発作があった日
あるものがないと人間は不安になる。
例えば、いつも履いている下着の洗濯を忘れ、履いていないとする。
そのまま街を歩く。
スラックスは履いているのに、まるで下半身を晒しているかのような気分になる。
それくらい『ある』と『ない』とで、気分は変わるものだ。
例えば病気を患っていて、いざという時に必要な薬がない、としたら。
俺は、今、まさにその状態だった。
いつもは確認しないバッグに入れっぱなしの薬の存在を、今日に限って確認してしまった。
バッグの上から、形だけ確認すればいいものを、取り出してしまった。
だが、ただの気まぐれでそうしたわけではない。
今日は珍しく学校で発作があり、薬を使ったから、という理由のためだ。
俺は薬だと思った『それ』を取り出してみて、絶望した。
『美水 スプレータイプ(スキンケア)』
あの時だ。
俺は思い出した。
胸が苦しくなって、俺は胸を押さえたまま席で固まっていた。
教室を移動しなければいけない時刻になっているのに、だ。
「住山? どうしたの?」
教室の扉が開いて、女生徒が俺に呼びかけた。
俺は苦しくて答えられなかった。
薬が効くまでの辛抱だった。
あと数秒だ。
「住山!」
その女生徒は、急いで俺の席にやってきた。
「まさか、発作!?」
今考えれば、この時俺は、首を横に振るべきだった。
実際の俺は、首を縦に振った。
「先生呼ばなきゃ!」
女生徒は美しい顔を真っ青にして、教室を出て行こうした。
急いで出て行こうとしたせいで、机を揺らし、俺の机にあったものが床に落ちた。
さらに、彼女自ら持っていたバッグも、床に落としてしまい中身が散らばった。
その時、薬が効いて俺の発作は収まった。
「待って!」
「?」
女生徒は、教室の扉で振り返った。
「大丈夫、治ったから」
「けど」
「よくあることだから、大丈夫。本当だよ」
女生徒は不安そうに俺の顔を見つめる。
「……」
「大丈夫。それより、これを片付けて教室を移動しないと」
女生徒は顔を赤くして、自分が床にばら撒いてしまったバッグの中身を片付け始めた。
俺も落としてしまった発作を抑えるためのスプレー缶を拾ってバッグに入れた。
ここだ。
ここで間違えたのだ。
だとすると、その女生徒が持っている訳だが、これが一筋縄ではいかない。
なぜなら、この女生徒は『高橋ひかり』という名前で、ただの学生ではないのだ。
高橋ひかり。
彼女は女優だった。
ただの女優ではない。
残念ながらテレビドラマは不調だが、映画では抜群の集客力を誇る。国内の映画賞を総なめして、現在、若手のトップなのだ。
その上、歌も出して、半分、アイドルのような扱いだ。
つまり、簡単に連絡を取れないということだ。
連絡が取れたとしても、この週末の撮影の為、大阪やら北海道に行っていたらどうする?
スタッフの人が持ってきてくれるかもしれないが、時間は掛かるだろう。
俺はドキドキしてきた。
最近、病状が落ち着いてきていたのに、こんなことで乱れ始めるとは思わなかった。
とりあえず、連絡するだけしてみよう。
俺は彼女の事務所のWebページを探し、電話をかけた。
『あのね、高橋は大女優なのよ。そんな要件で事務所に連絡しないでちょうだい』
きっとそんな答えが返ってくると思っていた。
すんなりと事務所に繋がると、俺は名前と要件を告げた。
『高橋と同級生の住山様ですね。連絡をお待ちしておりました』
「へっ?」
『高橋からことづけがあったんです。住山様から電話があったら、知らせるようにと。今、お繋ぎしますのでお待ちください』
何がどうなっているのか分からないが、高橋に電話が繋がるらしい。
『住山? 私、君のスプレー缶持ってきちゃったんだけど』
「そうなんだ、それすぐ返してもらえないかな。俺が事務所に行くから、スタッフさんとかに渡して……」
『今どこ? 位置情報送ってよ』
言われるままメッセージアプリに高橋を登録し、現在の位置情報をつけてメッセージを送った。
『じゃ、翔頭の定時制高校の横のコンビニで待ち合わせよう。ゆっくりくればいいから』
「あっ、ああ」
電話が切れると、俺はコンビニに向かった。
コンビニに着くと、黒いマスクをしている高橋が立っていた。
学校は制服だったから、初めてみる私服だった。
髪をシュシュで纏め、スカートをハイウェストで履き、太ももが出ている。
光沢のある黒いジャンパーを羽織り、少し踵が高くなっているスニーカーを履いている。
俺も嫌いではないので、動画やCM、ドラマとか映画、その他諸々で散々高橋の映像をみているはずだった。
しかし、これが普段着なのかと思うと新鮮な気持ちだった。
俺は息を呑んでしまって、呼びかけられなかった。
「……」
「はい、これでしょ? 悪いけど何の発作を抑える薬か調べちゃった」
俺は化粧水のスプレー缶を、高橋は俺の薬のスプレー缶を取り出し、交換した。
「別に、調べるくらい、かまわないよ。それより、わざわざここまで持ってきてくれてありがとう」
「普通だよ。だって薬だよ? なかったら困るでしょ?」
実際、気持ち的にやばいところだった。
「高橋はほら、仕事があるんだから」
「別にこういう仕事しているからどうとか、そういうのないから。あと、うちの事務所の定款をみると分かるわよ」
「て、定款? なんだったっけ、確か、会社の目標とかのこと?」
「詳しくは省略。じゃね」
「あっ、じゃあ」
俺は急いで去っていく高橋の後ろ姿に、軽く手を振った。
家に帰ってから、俺は高橋の事務所の『定款』というヤツを調べた。
『演劇、音楽などの芸能文化を通じ、国家・国民の幸福を実現する』
国家や国民の幸福を実現する、というのはどういう目標だろう。宗教掛かっているようにも思える。
高橋が言いたかったのは『幸福を実現する』ために『薬はいち早く持ち主に返そう』と考えた、それが『事務所の方針だから』ということだ。
遠回しに『別にあんたが気になった訳じゃない』ということを伝えたいのだ。
俺はそんな風に思った。