺にこんな質問で返した。
「……先生は、私が『本当は親に話してない』と言ったら、それも信じますか?」
「は……?!」
どういう事だと問い返そうとした時、廊下の奧から呼ぶ声がして、俺は立ち上がった。次の面談相手が、十分も早く到着したのだ。
挨拶をしてから振り返ると、恩田は鞄ごと姿を消していた。