気分で書いてみた、価値基準について「次は美がこの世を支配する」
この文は評論家の岡田斗司夫さんの講義の考察をしました。
昔は王や殿様がいて身分が定まっていた。この時代は民が家業を受け継ぐためにしつけを受けていた。
その後産業革命が起こった。それにより工場で働くための基準を満たすための教育として、国民に国民教育を画一的に与えた。
その中で、同じ身分である人の中からエリートが生まれるようになりその人との格差が気になるようになった。そして画一的であるよりは人の個性を武器として競争する方がよいという考えのもと、市民教育が行われるようになった。それが現代である。今は身分の高い人を選挙などで決めるようになった。
しかし少しずつその風潮も変わり始めている。
昔よりも情報伝達速度が急激に上がり、趣味に対して同じ時間の間に多くの情報を得られるようになった。それと同時に会社などの仕事でも時間がより貴重なものとしていかに時間ロスを減らすかというタイパを考えるようになった。
それに加え少子化が進んだことで子育てに対して寛容になる姿勢が日本社会で強まった。
こうした時間の節約と子供の面倒の見る時間の増加を進められている社会になったことから、上昇志向の考えよりも役所広司の映画の特徴としても現れた「うえに昇ることよりも身の周りの小さな幸せに重きを置く」考えが評価されるようになった。その重きを置く先は各個人の趣味や人間関係である。
人間関係において、人の生存本能にもあるような「群れ全体で仲良くして生き残ろう」という気持ちが無意識にあるからか、SNSにより気が合う人とつながることが容易になったこともあり対面またはオンラインで多くのこと、特に趣味を分かち合うようになった。
このように、競争よりも皆でシェアしていこうという流れがある。趣味をシェアする場合、そのひとつに推し活というものがある。推し活では個々人がアイドルを対象にして活動しているのをよく見かける。これをもう少し遠目から見ると、アイドルという楽しみを多くの人がシェアしているように見える。なぜアイドルをシェアするようになったのだろうか。これを本題にしていこうと思う。
なぜアイドルがメディアでよく取り上げられるかというと、最近のSNSで世界規模で使われるとのはTiktokやInstagram、YouTubeといった映像のものだ。世界規模で使われる文のものはX(旧Twitter)くらいだ。これらを使うことで少なくとも日本語で話している人気な方は日本で大きな影響力を持つ。また、これらで流れる映像は多くの人々の個人の娯楽として使われるのが主流になっている。勿論、文であったり写真もあるのだがやはり映像の方がより身近に感じられ、わずかなスキマ時間をあまり頭を働かせず気軽に埋められるのだ。その結果、映像から読み取れるものは人が中心にして撮られているものが多い。中でも、そのような短時間の映像から読み取れる、そこにうつる人の良さは以下のようなものからしか読み取れない、厳密には読み取りづらいと言えるだろう。
容姿と、性格の中の魅力と言動のレベルの高さ。
自身の活躍を望む人は、メディアで生きる覚悟を持った上で印象を残しやすくするために、容姿のなかでも顔をよく見せることが大事だ。そして、性格については短時間からでも「誰でも」読み取れる魅力、特に少し「普通の人はあまりしない」変わった言動をすることとして表れる。大きくずれていると敬遠されることもある。しかし読み取れないものではそこから魅力は出てこない。また、言動のレベルに関しては映像で流れる故に立ち振る舞いを読み取ることができる。立ち振る舞いは大きく分けると、言葉と行動である。そのうち、行動の方が言葉よりも視覚的にわかりやすい、つまり「誰からも」読み取りやすい。その行動のうち、演技や素早い適切な反応というものも目立つかもしれないが、それより行動のレベル、技術の高さとしてはダンス、特に音楽に合わせたダンスが一番娯楽として楽しみやすい。
これらを基にどのような人が人気になるのかというと容姿とそのうえでの性格も含めたダンスのできる人だ。これに当てはまる人は、大人の場合アイドルだろう。勿論子供でも気に入る可能性はあるが、自身と直接関わらなくても自分のことを応援してくれると思うだけで、その存在がもういない人からしたらそれはなかなか気分が良くなるものだ。おそらく、子供の場合はアイドルに対しても興味を持つかもしれないが、他の多くのものも気になりアイドル一筋ということはあまりないはずだ。
また、人々は娯楽として楽しんでいるものに対して、神への崇拝と似た精神を持つことが増えた。ありがたいと思うことに対して「神」と言ったり、好きな漫画を3冊買ったうちの「布教」用があったり、好きな作品のモデルとなった土地へ訪れる「聖地巡礼」などの例がある。
神への崇拝の中で、特にもう一つの特徴として見られるのが神に近づきたいと思うことだ。
主に、ある状況で神ならどのように考えるか、神はどのような見た目でいるか、神が思う理由をたどるために同じ場所を訪れる、といったことだ。
しかし、神という宗教的なものとは絶対に違う点がある。生きているのだ。行動して、会おうと思ったら十分に会える。遠くても、生きている存在を感じることができる。結果的には師匠に憧れる弟子のようなものだ。
しかし神からしてみると、自身のことをほかの人から知りたいと言われ、多くのことをほっといてはくれない。さらには、自身の美点だけでなく欠点まで晒される可能性は十分にある。それにより非難を浴びると、「生きている」アイドルはその影響を受ける可能性も十分にある。
これらを踏まえると、SNSによって、アイドルという役職は容姿とその人の魅力、ダンスの実力を兼ね備えている美点があることで、普通の人とは違う特権的な身分を得る。これは、アイドルという神が、推し活をする人つまり信者に影響を与えることができることを表す。一方で神は信者によって支えられているため、信者にとって都合の悪い神は神から容易に外されるとも言える。
人は内面的にも外面的にもどちらにしても美しいものを好きになる。しかし格別の美は普通の美とは違う特別な関係を持つ。
格別の美は人を支配しているが、人もそれを支配している。しかし個として強い支配力を備えているのはやはり美だ。
こうしてアイドルは社会資本として、人権の一部を剥奪されるかわりに特権的な身分を得て今日も人を支配するのだ。
お読み頂きありがとうございます!
この文は前書きにもある通り、岡田斗司夫さんの講義である教育論を参考にしました。今回はその講義のなかで語られていない、「美が支配する」といえる過程が何であるか気にったので考察してみました。下記にもとにしたリンクを貼っておきます。楽しんでいただければ幸いです。
https://youtu.be/OqrMU3piJhI?si=KM1UQkA-3CySc_ut
改めて、最後までお読み頂きありがとうございました!




