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胡蝶さんの夢

作者: 秋空 夕子

 夢見鳥 胡蝶は縁側に一人で座っていた。

 しばらくすると一人の男がやって来て、一言二言言葉を交わす。そして持っていた物を差し出した。

『芋羊羹を買ってきました。二人で食べましょう』


 次の瞬間、視界には見慣れた天井が広がっていた。

 数度、瞬きをして起き上がると、少しだけ冷たい空気が肌を刺し、少しずつ意識を明瞭にさせていく。

 先ほど見たのは夢だったのだ。

 そう判断した胡蝶は口元を緩める。

「今日のお土産は芋羊羹か」




 夢見鳥家といえば、界隈では知らぬ者はいない名家である。

 代々、霊能力に優れ様々な術を使うことが出来る彼らは時の権力者達から重宝され繁栄してきた。

 胡蝶はそんな名家の本家の娘、それも長子である。本来なら、蝶よ花よと愛でられ、あらゆる贅沢を甘受できる立場であるはずだ。

 しかし、彼女が今暮らしているのは、本家の敷地内の隅の隅。華やかという言葉とは正反対の、質素極まりない簡素な屋敷。そこで彼女は、まるで隠されるようにひっそりと生活している。

 否、まるで、ではない。正真正銘、彼女は存在を隠されているのだ。何故なら、どうしようもない落ちこぼれだからである。

 夢見鳥家は霊能力で栄えた家。しかし、胡蝶はその霊能力を使う上で必要な霊力が非常に低かった。

 簡単な術すら使用できない彼女を、父である夢見鳥家当主は臭いものに蓋をするように軟禁した。

 貴様のような落ちこぼれなど、存在しているだけで夢見鳥家の恥。しかし、仮にも娘だ。せめてもの情けで、生かしておいてやろう。

 そんな父の言葉と共に、胡蝶はここでの生活を余儀なくされた。

 それ以来、父は勿論のこと、妹、分家の者達、使用人にいたるまで、胡蝶を放置して存在しないものとして扱っている。たった一人を除いて。




「まだかしら……」

 縁側に座り込んで、胡蝶はある人物を待っていた。

 待ち人が事前に伝えていた予定では会えるのは明日のはずだ。しかし、胡蝶は今日会えることを信じて疑っていない。

 そして、その認識は正しかった。

「胡蝶様、戻りました」

「竜蛾! おかえりなさい!」

 現れたのは一人の若者。精悍な顔立ちに鋭い眼差しの彼は夢見鳥 竜蛾。夢見鳥家分家の者であり、胡蝶の幼馴染にして世話役である。

 彼は出迎えた胡蝶に持っていた物を差し出した。

「芋羊羹を買ってきました。二人で食べましょう」

 それは胡蝶が夢で聞いた言葉そのままである。

「ふふっ」

「胡蝶様? どうなさいましたか?」

 思わず吹き出す胡蝶に竜蛾は不思議そうな表情を浮かべた。

「ごめんなさい。夢で見た通りの言葉だったから」

「ああ、だから縁側にいたのですね。もしかして待たせてしまいましたか?」

「ううん、全然」

 胡蝶は竜蛾の手を取り、家の中に入る。

 任務帰りの彼は疲れているはずだ。それでも、きっとここに帰って来て、すぐに自分の元へ来てくれたに違いない。

 そんな彼をお茶でも淹れて労りたかった。


 胡蝶には特技がある。竜蛾以外は誰も知らないが、彼女は予知夢を視ることが出来るのだ。

 これだけ聞くと、とてもすごいことのようだが、胡蝶自身は全くそんなことを思っていなかった。

 なにせ、せっかくの予知夢で視ることが今朝視たようなお土産だったり、今日の天気だったり、偶然見つけた花の色だったり、どれもこれも些細なことばかりだからだ。

 少なくとも、こんなことを知られてしまえば父に認めてもらえるどころか、ますます見放されてしまうだろう。

(いや、もう何も期待されていない以上、なんの反応もしないかな……?)

 それだけか、と一言だけであとは何も言わないところが目に浮かぶようだ。

 昔からそうだった。

 不器用で物覚えの悪い胡蝶は、いろんなことに失敗しては怒鳴られて、そして怒鳴られると萎縮してまた失敗を繰り返してしまう。

 それでも父の期待に応えたくて必死に頑張ったのだ。けれど、いくら頑張っても結果は出なくて、父の目に失望と諦観が見えたのが本当に辛かった。

 そんなものだから、妹が自分とは違い頭角を現すようになると露骨に妹のほうが贔屓されるようになった。

 いつまでも術が使えない原因が霊力の低さだとわかってからは、あっという間に厄介払いだ。

 ここまで酷い扱いを受ければ彼女の性根はひねくれたものになりそうなものだが、そうならずにすんだのは竜蛾のおかげだ。

 二人が出会ったのは、まだ胡蝶が落ちこぼれだと判明する前。将来的には本家当主とその側近になるべく引き合わされた。

 その頃の胡蝶は今よりも内気でおとなしく、人見知りでもあったので、目つきが悪くて無口な彼を怖がりもしたが、しかし彼の優しくて穏やかな内面を知って、すぐに仲良くなった。

 遊ぶのも勉強するのも一緒で、当主として忙しい父よりも長い時間を共に過ごしたように思う。

 やがて、胡蝶に才能がないことがわかると他の者達が態度を変えていく中、竜蛾だけは変わらず接してくれた。そのことにどれだけ救われたことか。

 彼のおかげで、胡蝶は家族に見捨てられても孤独を感じず、また絶望もしなかったのだ。

 本当に感謝のしようがない。

(でも……それもそろそろ終わりかもしれない)

 胡蝶のことを未だに面倒をみてくれる竜蛾だが、そのことが彼自身の足を引っ張っていることを彼女は知っている。

 竜蛾は夢見鳥家の中でも屈指の実力者であり、父にも期待を寄せられているが胡蝶の世話を理由に受ける任務を控えめにして、妹の側近になるのも固辞しているらしい。

 これらは竜蛾から聞いた話ではなく、使用人たちが話しているのを聞いたのだ。

 恐らく、わざと胡蝶に聞かせるようにしたのだろう。

 初めてこの話を聞いた時、胡蝶は驚きと共に何も知らぬ己を恥じた。

 思えば竜蛾は昔から、自分とは違い、とても優秀であった。そんな彼なのだから、本来ならもっと上にいけるはずだ。それなのに、こんな落ちこぼれの面倒など見ているせいで、彼は本来受けるべき栄誉を受けられずにいる。

 このままでは駄目だ。

 昔から自分を支えてくれた竜蛾。術が使えずに落ち込む自分を励まし、特訓にも付き合ってくれた。軟禁されてからも毎日のように会いに来てくれて、いろんな話を聞かせてくれた。本当ならこの先もずっと一緒にいて欲しい。

 だが、自分はそれで良くてもそれでは竜蛾の将来は閉ざされてしまう。

 けれど竜蛾は優しいから、きっと自分を見捨てるような真似は出来まい。

 だから、自分が言うしか無いのだ。

(言わなきゃ……もう来なくていいって……私は一人で大丈夫だからって……)

 切り分けた芋羊羹と淹れたてのお茶を持っていきながら、決意を固める。しかし、問題なのはこの決意がもう何度も繰り返されているということだ。

「り、竜蛾、おまたせ……」

 緊張のあまり思わず噛んでしまったが、竜蛾は気づかぬ様子で「ありがとうございます」と差し出されたお茶を受け取った。

 しかし、胡蝶の顔色が良くないことに気づいたのだろう伺うような視線を送る。

「胡蝶様? どうかしましたか?」

「え、えっと、あの……あのね、竜蛾」

「はい」

「その……」

 言わなくてはいけないことは頭ではわかっているのに、口から出てこない。

「な、なんでも無いの……」

 そして、今日も結局言えなかった。

「……そうですか。何かあったら、言って下さい」

 竜蛾の方もそれ以上追求せず、身を引く。

(ごめんね、竜蛾……もう少しだけ、もう少しだけでいいから、一緒にいさせて)

 彼の優しさに甘えている自覚を持ちながら、胡蝶は芋羊羹に手を伸ばす。

 竜蛾がお土産に選んだだけあって、とても美味しかった。



■■■



 どうして幸せな時間というものは一瞬で過ぎてしまうのだろうかと。

 そんなことを考えながら竜蛾は本家の屋敷を進んでいく。

 彼の脳裏に浮かんでいるのは、幼なじみの少女とお茶を飲みながらのたわいない会話。他者から見れば大して価値がないように見えるだろうが、竜蛾にとっては何にも代えがたい大切な時間である。

 その為に彼は必死に時間を作って、できる限り彼女の元に赴くようにしていた。

 だが、こんな日々が長く続くとは思っていなかったし、また続ける気もなかった。


「当主様。竜蛾、ただいま戻りました」

 屋敷の奥にある一室の前でそう告げると、向こう側から「入れ」と声がかかる。

 その言葉に従えば、部屋の中で壮年の男が一人、彼を待ち構えていた。

 この男こそ、胡蝶の父にして彼女を軟禁している張本人である夢見鳥家当主である。

「よく戻ったな、竜蛾。早速だが報告を聞こう。」

「はい。多数の女性が神隠しに遭った件ですが……」

 竜蛾の報告を聞くと、当主は満足げに頷く。

「うむ、よくやってくれた。まあ、そなたのことだから、うまくやってくれるだろうと心配はしていなかったが」

「は、ありがとうございます。それでは、これで」

 用事も終わったので、速やかに帰ろうとした竜蛾だったが、当主がそれを引き止める。

「まあ待て、竜蛾。任務帰りで疲れているだろう? お茶でも飲まぬか?」

「お言葉はありがたいのですが、当主様にそこまでしていただくわけには」

「いやなに、気に病むことはない。揚羽が自分から言い出してな」

 その言葉に竜蛾は顔を少しだけ苦々しい物に変えるが、すぐにそれを消して努めて平静を装う。

「しかし、実はまだやりかけの仕事が残っているのです」

「……そなたの真面目な働きぶりには感心しておるが、たまには体を休めることも必要であるぞ?」

「申し訳ありません。こういう性分なものでして」

「よいよい、そういうところも私は気に入っているからな」

 鷹揚に微笑む当主だが、竜蛾は内心吐き気を覚えていた。

「しかし、もう少し揚羽との距離を縮めてもよいのではないか? あれもそなたと親しくなりたがっておる」

「……何かの勘違いでは?」

「いやいや、揚羽はそなたを気に入っておる。私もそなたが揚羽の側近になってくれればと思っているのだ」

「……」

「一族の若い衆の中で、そなたが一番の実力者だ。将来的には我が一族を牽引する存在になるだろう」

「……買いかぶり過ぎですよ」

「ははは、謙遜するでない。それに先程も言ったが、揚羽もそなたを気に入っておる。……実を言うとな、部下としてだけではなく、夫としても、娘を支えてほしいと思っておるのだ」

 後半は、まるで重大な秘密を打ち明けるかのように、声が潜められていた。

「分家のそなたにとって、これ以上ない名誉であろう? それに、揚羽とそなたの間になら、我が一族が長年待ち望んでいる神子が生まれるかもしれぬ」

「…………」

 竜蛾は下唇を噛みしめる。そうでもしないと、感情のまま行動してしまいそうだからだ。

「……少し、時間をいただけますか」

「うむ、そなたにも準備があろうからな。構わぬぞ」

 口元に笑みを浮かべるその顔は、竜蛾が断る可能性など微塵も考えていないに違いない。

 確かに、竜蛾がもしこの話を蹴れば彼は夢見鳥家にいられなくなる。逆に、受け入れれば一族の中で確固たる地位と権力を得られるのだ。

 普通であれば、考えるまでもないことである。


(もう、時間がないな……)

 退室した竜蛾は廊下で誰にも聞こえないように、ため息をついた。

 これからのことを考えながら歩いていると、後ろから「竜蛾さん」と声をかけられる。

 振り向くと、一人の少女がいた。

 胡蝶と似た面影のある彼女に竜蛾は頭を下げて挨拶をする。

「お久しぶりです、揚羽様」

「まあ、そんなにかしこまらないでくださいな。私とあなたの仲じゃありませんか」

「いえ、そういうわけには参りません」

 頑なに態度を変えない竜蛾に揚羽は僅かに眉を寄せたが、穏やかな声色で彼に語りかけた。

「ねえ、竜蛾さん。私たちは竜蛾さんのことを思って言っているの。どうか、もっと自分のことも大切になさって」

「ご心配してくださり、ありがとうございます。ですが、私は今の生活に満足しておりますので」

「まあ、謙虚ですね。でも、あの人の世話なんて竜蛾さんでなくても出来ます。あなたはもっと、あなたにしか出来ないことをすべきです」

「……私に、ですか?」

「ええ、ええ。あなたの才覚は夢見鳥家がこれからも栄えていく為にも絶対に必要です。お父様が話しておられたのですが、もっと特別な地位に着けたいと」

「それは……」

「先代の神子が亡くなって、すでに百年……周期的にはそろそろ新しい神子が生まれるはずです。もし、神子の父親になったとしたら、あなたの地位と権力は盤石なものとなるでしょう。一族の歴史に名を刻むことも可能です」

「…………」

 押し黙る竜蛾をどう感じたのか、揚羽は満足げな顔を浮かべ、「いつか一緒にお茶が飲める日を楽しみにしていますね」と言って去っていく。

「……本当に、気づいていないんだな」

 ぽつりと呟かれた言葉は呆れと、安堵がにじんでいた。



■■■



 竜蛾とお茶を飲んだその翌日、胡蝶はまた夢を見た。

 見たこともない山道を、竜蛾と手をつないで歩いている夢。

 どこに行くかもわからない。どうしてそこにいるかもわからない。それでも、夢の中の自分が、笑っていることは理解できた。

 目が覚めた一瞬、予知夢かとも思ったが、それはないと思い直す。

 予知夢なら昨日みたばかりだ。今まで、続けて見たことなどない。

 そして、自分がここから出られるはずもないので、やはりただの夢だろう。

 今まで何度も未来を見せてきた夢は、一度だって胡蝶の望むものを見せてくれたことはないのだ。

(本当に、役立たずな力……)

 思わず溜息をつくとそれに気づいた竜蛾が心配そうに覗き込む。

「胡蝶様、具合でも悪いのですか?」

「え、ううん。なんでも無いの、平気よ」

「そうですか。ですが、無理はせず、何かあれば必ず言ってくださいね」

「うん、ありがとう」

 優しく気遣ってくれる言葉に、あの夢が予知夢だったらどれほどいいだろうかと思いを馳せる。

(けれど、もう……本当に終わりにしなきゃ……)

 昨日、揚羽がやってきて言ったのだ。竜蛾が揚羽の婚約者になる話が出ていて、竜蛾の方も満更ではなさそうな反応を見せていた、と。

 いつか別れが来ることがわかっていた。それがもう遠ざけられないところまできただけである。

(本当は、もっと前から竜蛾とは離れ離れにならなくちゃいけなかったのに……)

 むしろ、ここまで一緒にいることができただけでも幸運なことなのだ。

 だからもう、竜蛾を縛り付けてはいけない。彼を自由にしなくては。

「竜蛾……わ、たし、ね……」

 けれど、言葉はそれ以上続かなかった。

 ぼろぼろと、涙が溢れてきてしまったからだ。

「う、ぐすっ……うぅ……」

「胡蝶様!?」

 竜蛾が慌てた様子で声をかけるも、それに応える余裕は胡蝶にはなかった。

(ああ、やっぱり、嫌だ……離れたくない……離れたくないっ!)

 だって、好きなのだ。ずっとずっと、幼い頃から竜蛾のことが。

 家族から見放されてから、唯一自分を気にかけてくれる彼に想いは深まるばかりで、結ばれずとも共にいられるだけでよかった。

 そう、一緒にいられるならそれだけで。

「ごめ、ごめんなさい……好きなの、竜蛾のこと……ごめん、ごめんなさ……」

 気づけば、決して告げまいと決めていた気持ちが口から溢れていく。

 こんなことを言われても竜蛾が困るだけだとわかっているのに、涙も言葉も止まらない。

 落ち着くために一旦、席を外すために立ち上がろうとした胡蝶だったが、その手を竜蛾が握る。

「りゅ、が……?」

「……胡蝶様」

 今まで見たこともないほどの強い眼差しに思わず息を呑む。

「そのお言葉は本当ですか?」

「……ええ」

 腹をくくって肯定すると、竜蛾の腕はそのまま彼女の体を抱きしめた。

「り、竜蛾!?」

「俺も……俺も胡蝶様のことをお慕いしております」

 胡蝶は一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「え? ……え?」

「いつか、俺から言いたいと思っていたんですが、先を越されてしまいましたね」

「え、でも、あの……竜蛾は揚羽と結婚するんじゃ」

 胡蝶の言葉に竜蛾の顔が歪む。

「何の話ですか?」

「え、だって、揚羽との婚約話が出たって……」

「確かにそうですが、俺は受け入れるつもりはありません」

「そ、そうだったんだ……」

 自分が騙された事に気づいて、胡蝶はほっと息を吐く。

「でも、いいの? 揚羽と一緒になれば夢見鳥家の財産と権力は思いのままなのに」

「……俺はずっとあなたと共に生きたいと思っていたんです。だから、どうか胡蝶様も、俺を選んでいただけませんか……?」

「竜蛾……」

 ここは鳥籠だ。自由は無いけれど、代わりに餌と寝床が用意されている。

 胡蝶はずっとここから出て行きたいと思っていたが、それと同じぐらい出ていくのが怖かった。

 彼女は世間知らずだが、愚かではない。世の中にはろくに食事もとれず死んでいく人や、暴力をふるわれて抵抗することも出来ずに殺されてしまう人がいることを知っている。そんな人達と比べて、自分はとても恵まれていると信じていた。

 だから周囲から粗末に扱われ鬱屈としたものを抱えながら、与えられる安寧を甘受してきたのだ。

 けれど、今胡蝶の前には二つの道が示されている。

 一つは竜蛾を「これはあなたの為だから」と誤魔化して拒絶し、これまでの生活を続ける道。もう一つは、竜蛾と共に何が起こるかわからない、明日をも知れぬ身となる道。

 どちらも苦痛が伴う道に違いない。

 今朝見た夢が、胡蝶の脳裏に蘇る。二人でどことも知れぬ道を歩くだけの夢。堅く握り合った手の温度と感触さえ覚えている。

 あれはきっと、本当にただの夢だったのだろう。

(でも、もし……あの夢を自分で叶えることができるのなら)

 叶えたところで、あの道の先は地獄に続いているかもしれない。破滅しか待っていないかもしれない。

 それでも、少しでも彼と共にいられるのなら……

「私も、私もずっと竜蛾と一緒にいたい」

 胡蝶は籠から飛び出す決意したのだ。



■■■



「変な夢をみるの」


 胡蝶がそう言ったのは、まだ二人が幼く、彼女がまだ当主の跡取りと呼ばれていた頃であった。

「どんな夢ですか?」

「んっとね……」

 胡蝶の言葉は子供らしくやや要領を得ないものだったが、竜蛾は根気強く耳を傾けて彼女の伝えたいことを理解する。

「なるほど、夢で見たことと同じことが起きるんですね」

 例えば、夢で食べた物と同じ物が食事に出されたり、夢で聞いた話と同じ話をされるのだという。

 それを聞いた竜蛾は思った。

 もしかしたら、胡蝶は神子なのかもしれない、と。

 夢見鳥家には時々、未来を予知する力を持つ者が生まれるのだが、その者は神子と呼ばれ、祀り上げられる。

 夢見鳥家がいかに優秀といえど、ただの霊能力者の家系でここまで力をつけることができたのは、ひとえに神子のおかげだろう。

 だから夢見鳥家の人間は皆、神子の誕生を熱望しており、竜蛾もそれを知っていた。

 ここで、本来なら竜蛾はこの事を他の大人に伝えるべきだった。それが夢見鳥家の人間としての義務なのだから。

 けれど、彼はそれを行わなかった。

「大丈夫、大丈夫ですよ、胡蝶様。うちの家系にはたまにそういう夢を視る人が多いそうです。だから、何の心配もいりません」

「本当?」

「ええ、ですが、他の方は今日の出来事ではなく、もっと先の未来を夢に見るそうです。当主様達に告げるのはその時にしましょう」

「うん!」

 健気に頷く胡蝶。

 あの頃にはすでに、物覚えの悪い胡蝶ではなく、早熟な揚羽を跡取りにするべきではないかという話が出ていた。

 きっと、失った父の関心と愛情を取り戻せるのだと思っているのだろう。

 しかし、そんな日は来ない。竜蛾が来させない。

 何故なら彼は知っているからだ。

 神子の力を高めれば、数日から数ヶ月先の未来まで見通せるようになるが、その代償として自分の寿命を削ることになるということを。

 ただでさえ予知夢を見るには多くの霊力が必要だというのに、さらに遠くの未来を見るにはより霊力を消耗し、体に負担をかけなければいけないのだ。

 さらに神子の子を多く残すために何人もの男と交わらねばならない。

 何があっても守りたいと思った彼女を、どうしてそんな目に遭わせられるだろう。

 幸いだったのは、周囲が彼女にさほど関心を向けなかったことだ。

 その上、予知夢を見た直後に霊力を計らせれば、案の定、胡蝶の霊力は非常に低いと思い込ませることに成功し、おかげで彼女が神子であることを隠し通すことが出来た。


「胡蝶様、大丈夫ですか?」

「ええ、平気よ」

 険しい山道を竜蛾は胡蝶と共に進んでいく。

 自分はともかく、胡蝶にはさぞ厳しいだろうに彼女は額に汗を滲ませながらも弱音を吐くことなく進んでいく。

 しかし、疲労の色は隠せないので、休憩するのに丁度いい木陰を見つけて、少し涼んでいくことにした。

「水です、どうぞ」

「ありがとう」

 水筒を渡しながら竜蛾は来た道を見つめる。幸い、追手の気配はない。

(あともう少し行けば、町につくはずだ。そこで一晩休んで……その後はどうするべきか……)

 北か南か、西か東か。

(まあ、胡蝶様にも話を聞いてから考えるか)

 ようやく彼女を外に連れ出せたのだ。いろんなものを見て欲しい。

「ねえ、竜蛾」

 そんなことをつらつら考えていると、こちらを伺うように胡蝶が声をかけてきた。

「ん? どうかしましたか、胡蝶様?」

「あの……それ、止めない?」

「それ?」

 どれを指す言葉かわからず首を傾げると、胡蝶は頬を赤らめながら恥ずかしげに告げる。

「私達、夫婦になるのでしょう? だからその……昔のように、胡蝶と呼んで欲しいの」

 それは、もうずっと昔の呼び名だ。

 出会った当初は大人の前では様付けで呼び、それ以外では呼び捨てだったのだが、年頃になるとどんな時でも彼女に敬称をつけて呼ぶようになった。

 その時の胡蝶の寂しそうな顔は今でも頭に残っている。

「ああ、そうだな……胡蝶」

 久方ぶりの呼称に若干違和感を覚えるも、胡蝶の嬉しそうな笑顔に胸が打たれる。

 しかし、我ながら情けないことだ。

 想いを告げるのも、こうやって呼び名を変えるのも、全て胡蝶から言わせてしまった。

 彼女には今までずっと、いらぬ苦労をかけてきた分、これから幸せにしたいと思っているのに。

(いや……俺が幸せにしてみせる。どんなことをしてでも……)

 その為に頭を下げたくもない連中に下げ、表面上だけとはいえ敬い、精力的に仕事をこなしてきたのだ。

 この時に得た伝手と情報は必ず自分たちの助けになるだろう。

 連中も馬鹿ではない。今頃、竜蛾と胡蝶を手を尽くして探し出そうとしているに違いない。

 万が一連れ戻され、そして胡蝶が神子ということがばれてしまえば、自分たちはもう二度と会うことは叶わないだろう。

 だから、絶対にそんなこと許すわけにいかないのだ。

 胡蝶と共にあること。それだけが竜蛾の願いなのだから。


「それじゃあ、行こうか」

「ええ」

 二人はまた連れ立って歩いていく。

 どこにたどり着くかもわからぬ旅路を、それでも力強く。



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[良い点] 胡蝶ってやっぱいい名前だよな
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