2022.7.5 不愉快な連中
この文書は夢の記録です。実際に見たことではありますが、実際に起こったことではありません。実在する人物、団体、出来事等とは一切関係がありません。
俺は近所の駅前の交差点で信号待ちをしている。全裸で。
陽を避けるため喫茶店の軒下に座り込み、手持ち無沙汰でガラス窓の中を覗き込む。
光の加減で見えづらかったが、ガラス越しすぐ至近距離に制服を来た警察官が立っていて、こちらを睨んでいた。見なかった振りをして交差点に向き直る。まだ赤信号だ。俺はもう一度ガラス窓の警官へと向き直り、あたかも貴方の存在に今気が付きましたと言わんばかりに大げさに仰け反って驚いてみせる。俺はへらへらと愛想笑いをしながら、傍らの鞄から取り出したパンツを履き、ズボンを履く。
ふと自分が座っていた場所を見ると、地面にチョークで円形に印が付けられており、傍らには「2」と番号の書かれた黒い小さなプレート。殺人現場によくあるやつだ。
「何かあったんですか?」
俺は答えが分かっていたがそう問いかける。ガラスの向こうにいたはずの警官はいつの間にか俺と並んで軒下に立っていた。
「殺人事件です」
「ドラマでよく聞く台詞ですね!」
実際のところ、殺人事件自体はドラマでよく見るが、率直に殺人事件ですと通行人に答える警察はそういえば見たことがない。
店内を見ると、いつの間にか客席や装飾が全てなくなりがらんどうとしており、そこにはチョークで書かれた人型と、黒いプレート、ベージュ色のロングコートを着た刑事達の姿があるばかりだった。ロングコートの人物だけでも二十人くらいいる。多すぎだろ。制服なの?
信号が青に変わったので、俺は交差点を渡ると見せかけて背後の道を歩き始める。
歩きながらシャツを着ようとしたのだが、取り出したそれはいわゆるストリート系の、裾の長いだぼだぼの服だった。ちょっと趣味じゃない。俺は戸惑う。シャツの前面にはアニメキャラがでかでかと描かれているが率直にヘタクソで、オシャレ感はまったくない。どうして俺にこんな恥ずかしい服を用意したのだろうか?お母さんはいつもそうだ。
しかしそのひどくダサいシャツを着る他なかった。
それにしても長い裾だな。股下まですっぽり隠れてしまった。歩いているとそのうちさらに下がってくる。膝まで隠れて、可愛らしい感じのシルエットになってしまった。
駅前を抜けて閑静な住宅街まで辿りつく頃には、伸びた裾を靴で踏んづけてしまうようになっていたので俺は膝の辺りの部分を両手でつまんで持ち上げながら歩く羽目になった。お姫様がよくやる仕草だ。
裾長すぎて踏んづけないように手で持ち上げながら歩く羽目になったわ…お姫様かよ。…帰ったらそうツイッターに書こう。などと考えながら歩いていると、近所の墓地の前に出た。墓地のド真ん中を切り開いて大きな幹線道路が出来ている。俺が子供の頃からずっと工事していたやつだ。遂に完成したのか。
新しい道路はぴかぴかで、歩道橋にはお洒落な感じに植物が飾りつけられている。夕日が照りつけて、通り過ぎる人々の影が花壇の隙間で踊るように明滅する。俺の住んでいる町はなんて美しいんだろう。
立ち止まってしばらく眺めていると、墓場の向こうから黒人が走り寄ってくる。駅伝中継でよく一番前を走ってる奴だ。俺は足どりも軽く、黒人を背後に目にも留まらぬ速さで走り去る。まだ半分の力も出していないが追いつけはしまい。自宅の側の雑木林の間の道を抜ける。おっと車が来た。俺は走力を上げる。どうだ?これが俺の本気だ。俺は車より速い。そして下り坂に差し掛かると天高く飛翔した。
俺の家が見えてきた。自宅の駐車場には俺の車がある。…が、後部座席のドアが半開きになっているではないか。うっかり開けたまま家を出たのだろうか?いや、そんなはずはない。不穏な空気が立ち込める。
俺は気配を消してそっと車に近付き、窓の中を覗き込む。見知らぬ男と目が合った。ドアがばたんと閉まる。
浮浪者が俺の車で寝てやがる!クソが!
「おい開けろ!ぶっ殺してやる!おいこのクソ野郎!絶対に許さんぞ!殺してやる!!」
いくらなんでも怒りすぎだと思うのだが、何故か謎の義務感に駆られて俺は激怒した。俺の怒号は自分でも信じられないほどの大地を揺るがす重低音で、それが心地よかったのかもしれない。デスボイスで狂乱しながら白目を剥いて窓ガラスに頭突きを連打していると、車内の男はのっそりと起き上がり、不満げに俺を睨みつけながらドアを開けて外に出てきた。
「今すぐ消えろ!そうしたら警察には通報しないでやる」
俺は恐怖に駆られたわけでも、突然慈悲の心が芽生えたわけでもなく、なんとなく定型文のような気持ちでそう口にした。
出てきた男は舌打ちをしたのだったかしなかったのだったかよく覚えていないが、言葉を一言も発することなく、それでいてとにかくひどく挑戦的な態度だったことだけははっきりと感じ取れた。
それが俺の怒りに再び火をつけた。俺は男の腕を掴む。
「おい待て、待ちやがれ!やっぱり豚箱にぶち込んでやる」
男はやはり無言のまま、それでいて何故か俺の怒りを最大限に焚き付けるような態度を崩さなかった。具体的にどんな仕草をしたのかはまったく思い出せないが、とにかく俺はこの男の態度がこの世で最も憎むべき対象のように感じられたのだった。彼は特に抵抗する意思もなさそうだったが、俺は掴んだ腕に力を込め、もう片方の手で姉からスマホを受け取り、110番通報する。
姉さん、今帰ったの?姉はぶつぶつ独り言を呟きながら仕事の帳簿と向き合っている。俺今めっちゃ立て込んでるの分かると思うけど、なんでそんなに俺に無関心なの?姉さんはいつもそうだ。
「はい、こちら110番。事故ですか、事件で…――ピー。転送しています――はい、こちら株式会社むにゃむにゃ。こちらはむにゃむにゃで、むにゃなので、むにゃむにゃ」
警察へかけた電話は何故か知らない会社に転送されてしまった。出てきたのはこの世のやる気のなさを全て集めたかのような、一切の緊張も覇気も意思さえも感じられないむにゃむにゃ老人の声だった。
「えっ?こちら110番ですよね!?事件です、極悪人を捕まえてるんです!急いで来てください」
「あー、それはできませんね」
「なんで!?」
「それはむにゃむにゃ。むにゃむにゃです。そういう事情で、むにゃむにゃなもんでね…」
「ちょっと待ってください!」
「むにゃむにゃ」
電話は切れた。
俺が呆然としていると、家の前に一台の車が停まった。車内から中年の男女がひどく下品な声で何事かを話しているのが聞こえる。話の内容まではまったく聞こえてこないが、俺は何故かその二人がこの世で最も不埒な存在であると認識した。
俺はいまだ腕を掴んだままでいる浮浪者に声をかける。
「おい、おまえは今日会った連中の中では一番マシな奴かも知れんぞ!」
俺は話の内容すら聞き取れない男女を、他人の車で寝ていた浮浪者未満の存在と認識していたという事である。一体どうしてなのか。まったくもって理不尽である。
すると、車中に女を残したまま男が降りてきた。彼はやはり想像通りの不快な容姿をしていた。でっぷり蓄えられた腹肉から染み出た脂はシャツを卑猥に透けさせ、その下の黒々した体毛を浮かび上がらせている。男はにやにや笑いを浮かべて揉み手をしながら俺に近付いてくる。
「あのー、こちらむにゃむにゃさんのお宅ですよね?」
「はい、そうですが?」
相手を最低の人間と認識している俺は不遜な態度で応じる。
「先日御社に依頼した見積書がまだ届かないんですよね。たまたま近くを通ったのでちょっと様子見がてら寄ってみたんです」
どうやらこちらに落ち度が合ったらしい。俺は態度を改め、片手で浮浪者を捕まえたまま両手をポケットから出す。一体どうやったのかはよく分からない。
「これは失礼しました。恐れながら、御社名を伺ってもよろしいですか?」
「はい、株式会社マックスハート&スプラッシュスターと申します」
なんだか素敵な名前だな。だが記憶にはない。
「姉さん、この案件対応してる?」
姉に問いかけてみるが、どうも取り込み中らしくろくに応じてくれない。姉さんはいつもそうだ。
「申し訳ありません。今担当者が取り込み中で」
よく分からない案件はとりあえず俺以外の誰かを担当者という事にしておけばいい。俺が社会で学んだ数少ない役立つ知識だ。
「ぶぴぴッ、そうですか。とにかく、宜しくお願いしますね」
「はい、申し訳ありませんでした」
俺は片手で浮浪者を捕まえたまま、伸ばした両手を身体の側面にぴっちりと付けて深々とお辞儀をした。
去り際、男は俺に顔を近づけ、粘っこい囁き声で卑猥な言葉を耳打ちした。やっぱり最低な奴だった。
車へ戻る男の後姿を見送っていると、庭の傍らに馬鹿でかい糞が落ちているのを見つけたので、それを指しながら隣の浮浪者に呼びかける。
「あれ、おまえがやったの?」
浮浪者は否定した。声も出さずに、首も振らずに。
俺は捕まえていた手を離す。
「もういいよ。なんかめんどくさくなったわ。どこへでも行っちまえ」
浮浪者は最後まで俺を小馬鹿にしたような態度を崩さず、一言も言葉を発しないまま小躍りしてその場から去っていった。
安堵した俺はようやく自宅の玄関をくぐり、靴を脱いで二階へ上がろうとする。しかしその時不意に猛烈な違和感に襲われ、再び靴を履いて駐車場へと戻った。車のエンジン音が響く。
「盗まれた!」
浮浪者と共に、俺の車が忽然と消え失せていた。
「やりやがった!あいつ、あのゴミクズ野郎!」
俺は大急ぎでスマホを取り出し、再び110番通報する。
プルルル、ガチャ。
「…はい、こちら株式会社むにゃむにゃ」
「またてめえかジジイ!いい加減にしろ!警察がおまえ雇ってんのか?おまえの給料に公金遣われてんのか!?」
俺は年長者への敬意も忘れて怒り狂った。