キ印
少女はフワフワした地面を歩いていました。
それは、豆腐で出来ているかのように、踏んでいるのに踏んでいないような、不思議な地面です。
あるいは、地面ではないのかもしれません。
あたり一面真っ白け。
他に色がありません。
「私はここで、何をしているのかしら?」
頭を捻りますが、何も思い出せません。
あるいは、何も知らないのかもしれません。
と、目の前に黒い点が現れました。
豆粒のような黒い点。
その点はムクムクと大きくなると、いつの間にか人間の形になりました。
奇妙な服装をした、男の人です。
「ごきげんよう、お嬢さん」
男はうやうやしく頭を下げます。
少女は返答はせず、ぷいっと顔を背けると歩き出しました。
フワフワ、フワフワ。
「猫と女は、だまって居れば名を呼ぶし、近寄って行けば逃げ去るって古い小説に書いてあったけど、まさにそんな感じだな」
男は少女の後を追います。
二人は歩きました。
歩いても歩いても真っ白な景色は変わりません。
もう何日歩いたのか、それともまだ数分なのか。
夜なのか昼なのか。
まったくわかりません。
少女はいい加減疲れて、立ち止まり、男の方を見ました。
男も歩みを止め、柔かな笑みをうかべます。
「ここはいったい何なの?なんで何もないの?」
「それはお嬢さん、貴女の中に何もないからですよ」
男は柔かな笑みのまま指をパチンと鳴らしました。
途端に目の前の風景が変わります。
色がつく。
形ができる。
あっという間に緑が綺麗な森の中といった風景に変わりました。
少女が驚きのあまり口を開いていると、
「やぁ、まさにアンポンタン・ポカンだ」
と男は笑いました。
その笑い声に我に返った少女は途端に恥ずかしくなり、さっさと先を歩き出しました。
「冗談ですよ、ほんの冗談」
男は慌てて後を追います。
歩きながら少女は辺りの景色を見回しました。
やはり、真っ白と違って風景があると歩いていても励みになります。
少なくても、間違いなく動いているんだな、という確認はできます。
しばらく歩くと、少女は喉が渇いている事に気づきました。
気づいてしまうと、気になるものです。
もう、喉を潤したくてたまりません。
少女は後ろを振り向くと男に喉の渇きを訴えました。
「わかりましたお嬢さん。私が水を汲んできてあげましょう。それまでもうしばらく辛抱なさい。間違っても…」
男は近くになっている果実を指差して、
「ああいう実を口にしちゃいけませんよ?」
男はそれだけ告げると、歩き出してあっという間に見えなくなりました。
「この実がなんなのかしら?」
食べるなと言われると食べたくなるのが人情。
その果実はなんとも瑞々しくて、見れば見るほど美味しそうです。
触れると不思議に冷んやりして、いかにも喉の渇きが癒えそうに思われます。
「一つくらいならいいかしら」
少女は果実をもぐと、手の中でそれを弄びながら考えます。
ついには誘惑に負け、果実を口にいれました。
甘い甘い、とても美味しい果汁が口いっぱいに広がります。
「こんなに美味しいものを内緒にしようとしたなんて…嫌な男!」
少女はまた果実をもぎ、口にいれました。
ガサガサガサガサ。
少女の周りで複数の足音がします。
気づくと、少女は囲まれていました。
ウサギの仮面をかぶった、三人組に。
「ウサギが三か。これは間違いなくキ印だな」
いつの間に戻ったのか、それでも少女を助ける素振りを見せずに男はニヤニヤしています。
「なんなの?あんた達は?」
少女の問いに、ウサギの仮面は小さく首を傾げると、そのまま少女の腕を掴みました。
「嫌っ!」
少女が腕を振りほどきます。
するとどうでしょう。
ウサギの仮面の腕は少女の腕を握ったままもげ、ウサギの仮面は腕があった辺りを抑えながら地面を転げ回りました。
自分の手を見て驚きました。
まるで狼のように毛に包まれているのです。
少女の頭の中を無数のクエスチョンマークが覆います。
残り二人のウサギの仮面は左右から同時に襲いかかって来ました。
少女は急にしゃがみます。
その動きもいつもの自分には信じられないスピード。
勢い余ったウサギの仮面はお互いに嫌という程、頭を打ちました。
そこを見計らって、少女はウサギの仮面にビンタをします。
首がおかしな方を向き、ウサギの仮面は地面に倒れました。
「そろそろ助けに入るかな」
男は少女の口に何かを入れました。
今度は少女の口の中に、苦い苦い味が広がります。
なんだか気が遠くなって、しかし一瞬後に気を取り直すと、もう少女の手は毛に包まれていません。
「だから食べないように注意をしたのに」
男は大袈裟な溜息をつき、そしてニヤニヤ笑います。
レンズを通して見てみれば、遠くは近く、近くは遠く。
大は小なり、小は大なり。
あなたの瞳は小さくなって、そうかと思うと拡大されて。
布団をはねのけた少女は、あくびを一つすると、現実世界に帰って行きました。