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1.「ご飯にする? お風呂にする?」

 温もりが感じられる山小屋でのことである。


「おかえりなさい。おかえりなさい? おかえりなさい。オカエリナサイ」


 ゴブリナ、ことサブリナ・ブッシュは、シチューの入ったポットを掲げ持ちながら、壊れた呪い人形のようにぶつぶつと同じ言葉を繰り返していた。


「いかんな。声が高すぎる。かといって、わざと低めては怒っているのかと誤解されそうだ。あくまでも、自然に、自然に、自然に……」


 もうかれこれ三十分は練習しているので、シチューの湯気も消えてきた。

 もうそろそろオーグは帰ってくるのだろうから、これではまた温め直さなくてはならないだろう。


 そうして、湯気を立てたシチューを手に、いかにもそれっぽい、自然な夫婦間の会話を実現するのだ。


「自然って、なんだっけ……」


 ふと、流しに置いた水桶に映った自分の姿を視界に入れ、ゴブリナは途方に暮れた呟きを漏らした。


 そこにいるのは、蜂蜜を溶かしこんだような金髪と、白磁のような肌、薔薇色の頬を持った碧眼の女。

 郷里にいたときは、視線が合うや男という男が息を荒らげ、時には涙ぐんで拝んできたので、わりときれいな顔立ちをしているほうでは、と自惚れていたのだったが、そんな傲慢な考えも、昨日の夜に打ち砕かれた。


(この顔を見ても、全然動じてなかったもんな。さすがは、勇者の称号を持つオーグだ)


 ゴブリンじみた顔からいきなり変装を解けば、少しくらいはどきっとしてくれるのでは――そうして、意外な「お買い得」をしたと喜んでくれるのではと、そんな下心もあったのだ。


 だが、あの高潔なオーグは、そんな女の浅知恵なんかには惑わされず、「結構かわいい」とあっさり流すだけだった。

 ゴブリナは、激しい羞恥心に打ちのめされるとともに、うっかり動揺してしまった己を強く戒めたのである。


(ええい、未熟者め! 宣言通り、オーグは顔面なんかで態度を変えなかったというのに、私ときたらどうだ)


 あの夜以降、オーグを見るたびに激しい動悸に襲われ、呼吸が困難になるのだ。

 顔に血が集まりそうになるのを、氷塊や雪山を思い浮かべて必死に宥めているのである。


 少しでも浮ついた素振りを見せたら、軽蔑されるに違いない――そうした強い思いが、ゴブリナの表情筋をなんとか引き締めた。


 実は、二人の結婚話は、すでに聖女アンネリーゼと王子ユリウスの知るところとなり、その途端に、彼らは荷物をまとめて、「あとは若い二人で」とにやにやしながらこの小屋を引き払ってしまった。

 救国の勇者であるゴブリナたちに、国を挙げての結婚式を用意してやるから、それまでの一年は、ここで婚約者として暮らせと言うのである。


 好きな相手と二人きり――その状況を、昨夜までのゴブリナだったら素直に喜んだだろうが、今は違う。

 もう、意識しすぎて意識しすぎて、過呼吸を起こしそうなのだ。


(うううっ! こ、これで一年ともに暮らせだと!? 死ぬ! 死んでしまう!)


 魔王を前にしたときでさえ、こんなに切迫した危機感を募らせたことはなかった。

 だが、今やゴブリナは、全身を震わせながら魂で叫んだ。


(オーグが、かっこよすぎて、死んでしまう! もう、どうしていいのかわからない!)


 ああ。

 思い返せば旅の間、オーグさえ隣にいれば、自分がなにをすればいいか、わからないことなどなかった。

 まさに阿吽の呼吸、山と言えば川、それほど自然に、二人は相手の考えを読み、互いの手足となりながら、もはや渾然一体となって戦ってきたのに。


(渾然一体……婚前、合体……はっ! うわあああああ!)


 呼吸するようにつるっと、ふしだらな想像をしてしまい、ゴブリナはその場に崩れ落ちた。

 鍋を投げ捨てるように置き、長い金髪を振り乱して、だんっ、だんっと床を叩く。


(愚か者! 愚か者! このとんでもない浮かれ女めっ!!)


 顔からは火が吹くようだし、目には涙も滲んできた。

 せっかくの美貌をぐしゃぐしゃに歪め、ゴブリナは激しく首を振って妄想を振り払った。


 必要なのは、平常心。

 こういうときこそ、まずは型を整えるのだ。

 そうとも、ごく自然な夫婦の会話を演じることによって、心をそこに追い付かせてゆく。


 母を早くに失ったゴブリナは、普通の夫婦の会話など知る由もなかったが、幸いにして親友のアンネリーゼが「テッパンの台詞」というものを教えてくれた。

 彼女は、砂糖菓子のようにふわふわとした美貌とは裏腹に、きっぷのいい姉御肌で、あたたかな性格の持ち主なのである。


 ――ゴッ、ゴッ、ゴッ……


 とそのとき、扉の向こうから聞きなれた物音がして、ゴブリナは婚約者の帰還を悟った。

 とにかく優れた体格と体力を持つオーグは、重石のような靴を難なく履きこなし、一抱えもある大剣を引っ提げているために、歩くと、独特の重低音が響くのだ。


 ゴブリナは電光石火の素早さで鍋を引っ掴み、笑顔で立ち上がった。


「お――おかえりなさい!」

「お……おお」


 しまった。

 勢いがよすぎただろうか。


 身を乗り出すようにして玄関に飛び出てきたゴブリナを見て、オーグが動揺したように顎を引いている。


(わ、わざとらしかったか!? 湯気が出ていないことに気付かれたか!? はっ、それともこの、フリル過多なエプロンにドン引き……いや、アンネリーゼから強奪したとでも思われているのか……!?)


 レースとフリルが多用された白いエプロンは、アンネリーゼに強引に渡されたものだった。

 料理は慣れており、エプロンも要さないほどの腕前だったのだが、少しでも視覚的に「妻らしさ」を演出できればと考え直し、身に付けたのだ。

 ああ、だが、そんな浅はかな考えが、かえってあざとさや、醜悪さを演出してしまったかもしれない――!


(平常心! 平常心! 全集中で、夫婦の呼吸、妻の型……!)


 オーグは、その辺で狩りでも済ませてきたのだろう。

 ほのかに血の匂いが漂い、狼のような鋭い瞳に、まだかすかに興奮の色が残っている。


 盛り上がった二の腕の筋肉や、男らしい喉元、なにより興奮のために色が深くなった灰色の瞳――そこから滲みだす壮絶な男の色気に、ゴブリナの心臓はぼろ馬車のように軋み、悲鳴を上げた。


 崩壊を始める車輪をなんとか繋ぎ合わせながら、彼女は、親友に教わった「テッパンの台詞」を口にした。


「きょ、今日はシチューにしたんだ。もうご飯にする? それとも、お風呂? そ、それとも、わ――」


 だが、その言葉を紡ぎきるより先に、羞恥心がぷすん!と音を立てて破裂し、ゴブリナは涙目で視線を逸らした。


「わ――飛竜ワイバーンでも、ひと狩り行っとく?」

「まだ狩れと!?」


 思わずと言ったようにオーグが叫ぶ。

 ゴブリナは意味もなく「ははっ」と笑いながら、虚ろな瞳でシチュー鍋を火に戻した。


「いいや、冗談だ……」


 かすむ視界の向こうで、シチュー鍋がしょんぼりと冷えはじめている。


(無理だ……私には無理だ、アンネリーゼ。世の夫婦とは、こんな難易度の高い会話を日常的にこなしているというのか?)


 内心で、親友に話しかけた。


 いや、もしオーグが以前の姿のままであったなら、たぶん自分も、例の台詞を言えたと思うのだ。

 そうしたら、向こうも「おいおい」などと笑って、ゴブリナも「だよなあ」などと笑い返し、そのまま平然と食卓を囲んだと思うのだ。


「おい、ゴブリナ。今のは冗談、ってことでいいんだよな? 食糧が不足してるんなら、本当に狩ってこようか?」

「いいや……いいんだ。本当に、冗談なんだ……。はは、本当は、正規の台詞があるそうなんだが、言い間違えてな。そこは正しくは、こう続けるんだそうだ」


 心配そうに近寄ってきたオーグに、涙の余韻を残した、潤んだ瞳で振り返る。


「『それとも、私?』と――」

「おぐあ!?」


 その瞬間、オーグの方向から奇声が聞こえたので、ゴブリナは咄嗟に鍋を放り出し、細剣レイピアを構えた。


「なんだ!? 敵襲か!? 発情した魔獣のような声だ!」

「ああ。きっとワイバーンだ」


 なぜだか、ごく一瞬間があったような気がしたが、オーグも真顔で頷き返す。


「くそ、魔王軍の残党ではないよな……? 王都のほうに向かわなければいいんだが」

「俺が退治しておく。おまえはここに残っていてくれ、ゴブリナ」

「だが」


 眉を寄せたゴブリナを、オーグは飄々とした笑みで諭した。


「せっかくの旨そうなシチューだ。温かいうちに食っていてくれ。ワイバーンなんて、一撃で倒せる」


 そうして、さっさと踵を返してしまう。

 頼れる背中を惚れ惚れと見送りながらも、やがてゴブリナは小さな溜息を落とした。


「オーグは、さすがだなあ……」





 その後オーグは、トイレに立ち寄り、荒ぶる魔獣を右手の一振りで仕留めたわけであったが、ゴブリナはそれを知る由もなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いつものテンポの良さでニマニマ読んでたら、なかなかに表現が攻められてて、コメ欄に慌ててきちゃいました(^^) もう絶対作品は幸せの元ですし、ここも絶対楽しい場になっているはず!!! [一…
[一言] やっと読み始めました。遅くてすみません。 いろいろな引用と驚きの一振。○漏か? あ、引用も下ネタも好きですよ。 好物でもあります。じゅるり
[一言] オーグ「拙者は勇者で○漏」
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