第250話 愛した人のため
アマディナ・ネネエレス・ネロキーアは、かつて最も権勢を振るった大貴族ネロキーア公家の出であり、『赤斧帝』の皇太子妃から皇后の地位にまで上り詰めた女であった。
二人の皇子を授かり、しかも上の皇子であるヴァンドリックが皇太子の地位を得た事で、ネロキーア公家も彼女の立場も盤石に思えたが――暴君と化した『赤斧帝』によりネロキーア一族が粛正されて後ろ盾を一日にして失った上に、他の寵姫達から苛烈な攻撃を受け、心を病んだ所で決定打となる出来事が起きて、我が子二人を針山地獄のような後宮に残したまま自分だけ神殿に入って世俗と縁を切ってしまった。
……と言うのがオレがテオから聞かされた事情である。
「我が子を見捨てる程の決定打となる出来事って、何だったんだ?」
オレはかーちゃん達の事を思い出した。オレのかーちゃんはとーちゃんが死んでもオレ達を見捨てたりなんてしなかった。とーちゃんの病気の治療代の借金を返済しながら、オレ達を育てるためにいつも働いていたから。美人だったのにさ、化粧もお洒落もしないで毎日毎晩。
……出所は良くないけれどオレへの慰謝料や生命保険金であの借金も返済できただろうし、ねーちゃんの学費ももう大丈夫だろう。少しは楽していると嬉しいんだが。
「あの女には……可愛がっていた鳥がいた」
「鳥?」とオレは思わず聞き返す。
「ネロキーア公家から献上された……人の声を真似る異国の鳥で、伯父上達が処刑された後も唯一、伯父上達の声を真似して鳴いていたのだ」
「へえ、オウムとかインコみたいな鳥だったんだな」
何となく想像が出来た。
「あの女も兄上も、僕も……本当に可愛がっていたし、あの女に殊更に懐いていた……。良くあの女が泣いているとその肩に止まって、伯父上の声で、『泣くな、泣くな、妹よ』と……」
止めろよ、フラグ立てるな!
「凄く嫌な予感がしたんだが、オレが言った方が良いか?相棒に言わせるのはあまりにも惨い予感なんだ」
「トオルの好きにしろ」
「……『緑毒の悪女』アーリヤカは小さな鳥や獣が大嫌いだったもんな。だけどさ、嫌がらせのために、誰かの可愛がっている鳥を殺させたのか……余りにも酷いな……」
「それだけだったらあの女は今も後宮にいただろう」
――ガツンと言葉で頭を殴られたような衝撃を受けた。
「は!?それだけだったらって……おい、まさか!」
「……あの日、忘れもしない。
僕とあの女がアーリヤカに食事に招かれた日だ。兄上は皇太子だから瀬戸際で断る事が出来た。いよいよ毒殺されるかと僕達は怖れていたが、意外にも料理に毒は入っていなかった。しかし、その肉料理の上には……飾りとして鳥の羽が置かれていた。それで僕達は全てを悟った。あの女は真っ青な顔をしたが、腹が空いた、とても美味しい料理だからと言って僕の分まで平らげた。そして帰った後で全部吐いた。吐いて、泣いて、兄がどれ程慰めても……もう、駄目だった。完全に心が壊れて、折れていた」
「何てエグい事を……」
「『緑毒の悪女』はありとあらゆる毒で大勢の人を害してきたが、あれ程効く毒も他に無かっただろう」
テオは小さな声で呟いて、窓から月を見上げた。
「分かってはいるんだ、どうしようも無かったと。何よりも心を殺す毒を盛られたのだと。その中でも精一杯に僕を庇ってくれたのだと。事実、兄上はそう思う事が出来ている。……でも、それでも、僕は許せないんだ。地位も名誉も財産も要らない。どうか僕達を捨てないで欲しかった。何処までも一緒に連れて行って欲しかったから……」
ただのアマディナとなった女の朝は早い。夜明け前に起きて、子が産めなかった、家族との折り合いが悪かった等の理由で神殿に入った婦人達と一緒に聖奉十三神殿の掃除をする事から始まる。
聖奉十三神殿の拝殿より奥に入れるのは女性だけである。彼女達は神殿騎士が日夜問わずに見張りに立っている横を、掃除道具を携えて通り過ぎる。いつもならばどれ程に熱心な信者でも、夜明け前に拝みに来る程の者はそうそういないので、掃除に勤しむ音と最低限の会話以外は無く、静かなものだった。
しかし、今は――聖地リシャデルリシャへの巡礼路が聖奉十三神殿の拝殿から延びているため、夜明け前から人々は神殿の外に待機の列を長く為して、聖地への道が開かれるのを今か今かと待って、口々にまだかまだかと騒いでいる。
「……あれ?あの女、何処かで見たような……」
指さしてきた者が不思議そうに口にしたので、アマディナは思わず被っていた布をぐいと目深に引き寄せた。
「止めとけよ、どうせ神殿にいるからには俺達とは無関係だろうが」
「でも、中々の美人だったぜ兄貴?」
「どうせ不妊なんだろうからそんな目で見たって意味が無い。ほら、それよりちゃんと列に並べよ。女ならまた後があるが、聖地巡礼はこの機会を逃したら次なんて無いんだからな」
「分かったよ、そう怒るなって……」
……兄弟。
その言葉を思い浮かべたアマディナの胸を、真っ先に貫いたのは痛みだった。
あの子達は、元気にやっているだろうか。
子を捨てた母親が考えて良い事では無いと分かっている。
だが、それでも胸の何処かにいつもあの面影があるのだ。
紛れもなく彼女が愛した男との間に産んだ、何よりも愛しい子供達。
幸せだったあの日々。
かつて見下ろしていた者達に混ざって、彼女は黙々と掃除をしながらいつも祈っている。
どうかどうか、息災であって欲しいと。もしもあの子達に何かの危害が加わる事があれば、この身を挺して引き受けたいと。
簡素な昼餉の後で、アマディナは彼女達のような女を指導する聖奉十三神殿の責任者のハイエルフ、ナルナに呼び出された。ハイエルフだけあって並み居るエルフの数十倍は俗世を嫌い、人間を嫌い、彼女達の前に現れる時は顔をヴェールで完全に隠している。
「そこなニンゲン!返事はするな!空気が汚れる故」
アマディナは今更怒る気力も無かったので、従順に頭を垂れて下知を待った。
「最高大神官のお一人にして大巫女であらせられるタルタ様が、明日後の昼にこの下界に降りてきて下さる。よって御座所となる奥宮の階段を磨き上げよ。奥宮に通常ならばニンゲンは立ち入ってはならぬが、今だけは許そう。立ち入り許可証としてこの札を持って行け。だが、塵一つ汚れ一つあってはならぬ。良いな?」
アマディナは頷いて、札を受け取ると足早に向かった。
彼女が一人掃除していると、奥宮の前で誰かが言い争いを始めた。ここには人間の立ち入りが普段は禁じられている『イヤシロチ』なのに、それを分かっているはずのエルフ同士がどうしたのだろう、珍しい事もあるものだとアマディナは思った。
エルフは似ている者が多いので、声で見分けが付かないのだ。
それでも、すぐに収まるだろうと思っていたが――口論はますます激化していく。
思わずアマディナが顔を出して、現場を覗いた瞬間だった。
「そんな事をすれば人間は直ちに、永遠にエルフを宿敵と見なす!」
「我らのためです、仕方の無い事でしょう?下賎な種族が幾ら滅んだ所で我らに関係等ありません」
「されど巡礼者を犠牲にするのはあまりにも残虐では!」
「……残虐?ニンゲン如きに使って良い言葉ではありません。嘆かわしい事ですが、貴女ほどの存在が、ニンゲン如きに毒されてしまったようですね。あれほど最高大神官の方々に認められてご寵愛を受けていながら、何と無様な!この裏切り者め!」
「……『裏切り者』か。ならば、これも仕方ない事だと思え」
――一瞬で片方のエルフに組み付いたもう一人のエルフが、その首をへし折った。鈍い音が響く。
「!!?」
アマディナはしばらく事態が理解できなかったが、理解した途端に物陰に隠れた。
この『イヤシロチ』で殺生は厳禁である。羽虫さえも殺す事は決して許されない。
その禁忌を――よりにもよって当のエルフが犯したのだ!
息を殺して口に手を当てていた彼女は、目を閉じて、物音がしなくなるまでじっとしていた。脂汗が首筋を流れ、心臓が勝手に鼓動を荒げていく。お願い、静かになって。気付かれては駄目。必死に神々に祈っていると――。
「嘘は本当に苦手なんですよ。そう言うのは止めてくれませんか?」
首筋に吐息がかかる程の真後ろに気配。
咄嗟に悲鳴を上げる事さえ彼女には出来なかった。




