90、フェストア聖教国事変・5。……再会を誓って、いまは。
「……………………………ん」
ゆらり、と。
音もなく預けていた壁からイクチノさまが背を離す。
それだけで、ボクは悟った。
愛しのマスターとの短くも楽しい逢瀬の時間は終わり、それぞれの現実へ――次なる任務へ向かうときが来たのだと。
「……もう行っちゃうんですね。イクチノさま」
「……………………ニノハ」
泣きそうな顔で見上げるボクの頭をそっと優しくイクチノさまがその大きな胸の中に包み込む。
その挟んでくれる柔らかさが、とくんとくんと伝わる心臓の音が、ボクはたまらなく好きだった。
言葉少ななイクチノさまが不器用じゃなく誰にでも伝わるように見せてくれる優しさのようで。
……と言ってもボク以外の誰にも譲る気はないけれど。
「イクチノさま。ボクたちの標的、魔王ジュドさまに命じられたこのフェストア聖教国に巣食う病巣、粛正対象もあと少し。ボクたちの任務も、もうすぐ終わりですね」
「……………………………ん」
「全部終わったら、聖都でボクと甘ぁいお菓子の食べ歩きしましょう! 仲良く町娘の格好で! ……それともイクチノさまは、男の子の格好で、ボクとデートのほうがいいですか?」
「……………………どっち、でも」
その大きな胸から顔を離し、見上げたボクを黒い瞳で見つめるイクチノさま。
口元から垂らす黒の布の向こうで、少しだけためらいがちに、その艶やかな唇を動かす。
「……………………ニノハと。……………………一緒、なら」
「はい! イクチノさま! 次は、聖都で!」
そのほんの少しだけ、いつもよりわかりやすく頬を赤らめたその答えに、ボクは心からの花満開の笑顔で答えた。
直後。イクチノさまは、ボクを見つめたまま。ボクの細い体を抱きしめたまま。
まるでここにいたその存在が。この優しい時間が全て夢だったかのように。
音一つ立てず、扉窓一つ開けることなく、その場からすうっと幻のごとく消え去った。
「……約束ですよ。ボクの愛しのマスター。イクチノさま」
――触れ合ったボクの体に、確かな体温だけを残して。
「えーっと、次の標的の好みは……今度は、またシスター見習いかぁ。うん。せっかくだし、着替えてから行こうかなぁ。どうせここにいた司祭見習いとしてのボクは、いろいろと工作して失踪した体にしなきゃだし」
そうして、バサリとボクは着ていたお気に入りの寝間着を脱ぎ捨て、下着一枚の細身で華奢な裸身に、前にも使ったシスター服をいそいそとあてがう。
課せられた、ボクの役割を果たすために。次なる潜入任務を成功へ導くために。
再会を誓った、潜伏と暗殺の技術は超一流だけど。
口下手で、こういう潜入任務には全く向かない、甘え下手だけど甘えたがりで寂しがり屋な愛しのマスターのために、少しでも役に立つために。
――今日もボクは、ボクなりに、一生懸命に任務に励むのだった。




