朱目烈伝
よく晴れた日の事である。目を凝らせば北にある太郎山の山頂から、美しい峰々がくっきりと見渡せるであろうことは間違いない。
ふと目を凝らすと、山沿いの林の中を走る小さな電車が見える。更に目を凝らすと窓側に何やら居丈高な雰囲気を体から発する男が、あらゆるモノを憎むように景色を眺めている。二メートルは優に超えるであろう身長と、はち切れんばかり隆起する筋肉は他の乗客を畏怖させるには十分であった。
ところで、件の男は愛知県名古屋市から鈍行列車を使い、乗り継ぎに次ぐ乗り継ぎでここまで来た。なぜそんな面倒くさい事をしたかというと、理由は簡単で、単純に運賃の問題である。しなの特急を介した場合八千円近く掛かるのに対し、鈍行列車だと五千円で済むので彼は迷わずそちらをとった。しかしいくら安くても前者は片道三時間、後者は6時間である。並の人間なら三千円追加して、快適な旅を選ぶだろう。ゆったりとした観光気分での旅なら楽しいだろうが、ロボットの様に一時間も二時間も直立不動で異様な気を発している男が、ただただ重苦しく目を光らせながら存在しているのだ。男はともかく周りの乗客は浮かばれない。
かくして、男は降り立ったのである。その昔、信濃の国と言われていた長野県に。上田市に。
その双眸を暗黒に染めながら。
上田駅北ゲート、通称「お城口」を背にして真っ直ぐ県道七七号線を十分ほど歩き、中央二丁目を左手に曲がると、昭和と平成を程よく混ぜ合わせたような商店街がある。西洋の絢爛さを日本式に抑え込みなお美麗さを失わない時計店の横には年季が経った仏具店があり、僅かに香の匂いが漂っている。交差点を背に更に歩くと小さな後園が場所にも似合わず存在し、これまたポツンと置かれた公衆灰皿に覆いかぶさるように、春にも夏にも秋にも冬にも、さながら四季変化しそうな広葉樹が爛々とその花を咲かせている。シャッターが下りている所もあるが、服屋がありベーカリーがありカメラ屋があり茶屋があり、煙草屋があった。
そう、商店街をしばらく進むと煙草屋がある。日本中を探せば禁煙時代の今でも百はあろうレトロタイプの煙草屋で、店の名前は亜祝と言う。薄い硝子戸の向こうでは男とも女ともとれる店主が端正な顔を歪めながら、つまらなそうに欠伸をしていた。昨今の煙草税の弊害もあるだろうが、よほど品揃えを充実させなければ、コンビニで揃う銘柄を誰が煙草屋なんぞで買おう? こうなると四銘柄しかない店には、古くからの常連客以外はほぼ買いにこない。よって退屈で、店番にも力など入るわけがない。
青年はしばらく目を閉じた。もっている新聞をめくる様子はない。しばしの静寂を経て、ぐぐぐと言う声が漏れてくる。寝ているのである結局の所。
「おじさーん! おきてー!」
小さく元気のいい声が店主の睡魔を貫いたようで、パッと目を開けて、同時に声の主であるランドセルを背負った子供を睨みつけた。ニコニコ笑顔の少女はその睨みをものともしない。
「起こしたながきんちょめ。何の用だ?」
女性とも男性とも勘違いしてしまいそうなソプラノボイスでその眉目美麗な容貌とは裏腹に汚い口調でのたまった。
「うんー。おじさん元気いー?」
「元気じゃないよ。売り上げがないからよ、赤字日の丸赤マルだぜ。そうだ、お前小遣いで煙草買わないか? 別に吸わなくてもいいからよ」
「だめだよー。まだ子供だし、それに高いもん。二つ買ったらお金なくなっちゃうよ」
少女は財布の中身を店主に見せた。ちょう五百円玉が二枚。月の始めという事もあるのだろう。昨日か今日あたりに貰ったようだ。
「ほー、近頃のガキは結構もらってんだなー。俺の時は中学に入る時までもらえなかったってのに。ま、一個でいいんだ。ほらおまけもつけてやるから」
ごそごそと炬燵の中を漁って、どかっとカウンターの上に菓子をぶちまけた。かりんとうや甘納豆、ミックスゼリーにカルメラ。最初は輝いていた少女の顔が一瞬で冷めた。
「……おじいちゃんみたい」
年頃の娘が見せそうにない、なかなか微妙な表情をしながら少女は帰っていった。
「なんだあ、失礼な奴。例によって俺をロートル扱いとは」
へん、と鼻息荒く再び椅子にふんぞり返り新聞を開く。
「なになに? 練馬区のマンションで飛び降り自殺……パス。阿蘇山沈没……色々まずい。ほお、行方不明になった伝説の拳法使いの遺体が見つかる。……まったく地方紙の癖に載ってる内容といえば縁もゆかりもない場所の実感の湧かない事件ばっかだ。よほどネタがねぇ……うぉ」
その時、強い風の影響か持っていた新聞が真っ二つに裂けた。同時に上質な白樺のカウンターに影が落ちた。
「すまない」
目の前の分厚い、「壁」ともいえる存在が話しかける。巨大な体躯を少し曲げ硝子窓ぎりぎりに顔が見える。
「朱 美海というのはアナタか?」
店主こと朱美海は突然の相手に畏怖しているのか、何も言わず、じっと大男を見つめている。
「驚かせてしまったならすまない。私はアナタを探していたんだ。少し話せないだろうか?」
重苦しい外見とは相反して、妙に慈しみを感じる語調に、恐らく朱は多少気を解いたのであろうか。雑誌になった新聞紙にまた目を落としながら、うわごとのように言った。
「……何が欲しい」
ふむ、と男はリンゴを軽く潰せそうな掌で鼻頭を揉んだ。そしてカウンターに両手を置き―――
「煙草を買う為ではない。アナタと話す為だ。朱 美海」
「なんだ、仕事が割れてるのが。律儀に本人確認なんて莫迦にしやがる」
新聞から顔をあげ、何の用かと聞いた朱に、男は気分を悪くする様子もなく、
「では、『儀式省』に来い」
「断る」
朱はにべもなく言い放つ。二人の間に沈黙が漂う。男は想定内の解答だったらしく特に取り乱すこともなく続けた。
「もろちん、タダという訳ではない。そちらの希望する金額を教えてほしい。もとよりアナタの協力なしでは完成し得ないのだ」
「先祖代々、お宅さん達と仲良くすると碌な事がねぇんでな。返ってくりや」
「どうか首を縦に振ってくれないだろうか。それだけでいいのだ」
「引け。依頼は俺以外の人間に言うんだな、ま、誰も暦師共にゃあ関わりーーー」
バキリ、と音がする。木のカウンターに大男の指がめり込んでいた。
「決心がついたぞ、この野郎」
事態は深刻である。朱は一七五メートル程の長身だが華奢である。およそ体格では勝てるはずがない。体格だけならの話であるが―――。
朱はスッと、両手を組んだ。親指を合わせ、人さし指を合わせ、中指を間隔一センチ程空け、薬指と小指は組み合わせる。眼光は鋭く、大男をじっと見つめる。瞳の中は極彩色の曲線がうねり交わっていた。
その一目、一動作で男は向かいにあるシャッターの降りた店に車道を跨いで吹き飛んだ。幸い人や車はいなかったため、誰かに見られてということもない。激突音は別としてだが。
ぐう、と声をあげながら男は一息で立ち上がる。いくら朱が手加減をしたとはいえ、秒速百キロを超える速度で吹き飛ばされた人間が一瞬のうちで起き上がる事などできる筈がないのだ。どうやらあの筋肉は飾りではないな、と朱は頬をヒクつかせた。そして獣のような四肢にはバネでも仕込んであるのか、驚異的な跳躍力で十メートルの道幅を飛び、先程と変わらぬ位置に降り立った。
「……ぐっ。なるほど。それが朱台真宗に伝わる印……疲甲護身か。今迄様々な僧と殺し合ったが、断トツできたぞ」
荒い呼吸を繰り返しながら男は手に持っていたモノを懐にしまう。両先端が尖った棒状の物体を朱は視認した。
「なるほどね。その独鈷を結界代わりに使ったか。俺の天敵なんだぞ、結界は」
「こんなこともあろうかと足掻きで持ってきたが、これを使ってもなおこの威力か……。…………今回は出直そう。ちょうど、人が出てきたのでな」
先程の騒音で被害を被った店の住人が土星と悲鳴と、朱! またお前かと騒いでいる。
「二度と来るな」
「そういう訳にもいかんのでな。ふむ、名を名乗るぞ。私は護摩金剛。では」
そう言うと、護摩はそそくさと路地裏に歩いて言った。
「あら、行っちまった。どうしてくれるんだ、修理費俺が払わなきゃならんのか?」
残ったのは半壊した向かいの店と使い物にならなくなったカウンターだけだった。
「―――はい。龍頭の予想通り朱は依頼に応じませんでした。我々と関わると碌な事がないとの事です」
近頃少なくなった公衆電話を探し、上田駅から少し離れた平安堂近くの電話ボックスで護摩は受話器の向こうの、しゃがれ声の主と話していた。
「だろうの。奴とは殺りあったか」
「は。お互い防戦一方の戦いでしたが」
「ふむ。元々貴様の肉体術とは相性が悪いと思うたが。独鈷に助けられたか」
「おっしゃる通りです」
「しかしさすが朱台真宗の印術よ。日の元の大日と恐れられているだけの事はあるわ。益々、田舎で泳がせておくのは勿体ない」
感嘆の意を籠め、電話口の老人だと思われる声が唸った。
「どれ、この際本人の意思は別として、気絶させてでもよいから連れてこい。必要なら帝釈剣を抜くことも許す」
護摩が明らかに動揺したように喉を鳴らす。その言葉の意味にどれほどの意味があったのかは彼ら以外分からない。
「お言葉ですがアレを抜けば―――」
「分かっておる。帝釈剣如きで倒せる相手ではない朱が聞く耳すら持たぬのだ。だが奴の能力は捨て置けぬ。いいか、どんな事があっても連れて来るのだ」
そう言うとガチャリと電話が切れた。老人が切ったのか、或いは護摩のテレホンカードの残量がなくなったのか。これも彼ら以外は知りようがない事だった。
翌日、朱の元に一通の葉書が届いた。切手も貼られていないし住所も書かれていない代物である。煙草屋の横に隣接している古風なポストの下にぽつんと置かれていたのを先日の小学生、米倉真純が見つけ朱に渡したのである。ではなぜそれが朱宛だとわかったのかというと、本来郵便番号を書く欄に達筆で朱、泉池で待つ、と書いてあったからだった。
「おれぁ、行かねえよ。なんだい、こんな薄気味わりぃモンさっさと捨てな。もしくは投函しとけ」
「でも、おじさんの名前書いてあるもん」
「落ちてるモノを食べちゃいけませんって教わらないのかね。最近のガキは」
「食べ物じゃないもん。待ってる人がいるなら行かなきゃね」
こういった不毛なやりとりが一時間続き、朱はとうとう折れたのか、わかったわかったと言い、米倉には見事な達成感が芽生え、朱には絶望感が沸いた。
「ま、全額負担させられた修繕費でも徴収しにいきますかね」
朱はぼろぼろになった木のカウンターを通販で取り寄せた上質な黒檀の板に張り替えた後、目的地の泉池まで車を走らせた。
泉池は上田市小泉の貯水池である。その歴史は古く一七〇六年に「小泉村差出帳」なる文献にて上田藩主であった仙台正明候が泉池などの貯水池を領内に作らせたという。川から離れた地理上の問題をこの手法で解決したのだ。東西三二六メートル、南北一六三メートルと他の貯水池と面積的には主張しないものの、大昔から住民にとってなくてはならない存在だった。現在では上田市におけるちょっとした観光スポットになっている。
朱は泉池に隣接している小さな地駐車場に古いヴィヴィオ・ビストロを止めた。九時過ぎという時間もあってか人気はない。加えて風もないので水音すらかすかに聞こえる程度である。駐車場から少し歩を進めると小さな木造の休憩所あり、そこへ続く道の途中には池の二回目の修繕の際に鎮護を祈って作られた医師の祠がある。
(ここにきたのは久しぶりだ。――――――マヤと来たのが最期だろうか)
何気なしに祠を一瞥し、休憩所へと向かう。休憩所には闇夜に紛れ屈強な体躯が溶け込んでいた。
「車持ってないのか? まさかここまで歩いてきたのかい? ご苦労なこった」
朱は葉書を池に放った。水に濡れたソレは一分もしない間にふやけ、水に溶けていく。
「手紙もまともに書けんのか? あの欄は郵便番号を書く場所だぞ。研究ばっかりやってる人種は碌にモノを知らないから困るね」
巨体は身動き一つせず、朱に背を向け池をながめているように見えた。
「何も言わず着いてきてくれないか。そうすればこちらからは危害を加えない。この言葉に偽りはない」
風の動きが変わり不規則に荒れる。水の音は囁きからざわめきへと揺れた。
「いやだね。か、か、わ、ら、ん。ほらよ、こないだの騒動の料金だ。それに慰謝料もつけて五百万そちらさんから支払ってくれよ」
護摩の足元に領収書がパサリと落ちた。護摩は何も言わない。
不意に、風が止む。水面は氷に至る過程を経ず沈黙に凝固する。
――――――――――――斬ッ!
猛烈な熱気を帯びた風とその中に揺れる鋭利な物体が月をも切り裂きそうな轟音と共に朱の両腕を薙いだ。どう思考しても人道を外れた速さであった。振り下ろされた右腕に気づく者がこの世にどれ程いるのか。抜刀からそのまま正確に狙いを定めることは卓越した居合術の習得者でも難しい事である。そして同時に、渾身の一撃にも思えた。それを見た人間が、より人間であればあるほどそうあってほしいと願ってしまうほど人として逸脱した現象だった。
だが、結果を目にした護摩もまたその一人だった。彼の心の中には後悔とこれで終わってくれという焦りがあった。この一撃は自分をかろうじて繋ぎとめている人間的な部分を辛うじて残した一撃だった。だからこそ目の前の、地面に落ちた二本の腕が実際には存在しないという事実に酷く狼狽した。
―――――――――スッ
気の抜けるような音と共に朱は祠の上に降り立った。全てを受け入れてしまいそうな微笑を携えて。
「ごめんよカミサマ、罰当たりだろうな」
「なぜッ! 確実に当たった筈だ! 印を結ぶための両手を切ってしまえば―――」
そこまで言うと慌てて護摩は自分の口を手で覆った。肉体と精神を極限まで鍛えあげた彼が取り乱していた。
「まあ、確かに当たっていただろうな、俺じゃなければ。護摩、貴様その剣―――」
「言えん」
未だ動揺を隠せてはいない護摩だったが、生命惜しさに機密情報を漏らすまでは墜ちてはいないらしい。ふむ、と朱は剣を凝視する。
「なるほど」
涼しい顔で言うと祠から下りた。付近で祠に付着した靴の泥を拭き取ると、まるで自分が一人で夜の池を眺めに来ましたとばかりに何事もなく立ち去ろうとしたのである。
「待てッ!」
朱はふり返らない。しかしその足は次の土を踏むことはなかった。
「何が、なるほど、だ」
一句を自身から沸き出す恐怖と戦うように紡ぐ。先程の精悍さなど微塵も見受けられない。猛禽類に似た、ただ一つの真実を探し求めるかの如く。ただ汚く獰猛。
「ああ、その剣の事さ。気になったもんでね。帝釈天の気はあったが……違うな。それ不動明王の利剣だ」
朱は振り返ることなく答えた。
今度こそ、今度こそである。護摩の細い瞳がはち切れんばかりに大きく開かれた。しかし口には笑みが張り付いたように形作られていた。
「ククク……クク、ク。なるほど、流石、大日には何でもお見通しか」
「その呼び方はよせ。現人神信仰はお前らの御法度だろ。それに俺が一番嫌ってる。ばかばかしい、じゃあな。安心しろよ、ソレ、他言はしないから」
朱は興味が失せたように 歩き出した。もう護摩の事は興味がないらしい。
――――ドオオオオオン
駐車場に近づくと同時に、とてつもない音を立て、静かな夜に粉砕音が響き渡った。ん、と朱が祠の方角を振り向くと跡形もなくただの石ころの残骸に成り替わっていた。
―――だが朱の表情は変わらない。先程と同じく興味なさげな顔だ。
ただ一つだけ違っている所は。
その目が真っ直ぐと護摩へと向けられている事だった。
護摩が走る。距離にして十メートルもない。唯一歩、いや、それすらも必要がない。今やこの場は護摩金剛という個が支配する一種の亜空間に等しい。彼が持つ、全ての悪しき思いを断つソレは目が眩むほどの光と共に際限なく肥大する。
相対する朱は微動だにしない。自分の運命は自分が決めるのではないと示唆させるようなおぼろげで拙い表情だ。近くに男がいたのなら思わず自分が守ろうと勇むだろうし、女ならばいかなる状況でも彼と一緒に受け入れようと覚悟をもたらすことだろう。
護摩の利剣が一層輝く。その光はもはや橙から白へと変わりつつあり、最初は炎だったものは既に彼の体の大半を蔽い尽くしていた。品位を感じさせない切削音は、彼をとり巻く風の音と混じり合い、さながら龍の咆哮へと退化してゆく。
事実、護摩の理性は段階を踏まずただ一つの感情を朱に、そして己に刻み込ませていた。薄れそうになる極細の線を目の前に、無我夢中で、何度も幾度も幾重にも刻み込んでいるのである。
(カノジョ ヲ コロサナイ)
と。
そして、あらゆる事柄に結末が存在するように、過程を経ず、その時は訪れた。
(カノジョ ヲ コロサナイ)
――――――斬る――――――。
護摩だった物体は確信した。同時にただ一つ保っていた糸が音もなく千切れた。
泉池は静まりかえっている。相変わらず人通りもなく、街灯はまばらに点滅しているだけで燈火としては心もとない。隣接している小さな休憩所はいつもと何ら変わりがないように見えるが、鎮護を願って建てられた祠が土台の石ごと破壊されていた。
そして駐車場の入り口には朱美海がいる。眉間ギリギリまでに振り下ろされた降魔の利剣を見つめている。世界が制止したようにも思える空間にも、時間を意識させるものがあり、それは利剣からの止まない熱風だった。
「不動明王の宝剣、降魔の利剣、か」
朱が刀身を優しくなでると、飼いならされた動物の様に、荒々しさが消えていき、穏やかなる春風へと移り変わっていった。
「すまないね。寝ている所を起こされたら誰もが怒るもんさ」
そう言って朱は動かない護摩が固く握りしめているソレを引き抜くと、愛おしそうに胸に抱き、唱える。
「オン アビラ ウンケン」
そして印を結ぶと、降魔の利剣は赤い、星粒状の光となって四散した。後に残ったのは瞬きもせず止まったままの護摩金剛と、物憂げに壊れた祠を見つめる朱美海だけだった。
「こんにちは」
煙草屋亜祝には人があまり来ない。いや、常連以外全く来ないと言っていい。古く句から懇意にしている固定客が収益の半分を支えている。もう半分はというと、今店先で最後の一本を吸っている、豊かな赤髪をした弔問官に呪具を売ることによってなんとか生計を立てていた。朱には古今東西からやたらいわく付きの人形だの札だのが送られてくるので、それを解呪したのち売りさばいているといったところである。
「ふぅー。赤マル、くださる?」
黒檀のカウンターに小銭を置く彼女もまた、固定客の一人である。
「どーも。よお、赤マルの姐さんかい」
朱は呼んでいた新聞を綴じると、髪をかきあげ不機嫌そうな顔をする女性に煙草の箱を一つ渡した。
「いい加減名前を憶えてくださらないかしら。通り道にコンビニがあるのにわざわざこんな寂れた商店街まで歩いてきてやってんだから、だいたい駅から地味に遠いわ坂道だわって―――ごほん、嫌だわ、私ったら。淦石檻江さんよ。もう、みーちゃんってば人が悪いんだから。こーれ、捨てといてくださる?」
ぽい、とカウンターの上に煙草の箱五つ投げられる。
「だから、その呼び方はやめろと―――って、お互い様か」
はいよ、と言いながら朱は箱をカウンターの下にある金庫の中に放り込んだ。金庫の中には赤丸の箱が幾つもあった。
「なんなのお、ずいぶん元気がないじゃない。アレ、元の場所に戻ったんでしょう?」
淦石は無遠慮に朱に距離を詰め、整った眉を少し歪めながら小さな声で囁きかけた。
「残念だったわね。祠、修復できなかったんですって? ―――恋人との思い出の場所、だったとか」
「いいんだ、そのことは」
遮るように朱は頭を振った。
「ふらふらと昔のことを思い出すようじゃ、この先やっていかれんさ。むしろ壊れてしまったほうが後腐れがなくて済む。ま、ちょっとしたショック療法ってトコかな」
朱は言い、再び新聞に目を落とした。
「そうなの。貴方がそう言うならそうなのね。――――――それで、護摩とかいう男の事なんだけど。―――ええ、儀式省の構成員よ。儀式省側は否定しているけど、廃棄された名簿にはバッチリ記載されてたわ。いやー、苦労した苦労した、なんせ燃やされてたんですもの。ま、塵が見つかって良かったわ。最近興味深い女の子を見つけてね、有限の終わりを視る事のできる体質なんだけど、私のオガムと親和性が高くって。特にブナ辺りで塵を見た彼女の視界を具現化したら、ビンゴよ! いやー、あれは興奮したわねー。彼女を調べれていけば、私の研究もぐっと進むはず。ただでさえ人狼や学会やらに追われてる身で活動的になれなくて店に籠ってた時に、これよ。たまには動き回るのをやめてみるのもいいもんだわ」
興奮したような口調で淦石は、さらに続けようとする。
「おーい。赤マルさんよ。話が脱線しまくってるぜ。アンタは塵から護摩の資料を見つけ、それから?」
「あ、そうだった、そうだった。つい嬉しくって。―――えっへん。護摩はキェーリム廟の元教師兼研究者よ。同時にかなり手練れの八卦掌伝授者だったらしいわ」
「納得がいった。あの異様な空気感はそういうことだったか。何かしらの武術を極めていなければ、降魔の利剣をふるうことすらできない。ヤツは気力と筋力のみでアレを制御していたというわけ、か」
朱はうわごとのように呟く。
「あ、ちなみに護摩金剛という名前だけど、本名じゃないわね。儀式省側が定めたコードネームみたいなものよ。一応、本名は篩王輪らしいわ。―――っふ」
「? その名前はそんなにおかしいのか?」
「いえね、こちらの界隈じゃ少し有名なの。ま、あくまで仏具の回収を生業にしているみーちゃんには馴染みがなくて当然ね。――――――まあとにかくこれも偽名。護摩はその他二十近くの偽名を使い分けているから、間違いなくはぐれ咒術使いの一種でしょうね。」
「で、護摩はそのあとどうなったんだ?」
店先に設置された灰皿の横で、煙草に火をつけながら淦石は、ハンドバックから紙を取り出した。
「渡し忘れたけど、これ売買取引書よ。仲介料が全体売り上げの二六パーセントで輸送費、人件費等諸々併せて三三パーセント残りの四一パーがあなたの取り分ね。
ま、つまり高額で売れたわ。世にも珍しい人間のはく製でしかも生きてるってのが、一部の蒐集家の御眼鏡に適ったみたいね」
淦石は続けた。
「私も査定に立ち会ったけど、すごいもんねえ。体に触れればちゃんと暖かいし、心音もきちんと聞こえるし、血もしっかり出る。いったいどんな戦い方をすればあの終わりに行き着くっていうのかしら? あれも不動明王が持っていたとされる剣の力なの?」
「いや、違うよ。降魔の利剣はあくまで煩悩を断ち切る力さ。そして、持ち主である不動明王にはもう一つの法具がある。それは羂索といってね。縄みたいなもんなんだが、仏教を拒んでいる人間に対して力づくでも救わせようとしている。優しく説法するような正法輪身とは違って、不動明王含める教令輪身では実力行使でくるわけだ」
「あぁー。つまりみーちゃんはその羂索を使って護摩の魂だけを救ったというわけね」
「正解。以前紙月市に行ったときに、見知った弔問官から譲ってもらったんだ。教団に預けるよりも俺に預けて貰ったほうがいいってね。大分殺りあったが、結果的には和解できたよ。中々話のできるヤツだった」
手に持っている煙草の灰を淦石は灰皿にこつんと落とした。灰は重力という法則に従いながら緩やかに底へ落下していく。
「なるほどねー。あらかたは納得がいったわ。ただ、貴方との付き合いはそう多くないけど、一つだけ疑問点が残るのよ。私が今まで見てきた古今東西の「救済」とやらのどこにも、あそこまで綺麗なはく製はなかった。――――――ねえ、教えて。肉体と魂を同時に消滅させるのならば、そこまで難しいことではないわ。けれどどちらか片方、となるとそれはもう不可能に近い芸当なのよ。貴方、どこで、どうやってそれを学んだというの?」
朱は読み終わった新聞をカウンターに放り投げ淦石を呆、と眺めた。
「護摩は……、護摩は人の道を超えてしまったんだ。ヤツの今迄に何があったかは知らないが、何かを極めたアイツは――――――大日になっていた。大日は道があれば、終わりにその存在が顕現するが、人の短い一生では終わりにたどり着くことはない。死というものが道の終着ではないから。時間という概念は関係がないということだな。
いや、質問に答えなければな。淦石。今回のは偶然だ。護摩自身の咒力が利剣と合わさり一時的に俺の咒力を上回った事で起きた異常ということだ。――――――まったく、傷跡を残してくれるな、あの場所は」
「じゃあ、あなたの意志でアレを作り出した、ということではないのね?」
淦石の瞳が静かに揺らめく。太陽を背に受けていて、陰になり顔は見えないはずであるのに、唯、瞳だけは一定の輝きを、時間の流れと逆行ししているかのように留めていた。
「そういうこと、その件については放っておいてくれると助かる。俺が生きてきた中である意味一番中途半端な救済をしてしまったからな。検索で引っ張ることができるのがヤツの魂だけだったんだから。護摩には悪いことをしたと思ってる。ただ、それ以上にアイツの抜け殻は見たくない」
「そう、ならいいわ。偶然ならよくある事よ。再現性を獲得することが私の本会だからね。もし任意であんな芸当ができるんだったら、貴方を解剖しなきゃいけないところだったわ」
淦石は煙草を灰皿に捨て、首を左右に捻った。
「ふうー! 長くなったわね。そろそろ帰るわ。電車の時間もあるし、この町は私にとって居心地が良すぎちゃって疲れるわねー」
「あぁ、ありがとう。しばらくは頼むこともないだろう。オレもきちんと修行することにするよ。この店もそろそろ閉めることにするかな」
「そうね。貴方は若いのに妙に爺臭いところあるから、つい飲まれちゃうけど。まだ磨けば光るはずよ。ま、私が褒めるなんで、あんまりないことだから、精進しなさいな」
ひらひらと手を振りながら、淦石は帰っていった。おそらくは、自分が住む町へ。
朱は背伸びをしながら差し込んできた夕焼けに目を向ける。
その赤は、おぞましい程に紅く――――――。
悲劇的な迄に悲壮感を漂わせていた――――――。