ベッカライウグイス② なぞの幼稚園
ベッカライウグイスのある朝、リスさんと私は工場での仕込みを終え、いつもならばお客さんが座るカウンターで、コーヒーを飲みながら一休みしていた。
カウンターは、店の扉と同じように、年月を経た重厚な木材でできている。濃い茶色の木目と木肌の色は区別が難しいほどに混じり合い、鈍く光る。傷の記憶さえ美しく見え、長い間、ここでたくさんの人たちがパンを食べ、コーヒーを飲み続けてきたことが分かる。
カウンターが据え付けられている壁には、大きな嵌め殺しの窓があり、朝日が差し込んでくる。お客さんがここに座る頃には、太陽は南へ向かっているので眩しくはないが、十分に視界が開けくつろげる設計である。
嵌め殺しの窓の向こうには、小さな庭があった。その庭は、木の塗り塀が守っているので、外からは見えない。塀の下には真鍮のベンチが置かれ、その袂には、丸く形作られた植木が並んでいる。瑞々しい緑の植栽を彩るように、地面からは早春に咲く球根が、あちらこちらで芽吹き出していた。まだ生えそろっていない芝生に、不思議な陣地のように六角形のレンガが敷かれ、その場所まで灰色レンガの遊歩道が短い弧を描く。
庭は小さいが、カウンターに座ると視線の動きを誘い、奥行きが広がるように造られていた。私は、まだこの庭を掃除したことがなかったが、そのうち手入れを手伝うようになるのだろうかと、温かいコーヒーカップを手に想像した。私は、植物が好きだった。
この、早朝の鮮やかな、霧の含有物をちりばめた陽光を堪能しながらコーヒーを飲めるのは、従業員だけの特別な時間なのだと思う。
リスさんは、昨日の残りのパンを温め直し、私たちの朝食を出してくれた。クルミとコーンの入ったハードロールとバケットのスライス、ペストリー用に瓶詰めにして作り置きされている季節のジャムである。私たちは、庭に向かった大きな窓辺で、それをコーヒーとともに味わう。
ベッカライウグイスのハードロールは、皮の焼き色が浅く、しかし鱗立ってパリパリとしているのに、中はふんわりと本当に柔らかく味わい深い。ここのイギリスパンとともに傑作だな、と思いながら私はいただく。
私は口数の多い方ではなく、おしゃべりはあまり得意ではないので、自然リスさんとの会話も少ない。だが、リスさんも似たタイプの人なのではないかと思う。会話を楽しまなくても、そこにある関係や雰囲気を好ましく楽しんでいるから、リスさんも私も、急いで席を立とうとはしなかった。つまり、居心地よく過ごしているのだと思う。
お客さんのいない、リスさんと私だけの朝の店内は、匂いも空気の暖かさも静けさも何もかもが違う。けれど、そんな朝も、お客さんがいる時間も、閉店した店内も、私は好きになっていた。
羽鳥さんは、引っ越しの日が近づいて忙しかったので、ここのところ開店前には帰宅している。三人体制の仕事は、お店の規模からいって、余裕があった。だから羽鳥さんが早くに上がっても問題はない。しかし、パンを焼くためにすることはたくさんある。
リスさんと私は、温かな色彩で絵付けをされた陶器の時計が8時になると、どちらからともなく席を立つ。暫しの憩いに別れを告げ、リスさんは再び工場へ入り、開店直前に焼き上がるパンのベンチタイムに、私は、カウンターを片付けると外を掃き掃除したり、床にモップを掛けたり、ショーケースを消毒したり磨いたりとそれぞれの仕事に精を出した。お店の周りや店内の決まった仕事を終えると、私は再び工場着に着替えて帽子を被り、ベンチタイムを終えたパン生地たちを、リスさんと一緒に型へ詰めたり成形したりし始めた。
リスさんと羽鳥さんの懇切丁寧な指導のおかげで、私の手つきもなんとか素人にやや毛の生えた状態まで引き上げられたところだった。
オーブンのタイマーが次々と鳴り、朝一番のパンが焼けていく。開店時にショーケースへ並べられる分である。
リスさんと私は、所々焦げ付いた大きな手袋を嵌め、オーブンから天板を引出し、パンラックへ一時的に乗せていく。
ベッカライウグイスのオーブンは大小二台、発酵機は一台、作業台は一台、パン工場としては小さくまとめられた設備だった。
私たちは、次に発酵させたりオーブンへ入れたりするものの準備に追われ、食パンとイギリスパン、甘いパンを何種類か焼き上げたところで開店の時間が近くなる。
リスさんは、早朝に捏ね上げたハードロールをオーブンへ入れると、大慌てで扉の外に看板を掛けに行く。
午前10時。
ベッカライウグイスの開店である。
リスさんと私は、午前のパンを求めて来店する常連さんたちと会話を楽しみながら、お昼までに焼き上げるパンの準備で、慌ただしく時を過ごすことになる。
カランコロン
ベッカライウグイスの扉が開く。
「いらっしゃいませ」
リスさんは、一番にやってきたお客さんを迎えた。
私は、工場で焼き上がったパンを、せっせと店内のパン置き場へ移動させていた。パンは、すっかり熱が冷めなければショーケースに入れることはできないが、細い木が簀の子状に渡されているパン置き場には、まだ粗熱も取れていない段階から並べることができた。ベッカライウグイスには、パン置き場と呼ばれている木製のケースが五つ、ショーケースが並んでいる左側の奥の壁に設置されており、お客さんはそこからも焼きたてを選ぶことができる。
最後のハードロールをパン置き場に移そうとした時だった。私は、工場とお店の間で思わず足を止めた。
ショーケースが、お客さんのウエストよりも低い……。
私は、すぐに手元のパンに視線を戻し、仕事を続けた。お客さんをじろじろと見るのは失礼である。
「おはよう、リスさん。あれ?新しい人?」
お客さんは、パン置き場でトングを手に固まった私を、のぞき込むように腰を屈めた。
リスさんは、笑顔で答えた。
「おはようございます。そうなんです。新人さんの三多さんです。よろしくお願いします」
リスさんと一緒に、トングを持ったまま私も頭を下げた。
お客さんは、私の制服の胸に付けられた真新しいネームプレートに目をやった。そして、納得したようだった。
「三多さん、よろしくお願いしますね」
とお客さんの方から言われてしまい、私は恐縮しながら
「よろしくお願いします」
もう一度頭を下げた。
店主をリスさん、と呼ぶ。
常連さんのひとりなのだ、と頭を下げながら私は思った。
誰もが彼女の、高い位置で結われた、ふさふさで豊かな栗色がかった髪を見て、リスの尻尾を想像するのだろう。
彼女は、そう言われることを気に留めてもいないようだった。
「今朝のおすすめは?」
背の高い、少しくぐもった声の常連さんは、リスさんに尋ねた。
「今朝はですね、ハードロールはどれもおすすめですが、最近仕入れたフィグを使ったものは特に絶品ですよ」
この時期の工場の温度管理は難しくなく、発酵も状態よく進む。加えて、前回の仕入れで、業者さんは質のいいトルコ産ドライフィグをリスさんに勧めた。リスさんはそれとカシスをあまりひたひたにならない量のブランデーとアマレットに漬け込んで一週間かき回し続け、今朝下ろしたばかりだった。良質のつぶつぶ甘いフィグ、そして甘酸っぱいカシス、アーモンド系の洋酒とブランデーの味わいに、ベッカライウグイスのハード系の生地はよく合ってなお美味しく感じられることだろう。それでなくとも、フィグはどことなくもったりとした洋酒の香りを漂わせる果実だから、とても複雑な味わいになる。リスさんはあくまでパンに合わせることを大切に考えて、つけ込むお酒ははじめから量をかなり控えていた。
私は、ちょうどそんなフィグとカシスのハードロールを、並べていたところだった。
お客さんは、私の手元を見ながら、迷わず言った。
「じゃ、それをお願いします、三多さん」
私は、小さな声で
「はい」
と答え、リスさんが用意している木製のトレイへ一つ載せた。
リスさんは、私の様子を見ながら言った。
「ありがとうございます。他にはいかがいたしますか」
お客さんは、低い声であと二つ、小さめのパンを注文した。それからリスさんに軽く微笑みながら、流れるような身のこなしで、窓辺のカウンターへ移動した。とても背が高いのに、自分の体の可動域や動きそのものをよく知り尽くしているようで、それが実に優雅に見えた。自分の体の大きさを誇示するわけでもかといって背を丸くするわけでもなく、すっと背筋を伸ばして、静かに引いた椅子に腰掛けた。
お客さんは、コーヒーも、とは言わなかったが、リスさんは、ショーケースの奥にあるカウンターでコーヒーを淹れ始め、私は木製のトレイに、お皿とカップを置き、まだ温かいパンをのせた。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
次のお客さんが訪れ、私はその応対をし、リスさんはお客さんの座るカウンターへ、トレイを運んでいった。
私の応対するお客さんが店を出ると、店内は三人になった。
背の高いお客さんには、椅子の背もたれが小さく見える。そして、明らかにカウンターと椅子の高さが彼にとっては低すぎた。
そのお客さんはそんなことを気にする様子もなく、背筋を伸ばしたまま、低いカウンターに頬杖をつき、ずっと庭に目を向けていたが、リスさんがやってくるとこう聞いた。
「そういえば、リスさんはどこかで修行したの?」
「ほんの少しですが、ドイツで」
リスさんは、コーヒーを注ぎながら答えた。
「小さな町のパン屋さんなんですけれど、まるでお話に出てくるようなところでした。町並みも、パン屋さんも」
彼女はサーバーの下にリネンを持った手を添え、懐かしそうに微笑んだ。
「そう。見てみたいな」
背の高いお客さんは、そう言うと、お代わりを注いでもらったお礼をリスさんに言った。
「ありがとう」
静かな午前中の時間に、お客は何人か訪れ、朝焼けたばかりのパンを吟味し、心なしか窓際で湯気のたったコーヒーを飲む長身の男性を気にしているようだった。
私は、小休憩を兼ねて、ショーケースの裏に置かれているスツールに腰掛け、お客さんを見守り、お客さんを待った。
リスさんは、工場で、お昼前に並べるパンをオーブンから出し始めた。
今日は、淡泊なチーズナン、そして牛すじと香ばしいオニオンが入った焼きカレーパンである。特に、チーズナンは、前夜から生地を冷蔵発酵させてある、もちもちタイプの秀作だ。他に幾種類かのデニッシュを冷ましている間に、リスさんは店内へ戻り、グリーンの「おすすめボード」へ白いマジックで「今日のおすすめは
フィグとカシスのハードロール
牛すじ香ばしオニオンのカレーパンです」
と記入した。それを、小さな焼き菓子を陳列してある場所の窓へ、通りから見えるように立てかけた。
私は、工場のパンラックに置かれていたチーズナンとカレーパンを、店内のパン置き場へ移動させ始めた。
カランコロン
その匂いを察知したのだろうか、みっちゃんが訪れた。みっちゃんは、驚いたことに、ベッカライウグイスの裏手、工場と隣り合わせの土地に住んでいるのだ。匂いに誘われても無理はない。
「いらっしゃいませ」
リスさんと私が、同時に言った。
「おはよう。今日もいい匂いだね」
みっちゃんは、カウンターの右奥をのぞき込むと、まだショーケースに並んでいないカレーパンを注文して、いつもの席へ移動した。背の高いお客さんと、
「おや、失礼しますね」
「おはようございます」
互いに挨拶を交わす。
みっちゃんは、
「もう、そんな時期なんだね……」
と呟き、お客さんは一度だけ頷きながら微笑んだ。
カランコロン
「こんにちは!」
さくらさんがやってきた。なんと、さくらさんも近隣住民である。みっちゃんほど近くはないが、歩いて買い物に来られるような距離に住んでいるらしい。
「今日も、おいしそうね!三多さん、仕事には慣れた?朝早くて辛くない?」
私のことも気に掛けてくれる。私は
「楽しいです」
と答え、さくらさんは少し目を丸くしたが、すぐに唇を横に引き延ばして笑顔になった。
「よかった!万が一だけど、もしリスちゃんに言いにくいことがあったら、いつでも私に言ってね」
今度は、私が唇を引き延ばして笑顔になった。さくらさんの笑顔は、伝染性である。
さくらさんは、みっちゃんを目に留めると
「おはよう、みっちゃん!あら、それおいしそうね!」
と同じ物を注文し、みっちゃんと背の高いお客さんの間に座った。座り際に、横を振り向いた先客にも挨拶をする。
「あら!おはようございます。お久しぶりじゃない?」
「ええ、お久しぶりなんですよ。おはようございます」
彼も、穏やかに挨拶を返す。
今朝は、窓辺の席が満員である。
リスさんは、みっちゃんとさくらさんに、カレーパンとコーヒーを運んだ。
「ぼく、昨日、バスに乗って出掛けてみたんだ」
「へー、どこへ?」
みっちゃんとさくらさんはなかよしである。
「うん、郊外の本屋へね」
「うんうん。自分の車で行けばいいのに」
さくらさんは、言った。
「車検中なんだ」
「そう」
二人は、湯気に唇を寄せ、コーヒーをおいしそうに啜った。それから、カレーパンを両手に持つと、息の合ったタイミングでぱくりと口に運んだ。
まだ、中はかなり熱かったようだ。特にみっちゃんは、口の中から湯気を逃がしつつひとくちをやっと飲み込むと、手に持っていた分をお皿の上に戻した。そして、コーヒーを飲む。
「熱かったわね」
さくらさんが笑いながら言うと、開店間もなくからいた長身のお客さんが二人に話しかけた。
「来年は、ムスカリと色の付いた百合を植えようと思うんですよ。どうですかね?」
みっちゃんとさくらさんは、
「それはいいね」
とほぼ同時に言った。
「シラーもよかったわよ、とっても」
さくらさんが言った。なんとなく、よく知った仲と知り合いの真ん中くらいの間柄のようだった。
長身のお客さんは、頷いて立ち上がると、手のひらに小さく見えるトレーを載せ、カウンターへやってきた。そのトレーをリスさんへ渡しながら
「じゃあ、リスさん、次に来たときにはシンパクの手入れをして、秋にはムスカリと薄い桃色の百合を植えますね。リスさんが、白い百合の方がよければ、白でも……」
と言い、リスさんの返事を待った。
リスさんが少し考えて、
「薄桃の方が庭に合うと思います。楽しみです桃色の百合」
と返事をすると、お客は注文済みだったイギリスパンを受け取って帰って行った。
次に彼が訪れるのは、秋なのだろうか、そうリスさんに聞こうと思ったが、みっちゃんとさくらさんの話の方へ気をとられてしまった。
「それでね、昨日、幼稚園バスが僕の乗っていたバスの横を通り過ぎていって、それが『なぞの幼稚園』って書かれていたんだよ」
さくらさんは、驚いてみっちゃんを見た。もちろん、リスさんと私も、みっちゃんを見た。
「世の中の進歩って、すごいよね。『なぞの幼稚園』ってあるんだ……と思って」
私たちは、一心に耳を傾けた。進歩すると、『なぞの幼稚園』ができるのだろうか。
「小さなバスだったから、本当に幼稚園のバスだろうと思って……」
うんうん。思って?
「そう考えてたら、僕の乗っていたバスが、園バスを追い抜いたんだ」
うんうん。追い抜いて?
「そしたら、驚いたね。『はなぞの幼稚園』だった……」
私たちは、一瞬固まった。
次に声を上げたのは、さくらさんだった。
「わかるぅ!わかるよ!!」
みっちゃんは、さくらさんを見て、感慨深く何度も頷いた。
「私も、花とか唇とか、似た漢字はね、ぜんぶ『屍』に見えるよ~!」
ええーっ!
リスさんと私は、声を出さずに思わず顔を見合わせた。
「うん、そうだね」
「そうなのよ~」
みっちゃんとさくらさんは、二人で何かを納得している。
少し忙しくなるお昼前の、平和なベッカライウグイスだった。