2022.8.5 二度と会えない
この文書は夢の記録です。実際に見たことではありますが、実際に起こったことではありません。実在する人物、団体、出来事等とは一切関係がありません。
終業のベルが鳴る。ロッカールームへと戻ろう。ぞろぞろと出て行くクラスメイトたちを二階の教室の窓で眺めながら、俺はわざとのんびり片付けを終える。こうすれば俺がロッカーに入るのは他の者たちが出て行く頃だ。混雑は大の苦手だ。大勢の大して仲良くもない者たちと押しくら饅頭のようにぎゅうぎゅうに詰め込まれることがどうしてみんな平気なのか、理解できない。それを当然そういうものだと受け入れている者たちに囲まれて過ごしていることそれ自体に疎外感、さらに言うなれば嫌悪感すら覚える。そういえば小さい頃からずっとそうだった。
俺は校舎を振り返りつつ、藻の生えた小さな石橋を渡る。橋があるという事はこの下には川が流れているのだろうが、木々が繁っているので見たことがない。そしてそれを確認しようと思ったことはない。ここはいつも薄暗くて陰鬱だ。足早に林の小道を通り抜ける。視界が開けた途端、夏の夕暮れの心地よい風が吹き付けた。肌にまとわり付くじめじめした空気の膜を一気に脱ぎ捨て、俺は眼前の光景に目を見開いた。昼間の大雨が嘘のように空には鮮やかな茜が咲いた。自転車の女学生が俺を追い抜いていく。後姿に長い髪が踊る。
校門を出て少し歩いた先にある廃業したレコード店の黒張りのガラス戸を開ける。小さな更衣室にはむき出しの錆びついた配管以外に何の装飾も無く、迫ってくるような印象を受ける黒ずんだコンクリートの壁で二十ほどのロッカーが向かい合っている。照明すら存在しないが、この時間帯では入り口の戸を解放すれば西日が部屋の奥まで届く。中には数人がまだ残って居るが、どうして俺が来た時にドアが閉まっていたのだろう。真っ暗じゃないのか。多分NPCなんだな。
着替えの途中、ふと思い出して俺は傘を手に一旦外に出る。廃レコード店と屋根続きになっている隣の家の戸を開けると、小さな丸椅子が一脚だけ置いてある。この部屋の奥に何があるのか俺は知らないし、見たこともない。見ようとも思わない。ただ、丸椅子だけがそこにある。かつてその椅子には老婆が一人座っていた。彼女は夕暮れの時間帯になるといつもここに腰掛け、通り過ぎる者たちを眺めていた。俺もその大勢の学生たちの一人だった。言葉を交わしたこともあったような気がする。知り合いだったかもしれない。現に俺は彼女から傘を借りていた。俺は誰も居なくなった丸椅子の傍らに、閉じた傘を立てかける。実際には、ただ知り合いのような気持ちがしていただけで、関わったことなどなかったのだろう。背後を歌声だけが通り過ぎていったが、俺は振り返らなかった。
ロッカーに戻るとNPCたちが放課後の話をしている。今日は学校の文化祭だ。一般に文化祭とは休日の日中にやるもののはずだが、今日は何故か放課後に、神社の辺りで屋台をやるらしい。それは普通の祭だね。
「この後、ドーナツ食べに行こうぜ」
ハンサムなクラスメイトが俺に話しかけてきた。名前は思い出せない。多分存在しなかった奴だろう。こいつもNPCかもしれない。
「文化祭の出店?」
「いや、むにゃむにゃのむにゃむにゃ」
よく聞き取れなかったが、文化祭のそれではないと言う事はミスドかなんかだろう。この後は母と文化祭を回る約束をしていたが、よくよく思い出すと母は友達の居ない俺を哀れんでいただけだ。友達とドーナツを食いに行くのであればそちらが優先されるべきはずだ。
「あー、行くか。ちょっと先約があったけど、お母さ…おふくろだから、電話で断れば大丈夫」
「じゃあ待ってるわ」
俺が鞄からスマホを取り出そうとしていると、それは叫び声によって中断された。
「ええー!あのCD全部売っちゃったの?僕が買うって言ってたじゃん」
確かに俺は実家を出て行く際、大量のCDのコレクションを処分していた。売った記憶はないが、家族に売りに行ってもらったのかもしれないし、捨てたのかもしれない。しかしどうやらこの友人に買い取ってもらう約束をしていたらしい。まったく覚えていない。
「ごめん、売ったっけかな?まだあるかもしれない」
「頼むよ」
あれは実家の一階にまとめて置いてあったはずだ。しかしこの友人は今ロッカールームに居ながらにしてどうして唐突にその事実に気付けたのだろう?見ると、彼はスマホでもない謎の端末でその情報を確認したようだった。何それ?て言うかそこに映ってんの、俺んちだろ?なんで監視してんの?
「そうだ、お気に入りのやつが百枚くらいまだ残ってたはず。それを見に来いよ」
厳選して残したものが百枚くらいってよくよく考えるとすごいな。アルバムCDって一枚3000円くらいするじゃん。百枚で300,000円だろ?その五倍は持っていたとして、あ、考えたくない桁に突入した。どうして学生の時分にこんなに大量に買い集められたんだろうな?自分で稼いだ金じゃないから無駄遣いも平気なんだよ。若者マジでけしからん。
「はぁ、じゃあ飯食ってから行こう」
ハンサムだったはずの友人はいつの間にか知ってる顔になっていた。あんまりハンサムじゃない奴。ああ、こいつだったのか。確かにこいつは珍しく俺と音楽の趣味の近い奴だったな。友人が夢に出てくることは滅多にないが、二度と会えなくなった奴だけはちょくちょく出てくる。これってなんでなんだろうな?