2.顎クイ
「なんだって? 事実婚にしたい?」
広々とした王城の、その客間でのことである。
親友の王子・ユリウスに呆れ顔で振り返られ、ソファに掛けていたオーグは、膝の間にがくりと頭を沈めた。
「ああ……。情けないが、日々、本当に限界なんだ……」
「ゴブリナへの求婚を後悔しているということかい? それで、僕たちが盛大な挙式を用意しているにも関わらず、耳目を避けるようにして、式も挙げずに事実婚で済ませたいと?」
「違う! 正反対だ!」
オーグは吼えるようにして叫び、それから再び、頭を抱えて唸った。
「おまえら、式なんかに手を掛けすぎなんだよ……最短で一年後ってどういうことだ? 一年も……一年も、婚約状態で生殺しなんて……こんな拷問ってあるか……」
「ははあ、そういうことかい? 君もなかなか古めかしい男だね。式まで待たず、さくっと致してしまえばいいじゃないか。婚約者なんだから、多少のフライングは、世間だって許容してくれるさ。変装の呪いも彼女の前では解いたんだろう? 本来の姿で迫れば、彼女だってきっと許容してくれる」
ユリウスは、さらさらのプラチナブロンドに翡翠の瞳という、いかにも王子然とした美貌の持ち主だが、その本性は意外にも大雑把だ。
にやりと笑ってオーグのことをからかってきたが、
「……挙式までに子どもが生まれて、第二子誕生に備えて挙式自体を欠席しても、許容の範囲内だろうか」
「ざけんな野獣」
真顔でのオーグの問いは、笑顔で棄却した。
「野獣……その通りだ。俺はもう、ゴブリナを前にすると、キスしたいわ押し倒したいわ舐め回したいわ抱き潰したいわで……」
「今、僕の脳内ではすさまじい絵面で再現されてるから、やめてくれないかい?」
ユリウスはゴブリン顔のサブリナしか知らない。
そして、彼自身が呪いを掛けてやったとはいえ、目の前のオーグはあくまでもオーク顔だ。
「ゴブリナが素敵な人物であることは認めるけど、彼女を抱き潰したいとはねえ……? いやはや、さすが勇者殿、見た目に囚われない高潔さと剛毅さだ」
「なにを言う! ゴブリナは本当は――」
顔を引き攣らせた王子に、オーグはむっとして反論しかけたが、ふいに口をつぐんだ。
なにもわざわざ、本当はずば抜けた美貌であると知らせてやる必要もないと考えたのだ。
それは、エルフともつり合いの取れそうなこの優男に少々嫉妬したからでもあったし、「本当は美人だ!」と訴えるなど、外見に影響されている以外の何物でもない気がしたからだった。
「ゴブリナは……その、とにかく、俺の大切な女性なんだ。貶めるな」
結局、もごもごと告げると、ユリウスは呆れたように肩を竦めた。
「それほど大事な相手なら、君だって我慢したまえ。女性は手順を重んじる生き物だぞ。中でも挙式と初夜は一生の思い出だ。求婚の場所にはこだわったのだろうね? まさかそのオーク面のまま、そのへんの酒場で、花もなしに切り出したりはしていないな?」
「…………!」
オーク顔でも目に見えて青褪めた親友に、ユリウスは「おいおい」と目を見開いた。
「冗談だろう?」
「一応……変装は解いたんだが……それは、求婚に頷いてくれた後のことだった……」
「ゴブリナもよくそれで承諾したな……。彼女の高潔さと剛毅さのほうを称えるべきだったか」
しみじみと顎を撫でるユリウスに、オーグは床にめり込みそうなほど深く沈みこむ。
まったくその通りで、自分とは裏腹に、ゴブリナは面の皮一枚の美醜なんかには振り回されない、実に気高い魂の持ち主であるのだった。
(俺のこの顔を見ても、ちっとも動揺、してなかったもんな……)
オーグは森を支配する獣王の息子で、その本性は漆黒の毛皮を持つ狼だ。
人と獣、どちらの姿も取ることができるが、人化すると、必ずと言っていいほど女性に言い寄られ、ちょっとでも視線が合うとバタバタ気絶される。
それである意味では、自分も見目はいい方ではないかと自惚れていたのだが、その傲慢な自信は、二日前の夜に粉々に打ち砕かれた。
オーク顔から元の顔に戻してみせれば、そのギャップで、少しはときめいてくれるのではないかと計算したのだったが、ゴブリナときたら「普通にかっこいい」と雑に褒めるだけなのだ。
オーグは、羞恥心で死ぬかと思った。
(彼女は、上っ面では左右されない高邁な精神の持ち主ということだ。あの上目遣いや潤んだ瞳、小さな唇や赤い頬といった外見にいちいち興奮してることがバレたら、絶っっっ対、軽蔑されちまう!)
これまでは、興奮が高まるたびに、ひっくり返った甲虫の腹などを思い浮かべて宥めてきたものだが、いつまで持つか。
歯を食いしばって懊悩するオーグに、ユリウスは嘆息した。
「苦悩している場合ではないだろう。さっさと『しかるべき手順』を踏んで、失点を少しでも取り返したらどうだい?」
「しかるべき手順……?」
縋るように顔を上げた親友に、「その顔で近寄るな」と手をかざす。
「ろくな求婚ができていないなら、仕切り直しを。いや、君の場合、口説くところからやり直すべきだな」
「口説、く……?」
「なんだい、その未知の生命体に遭遇したような目は」
ユリウスに冷やかに突っ込まれて、オーグは途方に暮れたような声を上げた。
「いや……昔は、口説かなくても向こうから寄ってきたし、最近はこの顔に怯えられて異性とはほぼ接触してこなかったから、具体的な方法が、まるでわからない……。な、なにか、決まった所作はないのか」
「いや、剣技ではないのだから……」
ユリウスは呆れて肩を竦めたが、ふと思いついたように「ああ」と手を叩いた。
「あれだ、顎クイでもすればいいのではないかい」
「なんだそれは」
「女性の顎を指で掬い取る所作だ。一般的に、女性はそれに弱いと言われる。わかるかな?」
宙に向かって指をクイッとしてみせた親友を凝視して、オーグはやがて、ほっとしたように息を吐いた。
「ああ、それならできそうだ。こう、食い付いたブラックバスを釣り針から外すときのような感じだろう?」
「ゴブリナの顎をめくるなよ」
ユリウスの笑みが強張ったが、すでにオーグは聞いていない。
顎クイ、顎クイ、と呟きながら、足早に部屋を去っていたのである。
(顎クイ! 顎クイ! 顎クイ! 待っていろよ、ゴブリナ!)
オーグは走った。
やるべきことが見えているというのは、とても爽快な心地だ。
勢いあまって、馬車で半日かかる距離を一時間ほどで走破してしまう。
しかしオーグは、愛の巣――つい先日までは、単なるパーティーの基地に過ぎなかった――の門が見えてきたあたりで、ふと疑問にぶち当たった。
(……いや、どんな流れで?)
顎クイの技自体は理解したが、それをどんなタイミングで仕掛ければいいのかがわからない。
(口説くための所作なわけだから、こう、いい雰囲気になったとき、だよな。つまり、ゴブリナが愛らしい素振りを見せたときということか)
走る速度を緩めながら、オーグは思案してみた。
おかえりと笑うゴブリナ――愛らしい。
シチューをよそうゴブリナ――愛らしい、食べたい。
そこの塩を取ってと食卓を指差すゴブリナ――愛らしい、自分もその指で差されたい。
(つまり、四六時中いつでも、ということか)
真顔で頷き、オーグはあっさりと結論した。
つまり、顎クイはいつ発動してもよく、隙あらば顎クイというわけだ。
オーグは心を決めると、勢いよく玄関の扉を開けた。
「ただいまクイ――!」
気が急くあまり、変な語尾が付いてしまい自分で驚いたが、それよりも玄関まで来てくれたゴブリナが、はっと目を見開いて硬直したのに気付き、オーグは怪訝さに眉を寄せた。
「ゴブリナ……?」
どうも様子がおかしい。
呼吸にも姿勢にも、まるで魔王にでも対峙したかのような鋭い緊張が滲んでいる。
(は……っ、もしや俺、汗臭かったか……!?)
視線を辿り、まじまじと首元を見つめられているのを理解すると、オーグはさあっと青褪めた。
そういえばここまで全力疾走してきたので、髪はしっとり濡れるほど汗ばんでいるし、シャツも肌に張り付いている。
(不潔か!)
この、世界の清らかな部分を結晶化させたようなゴブリナの前で、いったいなんという醜態をさらしているのか。
だがそこで、青空のようなゴブリナの瞳が、やけに潤んでいることにオーグは気付いた。
いや、それだけでなく、淡雪のような肌も、ほんの少し、赤らんでいるだろうか。
「どうした? 熱でもあるのか?」
「ね、熱……!? なな、ない! 無いとも! 興奮などしていない!」
ゴブリナはものすごい勢いで言い返すが、その傍から、顔がいよいよ真っ赤になっている。
そういえば彼女は旅の間でも、周囲を気遣うあまり体調不良を訴えず、後になってこっそり倒れている、みたいなことがあったっけ――。
それを思い出したオーグはますます心配になり、強引にゴブリナの顎を持ち上げた。
角度を変えれば、光が当たって顔色がよく見える。
「本当か? 顔がひどく赤いが」
「…………!」
ゴブリナはなぜだか、光の速さで腕を捻り、逃れようとするので、オーグは反射的に、腰にまで手を回して抱き留めてしまった。
「逃げるな。――おい、すごく熱いぞ!?」
「平熱だ!」
「嘘つけ!」
じたばたともがくので、両手首を掴み、そのまま手近な壁に押し付ける。
獲物が暴れたら取り押さえるというのは、これはもう、戦闘を生業とする者の常だった。
「そうだ、引き出しに体温計が――」
「んべぽ!」
ふと体温計の存在を思い出し、体全体を使ってゴブリナをしっかり押さえつけながら、戸棚のほうを振り返る。
だがその瞬間、ゴブリナのいる壁から奇声が聞こえたので、オーグははっとして振り返った。
「なんだ!? 今、理性を失った魔獣のような奇声が!」
「邪念の塊だ」
なぜだか、ごくわずかな間があった気がしたが、ゴブリナが神妙な顔で頷く。
それから彼女は、オーグでさえ目に捉えられぬほどの速さで腕を引き抜き、
「邪念退散!」
――パアアアアン!
勢いよく彼女自身の頬をはたいた。
「ゴブリナ!?」
「大事ない。邪念を手で叩き潰しただけだ」
「邪念って手で叩き潰せるのか!?」
意外に物理的な邪念の存在感に驚いたものだが、そういえばゴブリナはエルフの血を引いているわけで、エルフといえば、森の神官とも呼ばれる神秘的な存在である。
きっと彼女だけが使えるスキルのようなものだろうと思えば、納得できた。
「邪念とやらは去ったのか? 俺も天剣で応戦を――」
「すでに去った。おかげで私の熱も引いた。すべて問題ない」
手の形に赤く腫れた頬に思わず腕を伸ばせば、ゴブリナは静かな笑みを浮かべてするりと躱す。
それから彼女はつかつかと玄関に向かうと、扉の前で一度だけ振り返った。
「邪念の残滓を清めたいので、水を浴びてくる」
「み、水浴び!?」
その一語が引き連れてくる諸々の絵面を、オーグは渾身の気合いで抑え込んだ。
「そ、そうか。今日は暑いからな。ごゆっくり!」
「ああ。き、今日はやけに暑いからな!」
そうして、ゴブリナは素早く家を出ていった。
上空には雪がちらつく、ある冬の日のできごとである。