1.オンリョウ 1/4
この物語はフィクションです。
実在の個人・団体・呪いとは一切関係ありません。
一重瞼は生まれ付き。
「世の中には二つの事があるだろ。『やらなきゃならねえ事』と、『やりたくなくても仕方なくやる事』。どっちにしろ『やる』一択だ。もっとも一択なんて言葉は日本語にねえが、それは兎も角として」
三白眼は父親似。
「てめえの『やりたくねえからやらねえ』ってのは、どの道理にも通らねえだろ。単なる逃げだな。どんな理由付けたところで無駄だ、論外だ。馬鹿が馬鹿なりに考えた申し訳には何の意味もありゃしねえよ」
口の悪さは家庭環境の所為。
「寧ろ、言い訳を考えるのに使った時間をもっと有効活用しろよ、と言いたいね、俺は。そうだろ? たっぷり用意してやったんだ、時間は。良いかよ、言い訳ありきで行動してると、言い訳しかねえ人生が出来上がるぞ。てめえの人生てめえで決めるってのはおセンチな餓鬼がよく言うがな、何事もなあなあの、無為でその場凌ぎみてえな生き方で満足か? それで万事良しと思うか? もし思うんだったら、そんな考え俺が真っ向から否定してやる。糞だ、屑だ、塵芥だ。何とでも言えるぞ」
早口なのは……何だろうか。恐らく頭の回転が速い所為だ、と、しておこう。
決してキレてる訳じゃないはずだ。そう、決して――だ。
「単語の意味調べたった三十くらい、三日も期限があって、しかもそこから二日も待たせておいてレポート用紙一枚分も出来てねえとは、どういう事だッ」
バン、という音が職員室に響く。思わずデスクを叩いていた様だ。平積みになっていた書類と一緒に、女子生徒の丸まった肩も跳ね上がる。「だってぇ」なんて、蚊の泣く様な声が、不自然に艶っぽい唇から漏れた。
「部活が忙しくて……」
「ああ、もう。お前らはどいつもこいつも、二言目には部活部活部活だな! 部活なんてやらなくったって卒業は出来る。だけど課題に関しちゃ卒業が危ぶむんだぞ」
こんな事を大声で言ったら、体育会系の先生方に怒られそうだが、彼らが体育科を始め各準備室に引き籠もっているのは確認済みだ。そういう冷静な――或いは狡猾な――判断が出来るのも、頭に血が上っているのじゃない証拠になるだろう。
生徒は不服そうだ。その気持ちは理解する。部活、殊彼女が所属しているバレー部や主たる運動部に関しては、放課後遅い時間までの練習、更に朝早くからの練習を半ば強制している。勉強に使える時間はあまり無いかも知れない。
とは言え、とは言えだ。しっかりちゃっかり髪の毛にヘアアイロンを当てて、口にグロスを塗って、教師にバレないオシャレを楽しむ時間があるのだから、所詮は言い訳なのだ。その点、男子の方がしっかりしている。文武両道で優秀な生徒は少なくない。結局、部活で汗水垂らしてるのにその上に勉強なんて可哀想でしょ、女子だし……とか何とか、憐れな自分に酔ってるだけなのだ。
ならば俺は、何の部活の顧問でもない国語の先生としてはっきり言おう。勉強が出来なくなる部活なんぞ辞めちまえ! 意味無い、意味無い。どうせあらゆる事で無名なんだから、やるだけ無駄。
「顧問の先生には俺から伝えておいてやる。だから今日は残ってでも仕上げろ」
「で、でも練習出ないと……」
「練習なんざ後からでも出来る。だが赤点は取り返しが付かんぞ。留年なり退学なりして一生棒に振る覚悟があるなら、好きにしろ」
言い放った端から、ズバッ、と切り込む音がする様だ。子供の柔な心には鋭利過ぎる言葉だと自分でも思うが、これくらいでないと部活の呪縛を断ち切る事は出来そうになかった。
だけど、言の葉が余計な部分に切り傷を作るのは、ままある事だ。
見る見る女子生徒の瞳が濡れて、終いには伏せた睫毛を伝って、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。前で合わせた手がスカートを握り、震える。
「な、泣くくらいだったら期限守れよ! ほら、もう行って良いぞ。お前が課題出すまで俺も残ってるから」
しっしっと手を払い、生徒を教室へ追い返した。
泣かれるのは、仕事柄たまにある事だ。でも、どうしたって慣れない。女子、いや女性の涙は特に心に突き刺さるものがある。
少し胃が痛んだ。
「清水センセ、清水センセ。ほら、お茶でも飲んでしっかりして下さいな」
さっきまで素知らぬ顔をしていた隣の小平先生が、そっと麦茶を差し出してくれる。
「ど、どうも……」
教職に就いて二年目の若造が言うと無礼かも知れないが、教員生活三十年、定年間近の大ベテランである小平先生は、よく気が付く人だ。砕けた性格だから相談もしやすいし、こちらが言いにくそうにしていると気を利かせて声を掛けてくれる。
「さっきの子、バレー部でしょう? 顧問は杉浦先生でしたか」
おまけに生徒の学年、顔と名前、所属部等々のプロフィールを把握する能力に長けてる。たまに俺が受け持つクラスの事を俺より知っていたりするのだから、凄まじい先生だ。
まあ、ベージュのポロシャツ姿で湯飲み茶碗を両手に持っている姿は、実年齢より十は老けて見えるという、完全なる『お爺ちゃん』なのだが。
「杉浦先生はどう思うでしょうねえ」
それも俺を苛む要因。
杉浦勝・四十二歳は、スポ根ドラマを地でいく――と言うより多分に影響を受けた世代の――人間だ。話題の九割はスポーツであり、趣味は青春時代の血と汗で汚れきった思い出話をする事。運動こそ全てといった人物だが、何故か社会科教師であり、具合の悪い事に生徒指導部を牛耳っている。この学校において、運動部至上主義的な悪しき風習を産み出した主たる原因は彼にあるのだ。
閉門時間までの練習なんてザラだし、毎朝のトレーニングに一分でも遅刻すると体罰スレスレの仕打ちが待ち受ける。長期休暇毎の強化合宿で部員は憂鬱になり、皆期末試験を散々な結果に終わらせる。何の変哲も無い普通校でそれほど運動に力を入れる事は無いはずだが、彼自身のバレーでオリンピック選抜選手という華々しい経歴のお陰で、体育科教師達は右へ倣え後に続けとスパルタ指導を推し進め、部費は文化部より運動部を中心に多く割り当てられる様になってしまった。
いや、そんな学校の内情は最たる問題じゃない。兎に角嫌な男なのだ。子供達、いや将来スポーツ界で活躍する子供の『恩師』になる事だけを考えている。要するに英雄志望が強く、自分の望まない生徒には容赦が無い。そしてそれは生徒に自らの方針と違った教育をする教師にも同様。事の次第を話して、「ああ、そうですか」とか「しょうがないですね」とか、百九十センチ超の巨体に二つの意味で見下されるのが、凄まじいリアリティで想像出来るから余計に胃がキリキリ痛む。
「いえいえ、困り事はそちらじゃなくてね、あの子の事ですよ」
俺の事は取り敢えずどうでも良いんだと言われた気がしたが、確かにそちらの方が困った事になりそうだ。生徒を部活に縛り付けているのは杉浦先生その人だと言うのに、その癖「部活に支障が出ない程度に、勉強もやれ」と若干矛盾した事を宣うのだから、
「課題遅れが元で部活を一日休むとなると――どうなる事やら」
「ああ、あの人なら俺よりもっと酷い事を言ったりやらせたり……うぅ」
全く、俺はどうしたら良いんだ!
俺は何も、生徒の人格を貶めたくて、ただがむしゃらに責め立てたくて、敢えて汚い言葉を使って叱咤しているのじゃない。俺は生徒達が好きなんだ。
子供は無知だ。子供は馬鹿だ。人の頭を容器に例えるなら、餓鬼の頭は殆ど空っぽの瓶だ。しかし妙に凝り固まった思想も、毒された概念も詰まってない。だから、いくらでも可能性がある。
間違った物事を注ごうとするものは、沢山あるだろう。テレビのスイッチを入れれば世の中の仄暗い出来事ばかりが目に尽くし、杉浦先生の様なエゴを押し付ける大人も大勢居る。何が正しくて何が間違っているか、そういう価値観のまだ無い瞳は全てを受け入れてしまうのだ。それが元で、薄い硝子の瓶は脆くも割られてしまう事だって起こり得る。
誰かが導いてやらなくちゃならない。思想や思惑を植え付けるのじゃない。世の中を取り巻く事象を判断する、自分自身を持つ様にだ。それが出来るのは、最も身近に居る大人、親だろう。その助力が出来るのは、俺達、学校の先生だ。
誰かの親じゃない俺が、教職を選んだ理由でもある。目付きの悪さ、言葉付きの悪さというハンディキャップを背負ってでも、未来ある子供達の世話が出来るこの素晴らしい仕事に就きたかった。
けれど、実際やってみると難しい仕事だ。そして、子供達への愛情も若者らしく滲み出す青臭さでしかなくなる。仕事に慣れてきて職場の人間を見る様になったこの頃は、それを痛感してしまうのだ。文字通りに、胃の痛みで。
「ちょっと、胃薬飲んできます」
「はいはい、お大事に」と気遣う小平先生の声を背に受けて、廊下へ向かう。麦茶もまだ残っているし、流しは職員室にもあるのだが、薬を飲む姿を隠したかった。ストレス性の胃炎に悩まされているのは、小平先生と一部の教員にしか知られていない。他の先生方の間で俺は『生徒に厳しく指導する先生』で通っているから、あまり弱みを見せたくないのだ。さも平然と職員室を出て、向かいのトイレでこっそり飲むのが常。
と……廊下へ一歩踏み出たところで誰かとぶつかった。普通こういう場合は、他人となら他人、顔見知りなら顔見知りと、衝突した相手の事を認識出来るものだ。が、この時俺は、俄にその判断が出来なかった。見えなかったのだ。視界にぶつかった相手が居ない。何と当たったのかさえ、職員室の出入り口前に物を積んでおく事はないだろうという瞬間的な推理と、腹の辺りの感触だけで恐らく人だと結論付けたに過ぎない。
左右を見渡しても人影は無い。昼休みの職員室前なんてひっそりしたものだ。立ち寄る生徒なんて、先程みたいに叱られに呼び出された奴くらいしか居ないだろう。
おかしい。確かに人と正面衝突したはずだ。なのにその姿が見えない、ということは……幽霊としか思えん。
「……先生」
ギクリ。視界の下端からおどろおどろしい声がする。脊髄を這い上がって、脳天から手足の先まで痺れさせる様な、おぞましい声だ。ひやりと冷たいものが全身を嘗める錯覚がした。
そっと視線を下方へスライドさせる。
黒い髪。日本人形に似て真っ直ぐだ。キューティクルの反射光を『天使の輪』と呼ぶそうだが、こいつの場合のそれは間違っても天使と呼んではいけない。こいつは天使ではなく、悪魔なのだ。
幽霊だと思ったのは、あながち間違いじゃなかった。
前髪の隙間から覗く恐ろしい双眸に刺し貫かれ、悲鳴を上げそうになる。実際に出たのは声無き絶叫だったが。
「先生、人とぶつかったらまず言う事があるでしょう?」
血が通っているのか疑う程の青白い肌をした小娘だが、切り揃えた黒髪の下から突き出した鼻が赤い。
「す、すまん……恩田」
こいつの名前は、恩田諒。オンリョウだ!