バフリおばさんはめちゃくちゃ焦る
「ス、スカウトって。なんで僕なんかに」
目の前にいるフリーデルの校長だと語る老人は、じっと僕を見つめていた。そして全身を見ると、再び口を開いた。
「流石に汚いの。そこに立っとれ」
老人が手を挙げると、調理場の水道が流れた。流れた水は球のようになり空中に浮いた。それが僕の身長の半分くらいの大きさになると、水が僕の方へ向かってきた。
「息を止めるんじゃ」
老人の言う通り息を止めると、水の球は僕を覆い、汚れを洗い流した。しかし全身がびしょびしょになってしまった。
「おっとすまぬ。ちゃんと乾かすからもう少し待っておれ」
僕の足元から風が噴き上げた。その風はあまりにも強く、危険を感じた僕は急いで無属性魔法を使い身を守った。体にはダメージはなかったが、驚くべきことに、あまりの強風で天井に穴が空いていた。
「な、なにをするんですか! 危うく死ぬところでしたよ!」
僕が怒っても老人は、満足そうにうなずくばかりだった。どうやら魔法で自分の身を守ったことを気に入ったようだった。
「実はの、フリーデルで無属性魔法を使える生徒を増やそうと言う試みがあるんじゃ。しかし反対意見も多くての、とりあえず一人だけ入学させて、様子を見ようという結論に至って、お主をスカウトしに来たんじゃ」
「なんで僕が選ばれたんですか?」
「何人か候補はいたんじゃが、その中で最も無属性魔法を使いこなせているのがそなただったのじゃ。知らんだろうが、お主の魔法のレベルは相当のものだぞ。どうやって練習した?」
老人はずっと髭を撫でていた。よく見ると髭を撫でる手には傷がたくさんついており、老人がただの年寄りでないことがわかった。
「毎日のように殴られたり蹴られたりしてたから、魔法で身を守るしかなかったんです」
「無属性適正者が人であることを皆忘れておる。しかしだからこそ、お主のような天才が生み出されたのかも知れぬな」
さっきまで蟻のように地べたを這っていた僕に、いきなり、天才だとか言われてもいまいちピンとこなかった。
それに、そもそも目の前の老人が本当にあのフリーデルの校長なのか怪しかった。
「儂の手をとれ、ジョセフ少年。お主の人生は……」
「一体何だい! さっきの物音は!」
ドアが勢いよく開いた音がした。中に入ってきたのは、バフリおばさんだった。おばさんが住んでいるのはこのレストランの近くだったので、天井が抜けた音を聞いて急いできたのだろう。すでに彼女の顔は赤くなり、怒っているのがわかった。
「一体誰だい、そのジジイは!」
バフリおばさんは老人を見ると、いきなり声を荒げた。ジジイと呼ばれたのがショックだったのか、老人は「ジジイじゃないもん……」と拗ねている。
「また面倒ごとを起こしたのかい、ジョセフ! 一体誰が育ててやったと思っているんだ! 早く直せ!」
バフリおばさんは僕を睨みつけている。きっとこの天井の穴を僕が作ったと思っているのだろう。本当は僕のせいではないのだが、いつもの癖で僕は謝っていた。
「すぐに直すよ、バフリおばさん。ごめんなさ……
「本当にいいのか、ジョセフ少年」
僕の言葉を老人が遮った。彼は先ほどまで拗ねていた弱々しい老人ではなかった。その瞳には、僕を試している鋭い眼光が宿っていた。
「この穴はお主が直すべきではない。お主のせいではない。儂のせいじゃ。そうやって今までずっと謝ってきたのではないか? ここで謝れば、一生謝り続ける人生じゃぞ」
彼は髭をさすっていた腕をとめ、僕の方へ向けた。近くでその腕を見ると、想像以上にたくさんの傷があった。腕が老人の歴史を表していた。
「もう一度言おう、ジョセフ少年。儂の手をとれ。お主の人生はそこから始まる!」
脳裏に昔の光景が浮かんだ。気づけば僕はずっと謝っていた。バフリおばさんの機嫌を伺い、何かあればすぐに謝った。“ありんこジョセフ”と言われても、ずっと耐えていた。でも僕は変化を願うばかりで、変化を手に入れようとはしなかった。でもそのチャンスが目の前にある。
「何を言っているんだ。このオヤジは! ジョセフ! こいつをつまみ出せ!」
「……僕はここを出ていく」
気づけばそう言っていた。僕は拳を強く握った。
「僕はここから出ていく。もう帰ってこないよ」
「なんだと! “ありんこジョセフ”の分際で!」
「その名前で呼ぶな!」
僕は怒鳴っていた。今までバフリおばさんに怒鳴ったことなんてなかったのに、僕はこの時、初めて彼女に抵抗した。
「僕のお母さんがくれた、大切な名前だ! 馬鹿にするな!」
僕は老人の手を握った。老人はその細い腕からは考えられないくらい強い力で僕の手を握り返した。
「ワッハッハ! よく言ったジョセフ少年! その選択がきっとお主を成長させる!」
「よくも私に怒鳴ったな、“ありんこジョ……”」
「その名で彼を呼ぶなと、言ったろうに。ほれ」
老人はバフリおばさんに手を向けた。するとおばさんの頭から触覚が生えた。蟻の触覚だった。
「少しはジョセフの気持ちを知った方がええの。“ありんこバフリ”」
バフリおばさんは頭に生えた触覚を触ってパニックになり、叫んでいる。その姿は、あの怖いバフリおばさんの面影はなかった。こんな人に一体なぜあれほどの恐怖を覚えていたのだろうか。
「さあ出発しよう。外に出るぞ。あ、それからお主はもうフリーデルの生徒なんじゃから、儂のことをベックランド先生と呼ぶように。間違ってもジジイやオヤジなんて言ってはいかんぞ」
「わかりました、ベックランド先生」
「よしよし。もしあんな呼び方したらお主にも触覚を生やすところじゃったわい」
店の外へ出ると、ペガサスがいた。翼を生やし、額にある角は大樹のような安定感があった。そして何より、夜の暗闇に浮き上がるような純白の毛色が美しかった。
「きれい……」
「そうじゃろう。儂の親友じゃ、ペグーという」
「よろしく、ペグー」
僕はペグーの顔を撫でた。毛は雪のように柔らかく、その奥に感じる体は大地のように硬かった。
「ほお、珍しいな。ペグーが気を許すなど」
ペグーは荷台を引っ張っていた。荷台にはカーペットが敷かれ人が座れるようになっている。
「後ろの荷台に座りなさい。ジョセフ」
僕が荷台に乗ると、ベックランド先生はペグーの背中に乗り移った。
「ペグー、フリーデルまで頼む」
「ヒヒィン!」
ゴトンと言う音を立てると、ペグは走り出し、そのまま翼をはためかせた。そしてどんどん揺れは収まっていき、やがて宙に浮いた。
「うわぁ! すごい!」
僕のいたレストランは空から見るととても小さかった。あんな小さい場所にいたのか、僕は。風を切る肌の感触に自由を感じた。
空を見上げると、幾千、幾万と言う星々が輝いていた。普段見ていた星空と変わらないのに、その輝きは増しているように見えた。僕はフリーデルに着くまで、ずっと空を見上げていた。自分の住んでいた街を見返すことは一切なく、ただずっと星を眺めていた。
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